つらねのため息@gooブログ

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可視化された戦後民主主義

2014-07-03 00:37:00 | 日本のこと
板橋拓己『アデナウアー』(中公新書、2014年)



通勤電車の中でポツポツ読んでいた、中公新書のコンラッド・アデナウアーの伝記を読了した。改めて感じたのはドイツ連邦共和国の「国父」が、保守の立場からとはいえ、はっきりとしたナチスの過去の克服への意思と自由民主主義への確信を持っていたことである。アデナウアーはアデナウアーなりの「自由」や「民主主義」理解を持ち、それを守るためにアメリカやフランスなどとの「西側結合」にまい進した。

翻って先日、集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈の変更を閣議決定した日本国の首相はどうであろうか。国の自存や「家族」「平和な暮らしを守る」という言葉はならんでも、「自由」や「民主主義」へのコミットメントは見えてこない(自身が総裁を務める政党の党名にもかかわらず…)。現在の安倍政権について考えるとき、この「自由」や「民主主義」といった価値観への関心の薄さが、最も危うい点であるように思う。彼らが「守る」というこの国は自由もなければ民主主義もない国かもしれないのだ。

だがしかし、そうした政権の姿勢に対して、多くの人が反対の声をあげている。各種の世論調査で「戦争に巻き込まれること」への不安を訴える声が多いのには驚いた。そこに表現されている素朴な一国平和主義は、恐らくは首相が大嫌いな戦後民主主義そのものだ。その当否はさておくとしても、いまだに多くの日本国民は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」しているのだ。

そして、逆説的ながら、政権の一連の策動が続いたおかげで、それに対して、永田町周辺で継続的に行われている抗議行動に参加しているのは、かつてのようなごく一握りの活動家の人たちだけではなくなった。これだけの規模の示威行動が継続的に行われていることは大きな意義を持つのではないだろうか。その理論的支柱にすら「虚妄」と断じられた戦後民主主義の実存が、可視化されつつあるように感じられてならない。

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