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夜汽車

夜更けの妄想が車窓を過ぎる

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2013年03月12日 16時08分45秒 | 日記
あの大災害が起こって2年。あれは近視眼的欲と先祖父祖諸先輩に対する不敬を以て売国政権を選んだ不遜な国民に対する日本神界からの叱責であったと私は思う。阪神淡路また然り。思うに日本人は辛うじて大峠を越えた。今、あの売国政権を、政権奪取の秘められた意図、経過一切を総括し明らかにしておくべきではないか?
 聖書に言う、”隠されているものは全て白日の元に実態が暴かれる”とはまさにこれからの時代を予告している。外交や政治家の”良識常識の仮面”をかなぐり捨てて罵詈雑言や危険な火遊びを白昼堂々と行なう隣人が出てきたではないか。日本人にして日本を転覆の危機に陥れた者、そのような言論を無神経に行なう者を公安機関は把握しているだろうか?
 これを言うと平和安全ボケナデナデ甘え中毒の人は危険な考えだと言うだろう。だが、昭和30年近くまで、私の身内は徳田球一に酷似しているせいで白バイに追跡されたことが何度もあったのだ。何時の頃からか日本人は”国益を損なう恐れ”に関して神経が鈍麻し出したのだ。
 カルト宗教エホバの証人を長くやったせいで旧約聖書を人より多く読んだ。そこに書いてあることが”日本人には全く不思議ではない”ことを当然と思っていた。人間の在り方、生活としてはさもありなん、と感じることが多かった。実は逆だと言うことを最近知った。我々はむしろ、レビ記に沿って生活し、申命記や列王、民数記などを行動の指針、規範として生きて来たのだ。
 ”この時代は何事にも証拠を求める”と、イエス・キリストは言って『信仰とは何か』を暗示した。解る者は今の世であればこそ僅少だろう。実証も論証も価値ある現実を創る、現象化させる、力はない。信仰のみが現象化して姿を現すのである。
 伊勢神宮に祀られている方が方便上の名前はともかく旧約聖書の神であるとの信仰を私は持っている。証拠はない。ただ、極めて否定し難い。論じる資料は少ないし資料そのものの証拠を言い出すと最早収拾がつかない。従って残るのは『信仰』でしかない。また、まさにその理由で日本神界は謎のままに置かれるであろう。
 それほど証拠が欲しいか?と神は言うだろう。そして欲するものは得られないだろう。唯に信仰のみが望む現実を創造するのだ。

 震災・津波のモニュメントに手を掛け体を預けて泣く母親の写真を見た。遥か九州の田舎に住んで隠者同然の私も思わず落涙を止めることが出来なかった。思うに、日本神界は物欲と安逸に目が眩んで売国政権に奔るまでに浅ましく堕落するであろう国民を見通していた。しかし、エデンに於いて人類創生の業に割り込んだ誹謗の不当性を全宇宙、全存在に向かって証明する為に用意された民族を・・・ちゃんと書いてある、神の一方的な寛容を以て・・・再生させる。
 2万人近い死者行方不明者、それに加えて多くの被災者は私の考えるところでは日本の神によって止むなく選ばれた。何の為に?”生き残ったお前たちは神の御用に選ばれて在る人々である、そのことを早々に思い出せ”との命令の元に。では波にのまれて逝った人々はどうなるのだろうか・・・”終わりの日にあなたはあなたの分を受ける”と旧約には書いてある。
 黙示録に言う”海はその中から呑み込んだ死者を出す”日の近からんことを祈る。