ラヂオデパートと私

ロックバンド“ラヂオデパート”におけるギタリストとしての津原泰水、その幾何学的な幻視と空耳。

SさんとKさん

2010-01-22 12:03:00 | マルジナリア
 純文学作家のSさんとKさんは仲が悪い。二人とも女流。
 僕から見て、オリジナリティではSさんの作品に分がある。しかしKさんのほうが大衆受けする。そしてSさんより若い。
 最近Sさんは、ある文壇バーへの出入りを禁じられたのだそうだ。店がお客を選ぶというのはたいへん珍しいことで、むかし唐十郎と大鶴義丹の親子が六本木のバーを滅茶苦茶にして出入り禁止を喰らったであるとか(大鶴氏の自伝に詳しい)、二階堂奥歯が自殺した際「原因究明」と称して騷ぎたてる客の一部を、彼女がアルバイトしていたですぺらが追い払ったという程度にしか、僕は実例を知らない。
 知らないバーでもないので、店主になにがあったのか訊いてみた。SさんがKさんに暴言を吐いたのだそうだ。
 ここで一行目に戻るのだが、SさんとKさんは初めて顔を合わせた晩から仲が悪い。なぜ断言できるか? 僕はそこに居た。海猫沢めろんも居たな、そう言えば。
 僕の居ない場でのやりとりは知らないが、僕に対しては双方が、相当に非道いことを云い続けている。意図あって具体的に書く。SさんはKさんを人格障害だと云い、KさんはSさんを気違いだと主張している。
 僕は双方の主張に、半分ずつ同意している。そしてそれらは、作家としての能力とは無関係だとも考えている。
 本当に店で暴言を吐いたのかとSさんを問い質すと、そういった言葉は使っていないと仰有る。編輯者の誰某と誰某も出入り禁止に同意しているといったニュアンスのことも聞いたので、一部のお客の総意なのだと納得したとも仰有る。
 新しい人物が出てきた。一人は僕の担当編輯者だ。電話して、Sさんの出入りを禁じるように云ったのかと問うと、冗談ではない、名誉毀損ものだと憤慨していた。既成事実に罅が入ってきた。

 酒の場である。誰がどんな暴言を吐いただなんて、正確に記憶している人の方が珍しい。何処でどんな口論が起きたといった情報は、のちの沸々たる怒りや場に居なかった者の同情が生んだ「創作」であることが、圧倒的に多いと僕は考える。
 また、SさんとKさんの周辺で、虚言癖という言葉が安易に飛び交っている実情を、僕はたいへん不快に思っている。虚言癖というのは、ある目的に沿って辻褄を合わせていく(記憶を変形させていく)習性を指すのであって、愚劣な口論の裁定に持ち出せるようなタームではない。「あの人には虚言癖がある」と主張する場合、自分にも同等の疑いがかかり、社会生活の大半を奪われる覚悟が必要だ。かつての僕がそうだったように。死んだ方がよっぽどましだと思うぞ。味わってみたまえ。生ける屍として生きてみたまえ。
 人は、自分の見たいものしか見えない。SさんとKさんの目に映っている景色は、同じ場に居ながらまるきり別物なのだ。擦り合わせられるものか。

 件のバーに、僕はここ十数年で数度しか顔を出していないが、店主が僕の作品をよく読んでくださっていて、上述のように「なにが起きたんですか」と問える程度の関係である。初めて連れていかれた時は感激したし恐縮もした。しかし出版社に付けて飲める程の格ではないし、自腹も辛い。編輯者が打合せの場として指定なさった時だけ、有り難く同行させていただく。
 頻度は少ないが、僕は昔からそこに居る。地獄を這い回った挙句、そこで読者に出逢った。読んでいてくださった、と泣いた。
 だから、来年は何処で何をやっているのか知れない人達に、そこで椅子取りゲームをされても困るんだよ。
 僕らにとって小説は生活であって遊びではない。
 SさんKさんの双方、彼らを取り巻く人々にも云いたいのだが、君達がいま夢中になっているのは、読者を圧倒する優れた小説群をものした後の、余生におけるゲームだ。
 残念乍ら、両者とも未だそこには達していない。文句があるか? 読者に訊いてみろ。
 君達に時間はない。
 酒場で粋がっている場合か。

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