ラヂオデパートと私

ロックバンド“ラヂオデパート”におけるギタリストとしての津原泰水、その幾何学的な幻視と空耳。

あとがきまで

2010-07-09 11:59:00 | マルジナリア
 お久し振り。
『琉璃玉の耳輪』のあとがきを書いていて、自分のなにか、凄絶なまでの尾崎翠への誤解に気付いたような想いがし、昨年、 KAWADE道の手帖の一冊『尾崎翠 モダンガアルの偏愛』に寄せた短文を読み返した。
 よく分かっていないなりに懸命に考察した痕跡は散見されるから、これはこれで良しとするか。

どっぺるげんげる翠さん――分析的漫想

 小野町子は複数の「恋」をする(第七官界彷徨、歩行)。現代でいえば、好きな俳優の載った雑誌をこっそり買う程度の、淡々しいそれに過ぎない。現実の断片を小説や映画の場面に重ね、「これが恋か」と納得して、いつまでも同じ記憶を撫でまわすのがアヴァンチュールであった時代に相応しいと、羨むでもなく哀れむでもなく、ただ思う。
 尾崎翠が、そんな時代に生まれつつも、みずからの運命を支配せんと試みた女傑であったことに、異論を差し挟む余地はなかろう。掛値なしの文才。しかし「社交の神」が「匙かげんを誤った」人でもあったとか(こほろぎ嬢)。前半生を賛美者を求めての彷徨に費やしたものの、かろうじて見出せた確実な一人は、自分――尾崎作品の多くに通底する物悲しさは、彼女自身のそういった心理に起因しているような気が、このところしている。
 だってそういえば――詩人に憧れる町子が若き日の尾崎であるとして、彼女に「恋」をするのは、男装の尾崎とさえ目しうる詩人の土田九作じゃないか(地下室アントンの一夜)。小説の人物はしょせん作家の分身に過ぎないとはいえ、この閉じっぷりはどうだ? ケルト伝説の記述者フィオナ・マクラウドと詩人ウィリアム・シャープの「どっぺるげんげる」的交流――実際、同一人物である――の逸話を好み、重ねて取り上げた点にも、同様の心理がちらついてやしないか(こほろぎ嬢、神々に捧ぐる詩)。避難所としての自分自身。

 既存の物語の再生産の域を出なかった尾崎の作品世界が、「第七官界彷徨」で俄然ユニークな構造を呈した理由を、ある人は成熟と、ある人はフェミニストとしての覚醒と述べるだろう。僕はといえば、そう、焦臭くなっていく世相、彼女自身の諦観、および薬物による譫妄、とでも暫定的に並べておこう――譫妄というのは、遠近感に乏しい独特な文体からの単純な類推である。薬物が傑作を書かせたなどと云う気は毛頭ないので、ひとつ誤解なきよう。
 いっそ時流に見切りをつけた都会の隠遁者の立場から、矮小な世界を肯定する所詮矮小な世界――の連鎖を描いていこうというのが、「第七官界彷徨」のそもそものアイデアではなかったかしらん。的外れかな。人物はみな記号的で、お互い、予め理解し合っている。まるで電気回路のような補完だ。尾崎その人の、単純分割なのだと考えれば得心がいく。
 そんな自棄【やけ】と云えなくもない創作姿勢が、もともと多趣味多才な彼女のエゴ同士の化合を促して、詩情の花火を炸裂させたのだとしたら、詩神は思わぬところに潜んでいるものだ。「第七官界彷徨」や「歩行」はもちろん、同時期の「途上にて」も閃光を秘めている。
 あとがあまり続かなかった理由は、そう、尾崎の自己肯定はあくまで執筆手段であり、情緒的には肯定にくい現状への、疑念を押し殺したところに成立していた。ゆえに肯定の連鎖が、彼女の実相に触れるか触れないかのところで、連作は行き詰まったのだ――とでもすれば辻褄が合うが、なんだか理に落ちてしまった。

 尾崎がより若い頃、映画原案として書いた「琉璃玉の耳輪」を、いま小説化している。経緯を語ると長くなるので、ここでは割愛。
 彼女が阪妻プロの公募に応じた原稿で あくまで案――設計図――だから、完成度はそもそも目指されていない。配役先行のいわゆる「あて書き」で、整合性よりもスタアの見せ場が優先されている。あとは現場でなんとかして、という剛腕プロデューサー気取りを垣間見たようで、最初は驚いたが、今はそちらこそが本来の翠だと感じている。しゃんしゃんした人だったんだろうなあ、とか。
 同作は阪妻プロで注目を集めたものの、映画にはならなかった。しかし残された設計図は、自立への希望に燃える凛乎たる女性の姿を、鮮やかにスナップしている。平成は遙か未来、昭和もまだ二歳だった頃のこと。

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