ラヂオデパートと私

ロックバンド“ラヂオデパート”におけるギタリストとしての津原泰水、その幾何学的な幻視と空耳。

『琉璃玉の耳輪』あとがき草稿の一(冒頭訂正分)

2010-07-13 11:54:00 | マルジナリア
 昭和二年二月、尾崎翠は映画脚本「琉璃玉の耳輪」を、阪東妻三郎プロダクションの公募に応じるために書いた。新聞広告から〆切まで、わずか一个月というせっかちな募集であった。構想に要する時間も勘案すると、本来の尾崎は速筆の人だったと想像される。
 プロダクション所属の女優五名のうち一名を主演者とする(甲種)か、五名全員を出演させる大作(乙種)かの選択において、尾崎は後者を選んでいた。甲種は一等二等三等を合わせると合計二十五篇が入賞する。そのかわり賞金はそれぞれ「二百円まで」「百円まで」「五十円まで」と曖昧である。乙種は一等二等各一篇の狭き門。しかし賞金は「三百円」「二百円」と明言されていた。乙種の規定に従ったところから同作は、泉春子(茘枝)、五味国枝(瑶子)、英百合(瑛子)、森敦子(シウ子)、高島愛子(明子)というプロダクション所属の女優たちを想定した、いわゆるアテ書きとなっている。
 原稿は丘路子という筆名で応募されたが、入賞には至らなかった。ただし「プロダクションが甲種(高島愛子主演)入賞に値するとして推敲を頼んできた」という証言もある。推敲された第二の「琉璃玉の耳輪」が存在した可能性も皆無ではないが、ともあれ尾崎翠脚本の映画が誕生する日は訪れなかった。
 プロダクションから返却された原稿は、尾崎と同居していた日本女子大時代からの親友、松下文子の手許に保管された。これが遂に一般へと開帳されたのは、尾崎の病歿から二十七年を経て出版された『定本尾崎翠全集』(稲垣眞美編)においてである。執筆から早六十年もの年月が過ぎ去っていた。

※長年抱えてきた疑問の数々に、簡明に回答してくれたのは、『尾崎翠への旅――本と雑誌の迷路のなかで――』(小学館スクウェア)である。著者日出山陽子さんへの感謝を表すと共に、尾崎とその時代を深く知りたい読者には、良書として推薦したい。

『琉璃玉の耳輪』あとがき草稿の三

2010-07-12 00:00:00 | マルジナリア
 本書はいちおう尾崎翠の映画台本に準拠しているが、二十一世紀の娯楽小説として現代の市場に流通させるべく、各所に大胆な改変を加えてある。特に「秋」以降に於いては、僕の小説にときどき尾崎の文脈が紛れ込む、というくらいに大きく逸脱してる。
 これを古典への冒涜とお感じの読者もおられよう。最善の策ではなかったかもしれない。しかしかの時代の、かの作家の息吹を、なんとかして今の世に伝えんとする、編輯者たちと一作家の真摯な思いの結実であること、御理解いただけたならば幸甚だ。

 登場人物表にあるうち、必要上、僕が創出した人物は、東京探偵社の守衛「萬」、山崎の下女「寅」、好奇座の座長「金丸砂夫」、芸人の「木助」、新橋の医師「有馬」、物理学者「アルフレッド・エプスタイン」、そして東京探偵社の代表「唐草七郎」である。
 尾崎台本に登場はするが名前がなく、僕が名付けた人物に、掏摸の「北前龍子」と「若い三人の紳士(甲賀、乙津、丙部)」がいる。
 芸人「八重子」と刑事「田邊」も、名前が出てくるだけ、といった感じの人物だが、綿密な肉付けをほどこしたうえで、陰の主人公と云えるくらいにまで活躍してもらった。
「櫻小路伯爵」と「黄陳重」は、尾崎台本にもそれなりに重要な役どころで登場する。しかし本書において、その位置付けはまったく違っている。

 時代背景は、あえて台本執筆の翌年、昭和三年からその翌年とした。かりに万事順調に映画化されていたなら、三年の公開になったろうとの想像からだ。
 作中に登場する様々な疑似科学はその一切、尾崎の着想を現代に通用しやすくするため、僕がでっち上げたものとお考えいただいて差し支えない。たとえば現代の読者の前で、単純な男装女装で性別を騙れるとするのは勿論のこと、それを物語の重要な仕掛として機能させるのは、大変に難しい。工夫が必要だった。
 他方、旧き佳き時代ならではの教養を偲ばせる、季節の美しい描写などは、尾崎の文章をそのまま写さざるを得なかった。僕にはとても書けなかい。同様の理由で、誤植とも判断されかねない当時独特の表現や、尾崎特有の漢字選びも可能なかぎり残した。また「今日の人権意識に照らして不当、不適切と思われる」表現の可否は、尾崎がどういった意図で使用しているかを汲み、判断した。

『琉璃玉の耳輪』あとがき草稿の二

2010-07-11 22:02:00 | マルジナリア
 二階堂奥歯という筆名で雑誌「幻想文学」にたびたび書評を寄せ、インターネットウェブにも『八本脚の蝶』という日記を綴って、おおいに人気を博していた若い女性がいる。僕はたまさか面識があり、彼女がある新聞社に就職して書籍編輯部員になられると、書き下ろし長篇を依頼された。
 神経症に起因する遅筆から各社に不義理を重ねていた僕は、「五年は待ってほしい」と答えたのだが、「どうしたら早く書いてもらえますか」と食い下がられた。二十代とは思えぬ博覧強記の彼女に一泡吹かせ、ついでに依頼を諦めさせるべく、「尾崎翠の『琉璃玉の耳輪』を読んでいますか」と訊いた。彼女は尾崎翠を知っていたが、同作までは読んでいなかった。「あれを小説にする仕事くらいじゃないと、優先できないよ」と無理難題のつもりで云った。
 ところが二階堂さんはさっそく精読、同作の秘めたる可能性を確信して、果敢にも尾崎の著作権継承者に、小説化の許諾を求めてしまったのである。しかもそれは快諾された。僕は逃げられなくなった。
 小説版と云うべきか、より限定的に津原版と申すべきか、ともかく本作の根幹を成すに至ったアイデアを僕が思い付き、携帯電話で報告したときの、彼女の喜びようは忘れられない。僕は母の見舞の途上であった。「琉璃玉に隠されているのはね――」と、ほんの一言二言を述べただけで、彼女は一切を理解してくれた。彼女がいかに仔細に尾崎台本を読み込んでいたかを、僕は思い知った。
 しかし二階堂さんが、僕の原稿を目にする日は訪れなかった。僕が尾崎の文章を咀嚼しきれず、冒頭、緑洋ホテルのくだりで難儀していた段で、彼女の訃報が届いた。

 このままお蔵入りかと思われた小説『琉璃玉の耳輪』が不意に息を吹き返したのは、バジリコという零細出版社から出した『ブラバン』という小説が、思いがけず売上げを伸ばしたことに端を発する。
 余談ながら僕が『ブラバン』を書いたのは、『少年トレチア』という作品に惚れ込んでみずから執筆依頼に訪れたバジリコの社長が、なんと偶然にも同じ高校、同じ吹奏楽部の大先輩だったからだ。本来の依頼のほかに、「その前哨戰として吹奏楽の話も」とごり押しされたものが、結果として売れた。まさか評判を得て大手の文庫にまで入るとは、誰も夢にも思っていなかった。
 売上げに勢いづいたバジリコは、新たに自社サイトでの連載を依頼してきた。このとき僕の胸中を去来したのが、忘れようにも忘れられない、尾崎と二階堂さん、双方の御遺族への不義理である。担当の安藤さんに相談してみると、これまたおおいに面白がられ、あらためて各所からの許諾を取り付けてくださった。
 本書『琉璃玉の耳輪』は、そのようにして連載開始と相成ったバジリコのウェブサイト版を底本としている。二階堂さんの死から数えても、足掛け五年が既に経過していた。

 連載は二年近くに及んだ。最終二章「冬」「エピログ」を残したところで、今度は僕の母が死の床についてしまい、あとは、色々と落ち着いたあとに書き下ろそうという話となった。
 ところがこのあいだにバジリコが、一時的に経営縮小せざるを得なくなった。僕はフリーランスとなった安藤さんと共に、原稿の引受け先を探した。結果として河出書房新社が名乗りをあげてくださり、「冬」の後半と「エピログ」の執筆、および完成像が見えてきたところでの既存部分の改稿は、雑誌「文藝」の尾形さんの許でおこなった。
 私事をつらねてしまい、尾崎翠にしか興味をお持ちではない読者には恐縮ながら、以上の経緯を省いては、本書の成立ちはどうにも説明しがたい。どうか御海容いただきたい。

『琉璃玉の耳輪』あとがき草稿の一

2010-07-10 23:03:00 | マルジナリア
 昭和二年、尾崎翠は映画台本「琉璃玉の耳輪」を、阪東妻三郎プロダクションの公募に応じるために書いた。日米合弁による映画会社「阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画」の短い活動機関と重なっているので、ここでの制作を前提とした、現代劇の公募が大々的におこなわれたものと想像される(要確認)。そういった経緯から同作は、五味国枝(瑶子)、英百合(瑛子)、森敦子(シウ子)、泉春子(茘枝)、高島愛子(明子)という当代の人気女優たちを想定した、いわゆるアテ書きとなっている
 仕上がった原稿は丘路子という筆名で応募され、高い評価を得たようだ。しかし間もなく合弁が解消されたこともあり、映画としての制作が決する日は訪れなかった。返却された原稿は、尾崎と同居していた日本女子大時代からの親友、松下文子によって保管され続けた。
 これが遂に一般へと開帳されたのは、尾崎の病歿から二十七年を経て出版された『定本尾崎翠全集』(稲垣眞美編)においてである。執筆から早六十年もの年月が過ぎ去っていた。

 映画界にとってはずぶの素人の筆による、必ずしも完成度が高いとはいえない同台本が、高評を得た要因の一つとして、狂言回しが女探偵という新奇な機軸があったろう。
 江戸川乱歩「D坂の殺人」で明智小五郎が初登場したのは、大正十四年。「琉璃玉の耳輪」はそのわずか二年後の作だ。ちなみに日本初の探偵事務所、岩井三郎探偵事務所において現実の女探偵(天野光子)が誕生したのは、「琉璃玉」に遅れること三年、昭和五年のことである。尾崎翠という書き手がいかに時代に敏感で、ときには先行していたかが、ここに知れる。
 女探偵のみならず、見世物一座出身の女掏摸、阿片窟の金髪売笑婦、男装を強いられた美少女、変態性慾の炭鉱主等々、眩いばかりに毒々しい人物が次から次へと登場する。ところが登場したあとはといえば、非生産的な寸劇が重なるばかりで、ダイナミックな流れは一向に生じない。
 強烈な一例をあげてみよう。
 人捜しを探偵に依頼した貴婦人、しかし偶然、探偵よりさきに目的の人物を見つけてしまう。探偵に手紙でそのむねを伝える。しかし探偵は、自力で解決したいからと、その人の居場所を知らせぬように頼むのだ。そして職務を果たすために、なんと依頼者の貴婦人を尾行する――。
 人物の形骸化した行動だけが残存する、モンティ・パイソン裸足のナンセンスであり、物語としては完全に破綻している。尾崎自身もそれを自覚していると分かる文章が散見されるのだが、根本的な改稿は、なぜか試みられていない。応募の〆切が迫っていて投げ遣りになっていた、とも想像できる。「いかにも私らしい」とほくそ笑んで、あえて歪みを温存したようにも感じられる。
 尾崎のこうしたスタティックな肩透かし癖が、やがて大傑作「第七官界彷徨」や「歩行」に於いて、無類飛切りの花を咲かせたのは事実ながら、「琉璃玉の耳輪」に初めて目を通したときの僕は、単純に「惜しい」と感じた。山海の素晴しい食材を取り揃えておきながら、奇天烈な調理法で、その旨さをまるごと覆い隠しているような気がしたのだ。
 この所感が、かえって「琉璃玉の耳輪」という題名を、僕の胸に深く刻む結果となった。

あとがきまで

2010-07-09 11:59:00 | マルジナリア
 お久し振り。
『琉璃玉の耳輪』のあとがきを書いていて、自分のなにか、凄絶なまでの尾崎翠への誤解に気付いたような想いがし、昨年、 KAWADE道の手帖の一冊『尾崎翠 モダンガアルの偏愛』に寄せた短文を読み返した。
 よく分かっていないなりに懸命に考察した痕跡は散見されるから、これはこれで良しとするか。

どっぺるげんげる翠さん――分析的漫想

 小野町子は複数の「恋」をする(第七官界彷徨、歩行)。現代でいえば、好きな俳優の載った雑誌をこっそり買う程度の、淡々しいそれに過ぎない。現実の断片を小説や映画の場面に重ね、「これが恋か」と納得して、いつまでも同じ記憶を撫でまわすのがアヴァンチュールであった時代に相応しいと、羨むでもなく哀れむでもなく、ただ思う。
 尾崎翠が、そんな時代に生まれつつも、みずからの運命を支配せんと試みた女傑であったことに、異論を差し挟む余地はなかろう。掛値なしの文才。しかし「社交の神」が「匙かげんを誤った」人でもあったとか(こほろぎ嬢)。前半生を賛美者を求めての彷徨に費やしたものの、かろうじて見出せた確実な一人は、自分――尾崎作品の多くに通底する物悲しさは、彼女自身のそういった心理に起因しているような気が、このところしている。
 だってそういえば――詩人に憧れる町子が若き日の尾崎であるとして、彼女に「恋」をするのは、男装の尾崎とさえ目しうる詩人の土田九作じゃないか(地下室アントンの一夜)。小説の人物はしょせん作家の分身に過ぎないとはいえ、この閉じっぷりはどうだ? ケルト伝説の記述者フィオナ・マクラウドと詩人ウィリアム・シャープの「どっぺるげんげる」的交流――実際、同一人物である――の逸話を好み、重ねて取り上げた点にも、同様の心理がちらついてやしないか(こほろぎ嬢、神々に捧ぐる詩)。避難所としての自分自身。

 既存の物語の再生産の域を出なかった尾崎の作品世界が、「第七官界彷徨」で俄然ユニークな構造を呈した理由を、ある人は成熟と、ある人はフェミニストとしての覚醒と述べるだろう。僕はといえば、そう、焦臭くなっていく世相、彼女自身の諦観、および薬物による譫妄、とでも暫定的に並べておこう――譫妄というのは、遠近感に乏しい独特な文体からの単純な類推である。薬物が傑作を書かせたなどと云う気は毛頭ないので、ひとつ誤解なきよう。
 いっそ時流に見切りをつけた都会の隠遁者の立場から、矮小な世界を肯定する所詮矮小な世界――の連鎖を描いていこうというのが、「第七官界彷徨」のそもそものアイデアではなかったかしらん。的外れかな。人物はみな記号的で、お互い、予め理解し合っている。まるで電気回路のような補完だ。尾崎その人の、単純分割なのだと考えれば得心がいく。
 そんな自棄【やけ】と云えなくもない創作姿勢が、もともと多趣味多才な彼女のエゴ同士の化合を促して、詩情の花火を炸裂させたのだとしたら、詩神は思わぬところに潜んでいるものだ。「第七官界彷徨」や「歩行」はもちろん、同時期の「途上にて」も閃光を秘めている。
 あとがあまり続かなかった理由は、そう、尾崎の自己肯定はあくまで執筆手段であり、情緒的には肯定にくい現状への、疑念を押し殺したところに成立していた。ゆえに肯定の連鎖が、彼女の実相に触れるか触れないかのところで、連作は行き詰まったのだ――とでもすれば辻褄が合うが、なんだか理に落ちてしまった。

 尾崎がより若い頃、映画原案として書いた「琉璃玉の耳輪」を、いま小説化している。経緯を語ると長くなるので、ここでは割愛。
 彼女が阪妻プロの公募に応じた原稿で あくまで案――設計図――だから、完成度はそもそも目指されていない。配役先行のいわゆる「あて書き」で、整合性よりもスタアの見せ場が優先されている。あとは現場でなんとかして、という剛腕プロデューサー気取りを垣間見たようで、最初は驚いたが、今はそちらこそが本来の翠だと感じている。しゃんしゃんした人だったんだろうなあ、とか。
 同作は阪妻プロで注目を集めたものの、映画にはならなかった。しかし残された設計図は、自立への希望に燃える凛乎たる女性の姿を、鮮やかにスナップしている。平成は遙か未来、昭和もまだ二歳だった頃のこと。