昭和二年二月、尾崎翠は映画脚本「琉璃玉の耳輪」を、阪東妻三郎プロダクションの公募に応じるために書いた。新聞広告から〆切まで、わずか一个月というせっかちな募集であった。構想に要する時間も勘案すると、本来の尾崎は速筆の人だったと想像される。
プロダクション所属の女優五名のうち一名を主演者とする(甲種)か、五名全員を出演させる大作(乙種)かの選択において、尾崎は後者を選んでいた。甲種は一等二等三等を合わせると合計二十五篇が入賞する。そのかわり賞金はそれぞれ「二百円まで」「百円まで」「五十円まで」と曖昧である。乙種は一等二等各一篇の狭き門。しかし賞金は「三百円」「二百円」と明言されていた。乙種の規定に従ったところから同作は、泉春子(茘枝)、五味国枝(瑶子)、英百合(瑛子)、森敦子(シウ子)、高島愛子(明子)というプロダクション所属の女優たちを想定した、いわゆるアテ書きとなっている。
原稿は丘路子という筆名で応募されたが、入賞には至らなかった。ただし「プロダクションが甲種(高島愛子主演)入賞に値するとして推敲を頼んできた」という証言もある。推敲された第二の「琉璃玉の耳輪」が存在した可能性も皆無ではないが、ともあれ尾崎翠脚本の映画が誕生する日は訪れなかった。
プロダクションから返却された原稿は、尾崎と同居していた日本女子大時代からの親友、松下文子の手許に保管された。これが遂に一般へと開帳されたのは、尾崎の病歿から二十七年を経て出版された『定本尾崎翠全集』(稲垣眞美編)においてである。執筆から早六十年もの年月が過ぎ去っていた。
※長年抱えてきた疑問の数々に、簡明に回答してくれたのは、『尾崎翠への旅――本と雑誌の迷路のなかで――』(小学館スクウェア)である。著者日出山陽子さんへの感謝を表すと共に、尾崎とその時代を深く知りたい読者には、良書として推薦したい。
プロダクション所属の女優五名のうち一名を主演者とする(甲種)か、五名全員を出演させる大作(乙種)かの選択において、尾崎は後者を選んでいた。甲種は一等二等三等を合わせると合計二十五篇が入賞する。そのかわり賞金はそれぞれ「二百円まで」「百円まで」「五十円まで」と曖昧である。乙種は一等二等各一篇の狭き門。しかし賞金は「三百円」「二百円」と明言されていた。乙種の規定に従ったところから同作は、泉春子(茘枝)、五味国枝(瑶子)、英百合(瑛子)、森敦子(シウ子)、高島愛子(明子)というプロダクション所属の女優たちを想定した、いわゆるアテ書きとなっている。
原稿は丘路子という筆名で応募されたが、入賞には至らなかった。ただし「プロダクションが甲種(高島愛子主演)入賞に値するとして推敲を頼んできた」という証言もある。推敲された第二の「琉璃玉の耳輪」が存在した可能性も皆無ではないが、ともあれ尾崎翠脚本の映画が誕生する日は訪れなかった。
プロダクションから返却された原稿は、尾崎と同居していた日本女子大時代からの親友、松下文子の手許に保管された。これが遂に一般へと開帳されたのは、尾崎の病歿から二十七年を経て出版された『定本尾崎翠全集』(稲垣眞美編)においてである。執筆から早六十年もの年月が過ぎ去っていた。
※長年抱えてきた疑問の数々に、簡明に回答してくれたのは、『尾崎翠への旅――本と雑誌の迷路のなかで――』(小学館スクウェア)である。著者日出山陽子さんへの感謝を表すと共に、尾崎とその時代を深く知りたい読者には、良書として推薦したい。