Dの嵐 

だいさくな日々

携帯から

2013-04-11 13:02:43 | Weblog
無気力?気持ちがなんだか空っぽみたいな感じです。m(__)m

今日はお店を休んで彼のところへついててやろうと思って(^_^;)

時間が過ぎても布団に入っても、あくびがどんなにでても、眠れない(^_^;)

(涙)も出てこない冷たい僕なのか?出るのはため息とあくび(^_^;)


考えるのは、田中のことばかり。何を今さらって思えば思うほど、眠れない。


きっと彼が 罰を与えているんだろうなあ(笑)

落差

2013-04-11 03:18:50 | Weblog

もう昨日に成るのだろうけれど 以前僕の御店をオープン時手伝ってくれてた
そして 高校時代からの同級生 昔は僕達初代ある君セカンドのベーシスト
僕の中では 巨星とでも言うか 田中 雅彦 君が 亡くなった
彼とは高校3年間はもとより それ以降ずっと付き合ってきた
高校卒業時 瀬川氏と 田中氏と 僕と3人で 神奈川県へ 文通相手に逢いに行った
普通科のアイドルや 商業化のマドンナを 僕の文通相手から両名に紹介して 彼等も文通をさせた
そして 大学に入る前の春休み 新幹線も未だ岡山までしか来て無くて 岡山から3人旅で神奈川へ
相模原の旅館に泊って 夜 居酒屋で野目もしないビールを3人で飲んで パチンコ屋へ入って
たった1杯のビールで 二日酔いなどをして 翌朝電車に乗り込み 其の文通相手と初対面
事前に見せられていた 写真と実物のギャップに 3人は意気消沈 早く東京から広島に帰ろうと相談した
横浜のスケートリンクへ6人で言ったけれど 田中氏と僕は 手も繋ぐことなく 帰りを急いだ事を思い出した 
当時は僕が一番ダサくて(今もだけれど) 彼と瀬川氏はかなりモテていた

大学に入学して近畿大学は記憶が確かならば4月15日が入学式だったと思うのだが
翌日の16日から彼は何故か僕の下宿に ベースを持って 毎日大阪芸大生なのに 僕の下宿に寝泊まり
これも記憶が確かならば 11月の3日大学祭の後夜祭まで彼は僕の下宿に居候
勿論週末の土曜日には芸大へ帰って洗濯ものをちゃんとして 新しい物を僕の下宿に持参
3畳一間の僕の部屋で 夏の暑い時も一枚の布団に 身体を縦にして眠った
下宿の伯父さんが 大のギャンブル嫌いで 麻雀パイも消しゴムを切った様な音のしないパイを買ってきて
僕が下宿へ帰ると 下宿の先輩や同級生達と何故か麻雀を田中氏がしていた
勿論 風呂屋も(当時は銭湯だったが) 下宿人の様な顔をして一緒に行っていた
ある夏明けの日 下宿代も払わない田中氏を 下宿のおばさんが呼ぶ声
「田中さん~ ご飯出来てるけど 持ってあがろうか?(2Fに間借りしていた僕の部屋)」
すると田中氏は 「降りて食べます」 と 僕達と同じ食卓へ堂々と座ってショウバン

27歳の時 福山市立短期大学(現在は4年制)の湖水祭と言う文化祭のゲスト出演である君セカンド2時間コンサート
ベーシストで付いてきてくれた田中氏は 声を発さず 自己紹介時 初めて声を発するが・・・
女子大生に 退かれてしまい あえなく撃沈 それ以来公の場での演奏はしなくなった

おっと忘れてはいけない 丁度 あなすん という企画事務所に入って音楽活動をし始めた22歳頃
彼は当時付き合っていた女の子の希望で 大阪の建築専門学校へ芸大を止めて入学(後 別れたけれど)
そして 彼は僕達がプロ活動に入った事を知って 学祭のゲストに呼んでくれた 
当時にしては 破格のギャラで ベースを田中氏以外の子が僕達の手伝いをしていてくれたのに
3人でなんと10万円ものギャラ 3人で分配したものの 其のベースの子が大奮発
梅田の千船と言う駅から 近大近くの長瀬まで タクシーで帰ろうと言う始末 リッチな気分を味わった
長瀬へ着いてからも その子のおごりで 王将餃子 5人前と天津麺大盛りと白ご飯も 奢ってもらった

そして 二人とも三原に帰省して色んな事が有った
書き出せばきりがないけれど 書き出せば・・・書き出せば・・・悲しさがこみあげてくる

田中よっ 未だ55歳だぞ やりたい事 沢山有っただろうに
少し急ぎ過ぎたなっ 今はもうゆっくりしててくれよっ そしてベース練習しててくれ
僕達が又会えた時は 一緒にバンドやろうなっ 勿論一発目は

戦争を知らない子供たち   そして 二つ目は    神田川   そして 三つ目は オリジナルの出逢いのテーマだぞ
四つ目は   移り行く季節には   五つ目は    恋をしよう   だぞ 

ちゃんと練習しとけよっ 解ったなっ
お前のベース フェンダーのプレシジョンベースでなっ
ゆっくりでいいから 頼んだぞ 田中 有難う