9月1日まで松本市立博物館において特別展「地獄の入り口 ― 十王のいるところ ―」が開催されている。間もなく終了になるということで、特別展を訪れた。同じような企画展示があちこちで行われていて、9月末まで開催されている「地獄へようこそ 鬼と亡者と閻魔の世界」は三重県総合博物館で開催されている。
松本市立博物館の展示は18点。駒ヶ根市光前寺の「地獄十王図」と、牛伏寺の「奪衣婆坐像」は県宝である。特別展が行われている2階フロアーで目を引いたのはパンフレットに強烈なイメージを与えている放光庵の閻魔王坐像と、奥まったところに並んでいる牛伏寺の十王関係の像だろう。牛伏寺のものは制作年代が古いものの、県宝指定されている奪衣婆はほかの像とは趣が異なり、時代が違うのだろうとわかる。地蔵菩薩半跏像もほかの像とは少し異なるが、奪衣婆ほどではない。奪衣婆については胎内の墨書銘によって応永29年(1422)波多腰清勝によって造立されたという。もとは小池の牛伏寺大門の地蔵堂にあったものと言われ、十王像もそうだという。地蔵菩薩にも銘があるようだが、ほかの十王像については正確な年代ははっきりしないようだ。とはいえ、十王の全てが揃っていて、圧倒されるその大きさは、「なぜ奪衣婆だけ県宝なのか」と言われても仕方ないほど、価値ある存在と思う。気になったのはそれら十王のうち、閻魔王が少し大きめに造られていることだろうか。十王で製作されたもので十王が意識的に造られている例は江戸時代中期以降のように思う。そうした中で牛伏寺の十王における閻魔王の存在はどのような位置づけであったのか。そもそもこの大きさの十王が庶民に近い堂にあったというあたり、十王の存在を知る上で興味深い点である。
十王像は木造7点、石造5点(1点はパネル)が展示されている。伊那谷ように石造の十王があるわけではないが、5点のうち3点は個人所有という。松本では廃仏毀釈か激しかったといわれるが、十王信仰が衰退していたこともあって、個人の手に渡っている物が多いのだろう。したがって存在が知られていない石造十王像があっても不思議ではない。旧四賀村の2点は石質が砂岩で、摩耗が進んでいる。左岸の十王像は、あまりお目にかかっていなかったので、意外であった。和田の真光寺と個人蔵のためかどこのものとも明示のなかった石造十王像は、安山岩系であった。
もうひとつの眼を引いた放光庵の閻魔像は十王に追加される形で閻魔王が存在していて、造立年代は一そろいの十王像より後年にあたるのだろう。わたしの住む近くにある清泰寺の閻魔王は放光庵のものよりもっと巨大であるが、表情はこちらの方が圧倒されるかもしれない。一緒に訪れた人たちの中で話題に上っていたのは、長野市立博物館に寄託されているという「熊野観心十界曼荼羅」の掛軸であった。この曼荼羅図がどのように利用されていたのか、みなさんの想像の豊かさでいろいろ気づかされた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます