朝日村下古見阿弥陀堂跡「阿弥陀座像」
朝日村下古見阿弥陀堂跡「青面金剛」
最近「十王」に関する原稿をひとつまとめたところだが、実は長野県内の十王信仰の全容にも触れようと思っていたのだが、そこまでたどり着けず、今少しずつではあるものの、県内の十王についても調べているところ。どうも伊那谷ほど十王信仰が盛んなところは県内にはないようだが、以前栄村の十王堂について触れたとおり、栄村の志久見川沿いの集落には十王堂が多く、十王が残されている様子がうかがえた。けして無いわけではなく、十王の存在はそこそこ認められている。そして現在、松本市立博物館では「地獄の入り口―十王のいるところ―」をテーマにした特別展が開催されている。もちろんそこでも十王が触れられていて、松本と言えば城下の入り口に十王が祀られていたことでよく知られている。
さて、今盛んに訪れている朝日村には「十王」というものは存在しないが、関係するものとして奪衣婆が単独で残されている事例か見られる。そのひとつである下古見のかつて阿弥陀堂があったといわれるところに奪衣婆があると『朝日村石造文化財』で知り、ちょうど近くを歩いたため訪れてみた。前掲書は朝日村教育委員会が昭和53年に発行したもので、刊行時期としては県内では早い方のものである。したがってほかの石造文化財の報告書に比べると構成が独特である。写真とともに銘文などが併記されていて、一覧表とはなっていない。またとても珍しいのは、その解説内に石質が加えられていることだ。近年自然石道祖神に関係してその石質について注目していただけに、石質を示した報告書に初めてお目にかかって驚いた次第。
下古見の阿弥陀堂跡にあると言われる奪衣婆を求めたわけであるが、そこには奪衣婆らしき像はなかった。別のところに移動されてしまったのかどうかは定かではないが、その代わりに石造の阿弥陀座像があった。記載間違いかとも思ったのだが、前掲書に掲載されている写真とは異なる。明らかに現在あるものは阿弥陀座像であって、前掲書の写真は奪衣婆である。そもそもこの阿弥陀堂跡にあると言われるほかの石造物はすべて揃っていたが、奪衣婆だけは違っているのである。加えて前掲書にはけっこう記載間違いが多く、このことはかつて「銘文の引用という迷路・後編」で触れた。同じ上古見にある道祖神の銘文について触れたものであった。今回の阿弥陀座像の記載はないとともに、ここにある青面金剛像について前掲書では「千手観音像」と紹介している。紹介されている像の銘文として「元禄十四年十二月八日 古見十二人有志」と紹介している。実際は青面金剛であり、銘文は「元禄十四辛己天十二月八日 古見村施主十二人」とある。ほかにそれらしい千手観音があるのか、と探したものの、それらしいものはなく、おそらく前掲書で触れている千手観音が青面金剛であることは確かなよう。
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