日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

桑原隲蔵「支那人の妥協性と猜疑心」

2022-01-05 21:18:19 | 中国・中国人


 支那人の妥協性と猜疑心

   桑原隲蔵




         緒 言

 日本と支那とは、いはゆる唇齒輔車相倚るべき國で、勿論親善の間柄でなければならぬ。
兩國の親善を圖る爲には、兩國人が互にその相手の氣質を理會して置く事が、一番必要と思ふ。
吾が輩はかかる見地から、歴史的に支那人の氣質を多少研究しかけて居る。
茲に掲ぐる支那人の妥協性と猜忌心に關する論文も、實はその研究の一端である。

     

 既に60年以前に、ロンドンタイムスの支那通信員クックが切言した如く、
種々の原因があつて、支那人の氣質を正しく理會することは、容易の業でない。
從つて吾が輩の支那人氣質に對する見解も亦、或は正鵠を失した所あるかも知れぬ。
この點は豫め讀者諸君の承知を得置きたい。

 

         一 支那人の妥協性(一)

 

 支那人は尤も妥協性に富んで居る。妥協は確に支那人の一つの國民性と申して差支へない。
個人としても國家としても、支那人はよく妥協を行ふ。
元來が文弱で、殊に打算に長ずる支那人は、小にしては爭鬪、大にしては戰爭、何れも危險の割合に、
利益が伴はぬ事を夙に承知し、成るべく之を避けて妥協を好む譯である。
兔に角支那人は大抵の場合よく妥協を行ひ、
寧ろ極端まで妥協を濫用する傾向をもつて居ると思ふ。

 

 北支那に標局と稱して、旅行者の安全を保障する營業者がある。
標とはもと擲槍(なげやり)の如き一種の武器の名で、この武器を携帶せる標師を派出して、
依頼を受けた旅行者を護衞するから、標局といふ名稱が出來たと云ふ。

 

 北支那一帶、殊に山東地方の古への梁山泊の所在地に當る方面には、なかなか追剥が多い。
一家を擧げて、甚だしきは一村一郷を擧げて、行旅を剽掠することを生業とする者が尠くない。
かかる物騷な地方を通行する旅客は、標局に就いて一定の保險料を納めると、
標局から標車といふ一種の保險馬車を出して旅客を護送する。

 

 この標車には幟標(はたしるし)が建ててあつて、之には例の追剥も手出をせぬ。
これ
は標師を憚るよりも、標局から豫め追剥一同に對して附屆を行ひ、
雙方の間に妥協默契が成立して居る故である。

 

 支那人は物質の賣買にはよく秤を使用する。
葱でも白菜でも、米穀でも豆腐でも、目方で賣買する。
所が支那では度量衡の規定など厲行(註、レイコウ、きびしく実行する。)されて居らぬから、
彼等の使用する秤ほど不信用なものはない。
南斗北秤とて、南支那と北支那の間で量衡に相違あるが、
同一の北支那でも、秤は區々で一定して居らぬ。
かかる不信用なる秤によつて、如何にして物貨を賣買するかといふに、
賣手は成るべく自分に都合のよい秤を持ち出し、買手も亦成るべく自分に都合のよい秤を持ち出し、
雙方の秤を折衷して目方を決める。
かかる妥協方法は、吾が輩の北支那滯在中、屡々(しばしば)親覩(註、覩:みる、見分ける)した所である。

 

 昨年初夏支那に例の排日運動が始つて以來、親日派の政治家は賣國奴として、
排日團體から種々の迫害を受けたが、中にも親日派四人男の一人として知られて居る。
前駐日公使陸宗輿に對して、彼等は陸宗輿の出身地の浙江省海寧縣の住宅の門前に、
賣國者記念碑を建設すべく、醵金募集に着手した。

 

 之にはさしもの陸宗輿も大いに閉口し、遂に二萬元といふ大金を排日團體に手渡して妥協を申込み、
記念碑の建設を中止せしめたといふ。
こは新聞紙上に見えた記事で、その眞僞は保證出來ぬが、支那人としては有り勝のことと思ふ。

 

         二 支那人の妥協性(二)

 

 妥協の流行は官界でも民間でも相違はない。
支那では流賊でも馬賊でも、山賊でも、海賊でも、少し手剛いと見ると、
政府は多くの場合、之を退治するよりは、先づ之と妥協する。
即ち政府は以前彼等の同類たる賊徒で、
現在官吏になつてゐる者の如何に榮華を極めて居るかを説き、
彼等も之にならひ、一日も早く行を改め官に就くべきを勸め、利禄と官職を以て彼等を誘ふのである。

 

 支那の記録にはこの妥協に誘ふことを、招安とも招撫ともいひ、
この妥協に應ずることを歸誠とも歸順ともいふ。

招撫とか歸順とか文字は立派であるが、
その内實政府が怯懦を藏する爲、賊徒は利禄を得る爲、雙方妥協するに過ぎぬ。
招撫や歸順の實例は、支那の何れの時代にも見出すことが出來る。

 現在の中華民國で羽振のよい大官の中にも、かかる出身者があると傳へられて居る。

それで支那には古く 
  欲レ得レ官殺レ人放レ火、受二招安一 
 といふ諺があつた。

 放火殺人を行ひ、成るべく暴れ廻りて政府を手古摺らせ、然る後に歸順に出掛けるのが、
官吏となる出世法の一番捷徑といふ意味である。
隨分亂暴な諺だが、實際支那にはかかる時代が尠くないから驚く。

 

 この賊徒の招安に關して、歴史上種々の笑話が傳へられて居る。
南宋時代に政府が多數の賊徒を招安して、之に宣贊舍人(從七品の武官)の官を與へた所が、
正當の宣贊舍人は賊徒出身者と同一視されるのを厭ひて、之に抗議を申出た。

政府は已むを得ず、正途出身の宣贊舍人には兼官を與へ、
兼官を有する宣贊舍人は正途の出身、兼官なき宣贊舍人は招安の出身と、一目瞭然と區別の立つ樣にした。
正當出身の宣贊舍人は之で得心したが、今度は招安出身の新宣贊舍人の苦情で、
政府はその處置に困惑したといふ。

 

 又ほぼ同時代に、鄭廣といふ海賊の頭目が歸順して、政府から然るべき官吏に取り立てられたが、
その同僚は皆彼の前身を輕蔑して、役所で會食の折にも、彼一人だけは排斥するといふ風であつたが、
この排斥された鄭廣は、聖人面する同僚が、支那官吏の常習として、
何れも中飽―袖の下―を貪つて居ることを察知して、
一日左の如き皮肉な詩一首を作つて、彼等の廻覽に供した。

 

  鄭廣有レ詩上二衆官一。文武看來總一般。
  衆官做レ官却做レ賊。鄭廣做レ賊却做レ官

 

 詩の意味は、諸君は官吏となり、その位置を利用して泥棒を行ひ、
自分は泥棒の位置を利用し、招安に應じて官吏となる。
唯手段に前後の差あるのみで、畢竟同志同行と稱すべきものなるに、
何が故に自分一人を排斥するかといふに在つたから、
同僚一同苦笑して、爾後その態度を改めたといふ。

 

         三 支那人の妥協性(三)

 

 勿論支那の政府も時に強硬手段をとり、或は大將を派遣し、
或は地方官に命じて賊徒を討伐せしむることもある。
かかる場合でも、その官吏や大將は、如才なく賊徒と妥協を行ふ。
即ち賊徒に金穀を與へてその歡心を買ひ、此の如くして彼等を暫く管外に退散せしめ、
若くは正面衝突を避けしむるのである。

 

『韓非子』に昔衞と荊(楚)と交戰した時、その二國の大將が妥協を行ひ、
戰爭は二國の君主の勝手に開始せしものなるに、
その犧牲となつて何等怨のない兩軍が、命掛けの戰爭するなどは、馬鹿の骨頂なればとて、
兵を交へずに久しく對峙したと書いてある。
これが支那軍人の多數の心掛けである。

 

 「弄レ兵玩レ寇。以爲二富貴之資一」とて、敵とは申譯ばかりに兵を交へて戰爭を長引かせ、
成るべく多額の軍用金を政府より引出すことに苦心を費す。

 

 唐時代にも幾度か藩鎭征伐を行うたが、徒らに國帑を空しくするのみで、餘り成功がなかつた。
その最大原因は、官軍の大將が賊軍と妥協して、兵を弄(註、ロウ、もてあそぶ)し寇を弄ぶからである。
遠い戰國や李唐時代を引く迄もなく、
最近の中華民國の有樣を見ても、成程と點頭(うなづ)かるる所が多い。

 

 大正6(1917)年11月に、段祺瑞内閣から南方征伐の大權を委任されて湖南へ出陣して居つた、
總司令官の王汝賢や副司令官の范國璋らが連署して、
弭兵(註、ビヘイ、戦いをやめる)和平の通電を發して、段内閣の瓦解の原因を作つた。

 

 この形勢に憤慨して、北方の督軍連が、その12月に所謂天津會議を開き、
段祺瑞の擁護と南方討伐を決議したのはよいが、
さて愈々(いよいよ)出陣となると、さきに天津會議の席上で、
最も強硬説を主唱したといふ第一路總司令官の曹錕や、第二路總司令官の張懷芝は、
何時の間にやら軟化して仕舞ふ。

 

 大本營では強硬説が主張せられ、戰線では妥協説が歡迎されるのが、支那古今の常態である。
之には種々内面の理由もあるが、
支那人は一身の利害の爲には、苟合妥協を濫用して恥づる所を知らぬことも、
確にその一大原因と認めねばならぬ。
彼等は軍用金を手に入れる目的で、心にもない強硬説を主張するが、
目的さへ達すれば、その本性を發揮して、妥協を主張するのである。

 

         四 支那人の妥協性(四)

 

 國内に於て妥協を濫用する支那人は、異族に向つても亦妥協を濫用する。
北支那なる燕・趙地方は、もと悲歌慷慨の士多しと稱せられたが、
それも過去のこと、唐・宋以後となつては、彼等もよく外來の異族と妥協して行く。

 

 金の世宗は曾て燕人を評して、
「遼兵至則從レ遼。宋兵至則從レ宋。本朝(金人)至則從二本朝一」と罵倒したが、
かかる態度は燕人に限らず、支那人全體に普通かと思ふ。

 女眞人や蒙古人や滿洲人との妥協は兔に角、1860年に英・佛軍の北京進撃の時にも、
明治33(1900)年に聯合軍の北京占領の時にも、北支那人は外國軍隊の前に順民の旗を掲げ、
徳政の傘を獻じたではないか。

 絶えず異族の侵略に暴露さるる支那人には、此の如き態度は一つの必要なる處世法かも知れぬが、
日本人などより觀れば、奇怪の念を禁ずることが出來ぬ。

 

 支那政府の態度も亦同樣である。
絶えずその邊疆を剽掠し、又は侵略する北狄種族に對して、兵力を以て抵抗することを敢てせぬ。
或は宗女を與へ、或は金帛を贈り、或は土地を割いて彼等の歡心を買ひ、彼等の掠奪を緩和するのが、
歴代慣行の政策であつた。

 この妥協の犧牲となつて塞外に嫁する宗女を、唐時代には和蕃公主と稱した。
宋以後は流石にこの和蕃公主を廢止したが、その代り一層惜氣もなく土地を割讓して居る。
明治44(1911)年秋に、支那人(漢人)が革命を起して滿人(清朝)より獨立した時の檄文に、

「漢人實耕、滿奴食レ之。漢人實織、滿奴衣レ之」と

憤慨の辭を連ねてあるが、かかる事實は決して清朝時代に限つた譯でない。

 

 支那は二千餘年の古代から、無理横暴な北狄ともよく妥協して、
彼等の寶藏金庫たることを我慢して居る。

南北朝の末に出た突厥の君主の他鉢可汗は、
 「但使二我在レ南兩児(北齊と北周)常孝一。何憂二於貧一」
 と公言して居る。

 北狄の君主は何時もこの他鉢可汗の心持をその儘、支那人の妥協癖を奇貨とし、
之を威嚇して榮華を貪つて居る。

 西漢の初め匈奴が跋扈して支那政府がその處置に閉口した時、洛陽の才子として當代に聞えた賈誼が、
その智嚢を傾けて對匈奴策を建てた。
その對匈奴策とは、要するに五餌を以て匈奴を誘ふといふに過ぎぬ。

 

 五餌とは耳・目・口等の餌を設け、酒色や利禄で匈奴人の大部分を中國に誘致するをいふ。
その一餌は盛裝せる幾十の美人をして、中國に來降せる匈奴人の左右に侍せしめ、
匈奴人を肉團の捕虜にして仕舞ふのである。

 匈奴人好遇の噂を聞いては、塞外の匈奴人は先を競うて中國に投化すること疑ない。
かくて匈奴の故土空虚とならば、
中國の憂根絶ゆべしといふのが、一代の才子賈誼の對匈奴策の骨子である。

 

 之と似寄りの話が明時代にもある。
明の萬暦年間に、支那政府は北方の韃靼の侵略に閉口して、
その對抗策に腐心した時に、瞿九思(クキウシ)といふ學者が面白い建議をした。
朔北に美人なきが故に、北虜は容易に故土を離れて敵地に侵掠するのである。
若し閨室に美人あらば、彼等は之を見棄てて遠征を企つる筈がない。

 

 北虜制御策の祕訣は、朔北に美人を多くし、男子をして女色に惑溺せしむるに限る。
就いては此際纏足――支那では纏足が美人の第一の資格と認められて居つた――を始め、
その他一切の中國化粧法を朔北に傳へる。
かくて朔北の婦人が柳腰蓮歩の美人となつたらば、さしもの北虜もこの可憐な美人に愛着して、
往日の獰猛性を失ふに相違ないといふのが、瞿九思の建議の内容である。

 

 何と恐れ入つたる妙策ならずや。
日本人から觀れば滑稽至極の此策略を、支那人の學者は眞面目に天子の御手許まで建議するのである。
我が國でも黒船來航の當初、吉原あたりから似寄りの策略を幕府に獻議したといふが、
これは北里の忘八輩の猿知慧に過ぎぬ。

 

支那の如き一代の才子や著名の學者の眞面目な意見と、一樣に扱ふべきものでない。
兔に角支那ではかかる笑ふべき妥協(?)對策の方が一般に氣受がよく、
それ以上進んで積極的に塞外征伐など行ふと、兵を窮め武を涜すものとして、歡迎されぬのである。

 

         五 支那人の猜疑心(一)

 

 支那人は一般に猜疑心が深い。
支那に「一人不レ入レ廟。二人不レ看レ井」といふ諺がある。

 一人で物淋しき寺廟に入らば、
 何時僧侶―支那で僧侶は多く惡徒と見做されて居る―の爲に人知れず殺害されるかも知れぬ。
 二人で井戸を俯瞰する際に、何時相手の爲に井底に突き落されて命を失ふかも知れぬ。

 

 かかる場合を警戒する諺で、
之に由つても、支那人の猜疑心の強い一端を察知することが出來ると思ふ。
又支那に『示我周行』といふ題目の旅行案内書がある。
その開卷に旅客心得として、江湖十二則を掲げてあるが、
概して盜賊・放馬(おひはぎ)・欺騙(かたり)・掏摸(すり)・拐騙(もちにげ)・偸換(すりかへ)等に對する注意に過ぎぬ。

 こは警察不行屆勝の支那に於ては、當然の注意であるが、同時に他人を泥棒視する、
支那人根性の發露とも見受けられる。
兔に角支那では、男女の間柄にも、同僚の交際にも、將た君臣父子の關係にも、
常に猜疑といふ隱翳が附き纏うて居る。

 

 申す迄もなく支那は古來革命の國で、君臣の分定つて居らぬ。

『左傳』に「君臣無二常位一。社稷無二常奉一」とある通り、
今日の臣下も明日の君上となり得る國である。

從つて支那の君主は、赤心を臣下の腹中に置くことが難い。
絶えず臣下に對して猜疑警戒の眼を見張らねばならぬ。

無力なる君主は、或は願後身世世、勿三復生二天王家一といひ(劉宋の順帝)、
或は願自レ今以往、不三復生二帝王家一といひ(隋の恭帝)、
極端なる恐迫觀念に戰をののきつつ、危惧憂鬱なる一生を送る。

 

有爲の君は、機會ある毎に宿將や權臣を殺戮して、身後の計を立てる。  
  狡兔死、走狗烹。
  飛鳥盡、良弓藏。
  敵國破、謀臣亡 と諺にある通り、

支那の君臣は患難を共にすることが出來ても、富貴を共にすることが出來ぬ。
漢の高祖は寛仁大度の君として世に聞えて居るが、
その人すら韓信や彭越らの功臣は大抵殺害して仕舞つた。

 

清人黄莘田の詩に、
 漢家多少韓彭將、不レ得二銘旌一字看一 といふ句がある。

 

 高祖が功臣に對する恩情の薄きを惜んだものである。
温和なる宋の太祖の如きは、巧言を以て宿將を説服して、權要の地を退隱せしめ、
刻薄なる明の太祖の如きは、露骨に功臣を誅戮した。
手段に寛嚴の相違はあつても、臣下を猜疑するといふ心理は、同一と認めねばならぬ。

 

         六 支那人の猜疑心(二)

 

 支那の政治や教育は、儒教を看板として居るけれど、その官制は法家の説に本づく所が多い。
法家は人性を惡と豫斷して、之が警戒に重きを置く。

 法家の極意は、臣下同志をして相掣肘牽制せしめ、無力なる臣下をして、
君權を脅かすことなからしむるに在る。

 

 法家の思想を繼承する支那歴代の官制は、官吏を信頼するよりも、
むしろ官吏を猜疑すべく、官吏を利用するよりも、むしろ官吏を防弊すべく組織されて居る。
例へば清朝の官制を一覽しても、官吏の非違を糾察する專門の都察院の外に、
多くの官吏が彈劾權を賦與されて居る。

 

 かくて中央政府の大官に對して、地方長官が彈劾權を有し、
地方長官の間に於て、總督は巡撫を、巡撫は總督を彈劾する權利を有してゐる。

此の如く官吏をして相互に監視せしむる官制は、
畢竟猜疑心の強い支那人の特質に相應せるものといはねばならぬ。

 

 支那の官場廻避といふ制度がある。
地方官となるにも、その本籍所在地では就任が出來ぬ。
中央官となるにも、その本籍地と直接の交渉多き官衙を避けねばならぬ。
又親族關係の者は、同一官衙に奉職することが出來ぬ。

 

 科擧の場合にも、試驗官と親族の關係ある者は、その受驗を遠慮せなければならぬ。
廻避の制度を立てた精神は、官吏がその親族知人と
比周(註、ヒシュウ、①かたより親しむことと、公平に交わること。②かたよって一方に仲間入りすること)して私を營むべしといふ、
上下の猜疑を避くるに在ること申す迄もない。

廻避制度の嚴密なることは、支那人の猜疑心の深大なる證據と思ふ。

 

         七 支那人の猜疑心(三)

 

 支那の官吏は君主の猜疑と同僚の媢嫉(註、ボウシツ、ねたみにくむ。)の間に、
一身の安全を圖るべく、われわれの想像以上の苦心を費す。
賢哲保身とて、一身の安全を圖ることが、支那官吏處世の第一要義となつて居る。

 

 昔唐の宰相に婁師徳といふ名臣があつて、その弟も相當出世して地方長官となつた。
かく兄弟倶に高位大官を占めては、君主同僚の嫌忌懼るべしとて、心配の餘り、
婁師徳が懇々その弟に謙抑すべく注意を加へたに對して、

 弟が彼に向ひ、「自今雖三有レ人唾二某面一。某拭レ之而已」と答へた時、

 婁師徳は眉を蹙めて、先方が吾面に吐き掛けた唾を、勝手に拭い取つては、
却つて先方の怒を買ふものである。

 唾はその儘にして置いても、何時かは自然に乾く。
笑顏の儘吐き掛けられた唾の乾くを待つべしと教へたといふ。
支那官吏の苦心、實に慘憺たるものではないか。

 

 同じく唐の大臣に蘇味道があつた。
事を處するに常に模稜兩端を持し、決して明白なる意見を建てぬ。
故に時人蘇模稜と稱したと傳へられて居るが、
多少の差こそあれ、支那の官吏は大抵蘇模稜の流亞と思ふ。

 

 近代の曾國藩の如きも、拙進而巧退の五字を以て、官場成功の祕訣と申して居る。
事實支那官場の如き猜疑百出の裡に立つて、一身の安全を期するには、
積極よりは消極、活動よりは寧靜、革新よりは保舊をとる方が得策に相違ない。

 

 亢龍は悔があつても、括嚢には咎がない。
猜疑心の強い支那人は、他人の爲すべきことには牽掣を加へて、
自分の爲すべきことは推諉(註、諉の読みは「い」)と牽掣では一事も成功する筈がない。

 

 光緒31年(明治38年、1905年)に、貝子載振が中國の官制改革を奏請した時に、
推諉と牽掣を擧げて、
中國官制の二大弊竇と指摘して居る。
この二大弊竇は、畢竟支那人の猜疑心に由來するものと認めねばならぬ。

 

         八 支那人の猜疑心(四)

 

 支那は家族主義の國柄である。
その家族の中心をなすべき父子の親といふことが、支那の國家や社會の基礎をなして居る。
然るに支那の歴代を見渡すと、
家を整へて天下の師表となるべき、天子と皇太子との間に存外不祥事多く、
皇太子の終を全くせざる者が尠くない。
畢竟皇太子の位置にあるものは、他の皇子から嫉妬され、天子から嫌忌され易い結果に外ならぬ。

 

 この歴代の弊に懲りて、清朝では、天子の生前に皇太子を册立せぬのを家憲とした。
乾隆帝の作つた『欽定儲貳金鑑』に、委細にその理由を載せてある。
かくて天子はその生前に、諸皇子の中で尤も聰明なる者の名を自署し、
之を匣内に密封して、
乾清宮内の世祖御筆の正大光明と題せる額後に藏して置く。

 天子の崩御の直後に、王大臣立會の上で、その匣を開きて、
署名の皇子を位に即かしむるのである。
之を清朝密建の法といふ。かかる制度を設置した一面の理由は、
父子兄弟の間にも、猜疑心嫉妬心の多い結果で、
他國には類稀なることかと思ふ。

 

 誰人も知る如く、支那では古來男女の別が嚴しい。
禮に男女七歳にして席を同じくせずとか、男女は親しく授受せずとか、
殆ど神經過敏と思はるる程の規定が多い。

 今より十年前まで、北京の動物苑や、保定の觀工場は、
奇數の日は男の入觀すべき日、偶數の日は女の入觀すべき日と區別してあつた。
この慣習も主として男子の猜疑心や嫉妬心の強い所に歸因するかと思ふ。

  

 支那歴代の後宮に宦官を使役する動機も亦、之と同一と視るべきであらう。
宦官の弊害の顯著なるに拘らず、
何れの時代―最近の民國時代を除き―でも之を廢止したことがなく、
又その廢止を主張した學者すら殆ど見當らぬ。

 

 宋の司馬光や明の丘濬(キウシユン)や、明末清初の顧炎武・黄宗羲の如き、
支那有數の政治學者ですら、
宦官の弊を論ずるに當つては、ただその位置を低下せよとか、
その員數を減少せよといふに止まり、
更に進んで徹底的に宦官の廢止を要求して居らぬ。

 

 此の如きは一面『詩經』や『書經』に宦官のことを載せ、聖人も是認した制度であるから、
廢止すべきでないといふ、例の尚古思想に囚はれる故でもあるが、
一面猜疑心の強い支那人は、女子を監視するには、中性又は無性の宦官でなければ、
安心出來ぬといふ心理状態に基くものと思ふ。

 

 三十餘年間南支那に布教した、米國宣教師のスミスが著はした『支那人氣質』中にも、
支那人の猜疑心の深いことに就いて、幾多の例證を擧げてある。
主人が奴僕の不埒を發見して之を叱責した時、若くは不埒の爲に之を解傭した時、
その奴僕は彼の仲間が、彼の不埒を主人に密告したものと疑ひ、
仲間に對して何かの方法によつて復讐を行ふが普通であるといふ。

 

 幾多の職工人夫を使役する時、その賃金は直接一人一人に支拂はねばならぬ。
一纏として總代に渡し、總代の手より各自に分配せしむることは容易でない。
彼等は中間に立つ總代が不正を行ふものと疑ふからである。
此等の事實によつても、猜疑心の深い支那人の特質を察知し得るではないか。

 

         結 語

 

 妥協性と猜疑心、これが實に支那人の二大痼疾である。
この二大痼疾を剔去せねば、支那の改造は到底難事かと思ふ。
妥協その者は必ずしも絶對に排斥すべきものではない。
互讓の精神は如何なる場合にも寧ろ必要である。
唯妥協にも互讓にも、主義や節操を忘れてはならぬ。
支那人の如く主義や節操を放擲した妥協は苟合である。

 

 一時の苟合(註、コウゴウ、いいかげんに他人の気にいるようにへつらうこと、)は却つて百年不安の種を播く。
瓦全よりは玉碎、苟合よりは衝突の方が望ましい。

孟子が 抂レ尺而直レ尋 ことを否定するのはこの故である。
唐時代に兩面―『唐書』に見ゆ―といふ語がある。

 

 金時代に詭隨―『金史』に見ゆ―といふ語がある。
何れも旗色のよき方に妥協して、反覆常なきをいふ。
支那人は個人としても、團體としても、自己保全の方法として、
好んでこの兩面詭隨を慣用するが、
實に唾棄すべき所行と思ふ。猜疑の惡徳たることは殊更申述べる必要がない。

 

 治日少而亂日多 とは支那人の常套語である。
支那の歴史を見渡すと、いかにも太平の日が少い。
上下四千載の歴史は、梅雨期の天氣の如く、陰鬱の影多くして光霽の趣に乏しい。
支那人が黄金時代と誇稱する周ですら、太平の日は僅に五六十年に過ぎぬ。
その他推して知るべしである。此の如きは妥協と猜疑の必然の結果でなからうか。

 

 征伐すべきものも、鎭壓すべきものも、すべて妥協によつて一時を糊塗するから、
不安の原因は何時までも根絶せぬ。

根絶せぬ不安の原因は、
君臣同僚彼此の猜疑によつて一層増進する。
梁啓超は曾て中國の積弱は防弊―官吏を猜疑すること―に由ると説破した。
之にも半面の眞理はあるが、吾が輩はこれに苟合を加へ、
中國の積弱宿弊は、多く支那人の妥協性と猜疑心とに本づくものと信じたい。

 

 近頃支那人の覺醒といふことが、新たに問題となつて來た。
多くの論者は支那人最近の覺醒に重きを置き、
今日の支那人は最早前日の支那人にあらずといふ。
吾が輩は支那人覺醒の程度に就いて、多少疑惑をもつて居るが、
若し眞に支那人が覺醒するものならば、
彼等の覺醒は、自己反省から出發せなければならぬと思ふ。

 

 外に向つて軍國主義を攻撃し、民族自決を絶叫する前に、
彼等自身の徳性の缺點の改造が更に一段の必要であるまいか。

 

 中國積弱の最大原因は、外的よりも内的に存在する。
王陽明のいはゆる「去二山中賊一易。去二心中賊一難」で、
内的改造は改造の第一義でなければならぬ。
支那人自身が彼等の心中の缺點短處―例へば妥協性・猜疑心の如き―から脱却せざる間は、
眞實永遠なる改造は到底期待し難かるべしと思ふ。

 

 吾が輩は支那人最近の覺醒の根本的徹底的ならんことを切望する者である。
かかる根本的徹底的の覺醒こそ、日支兩國共通の幸福であらねばならぬ。

 

(大正九年三月四―八日『大阪毎日新聞』所載)
  「東洋史説苑」1927(昭和2)年5月10日発行


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