日本人の ”戦い”

激動する時代の日本に多大な影響を与えた人物の思索をたどる。

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日米戦争の経緯 東條英樹 「宣誓供述書」(全文)その2 二大重要国策 三國同盟

2016-10-25 09:56:32 | 東條英機

                         パル判事の碑文(靖国神社) 

               
東條英機 宣誓供述書
 

      
                東條英機 ウィキペディア


二大重要國策
 
 

   七
 

斯る情勢の下に組閣後二つの重要政策が決定されたのであります。その一つは一九四〇年(昭和十五年)七月二十六日閣議決定の「基本國策要綱」(法廷證第五四一號英文記録六二七一頁、及法廷證第一二九七號英文記録一一七一四頁)であります。

その二は同年七月二十七日の「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」と題する連絡會議の決定(法廷證一三一〇號英文記録一一七九四頁)であります。
私は陸軍大臣として共に之に關與しました。

此等の國策の要點は要するに二つであります。即ちその一つは東亞安定のため速に支那事變を解決するといふこと、その二つは米英の壓迫に對しては戰爭を避けつゝも、あくまで我が國の獨立と自存を完ふしようといふことであります。

新内閣の第一の願望は東亞に於ける恒久の平和と高度の繁榮を招來せんことであり、その第二の國家的重責は適當且十分なる國防を整備し國家の獨立と安全を確保することでありました。此等の國策は毫末も領土的野心、經濟的獨占に指向することなく、況んや世界の全部又は一部を統御し又は制覇するといふが如きは夢想だもせざりし所でありました。

私は新内閣の新閣僚としてこれ等緊急問題は解決を要する最重大問題であつて、私の明白なる任務は、力の限りを盡して之が達成に助力するに在りと考へました。私が豫め侵略思想又は侵略計劃を抱持して居つたといふが如きは全く無稽の言であります。又私の知る限り閣僚中斯る念慮を有つて居つた者は一人もありませんでした。


   八
 

七月二十六日の「基本國策要綱」は近衞總理の意を受けて企畫院でその草案を作り對内政策の基準と爲したのであります。之には三つの要點があります。その一つは國内體制の刷新であります。その二は支那事變の解決の促進であります。その三は國防の充實であります。
第一の國内體制については閣内に文教のこと及び經濟のことにつき多少の議論があり結局確定案の通り極まりました。

第二の支那事變の解決については總て一致であつて國家の總ての力を之に集中すべきこと、又具體的の方策については統帥部と協調を保つべき旨の意見がありました。 

第三の國防充實は國家の財政と睨み合せて英米の經濟壓迫に對應する必要上國内生産の自立的向上及基礎的資源の確保を爲すべき旨が強調せられたのであります。大東亞の新秩序といふことについては近衞總理の豫てより提唱せられて居ることでありまして此際特に論議せられませんでした。要綱中根本方針の項下に在る「八紘を一宇とする肇國の大精神」(英文記録六二七二頁、英文記録一一七一五頁)といふことはもっとも最も道徳的意味に解せられて居ります。道徳を基準とする世界平和の意味であります。

 三國同盟そのものについては此時は餘り議論はありませんでした。唯、現下の國際情勢に對處し、從來の經緯に捉はるゝことなく、彈力性ある外交を施策すべきであるといふ點につき意見の一致を見たと記憶します。


   九

「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」は統帥部の提案であると記憶して居ります。これは七月二十七日に連絡會議で決定せられました。此の要綱の眼目は二つあります。その一は支那事變解決の方途であります。その二は南方問題解決の方策であります。此の要綱の討議に當り、議論になつた主要な點は凡そ四つほどあつたと記憶します。 

(A) 獨伊關係、獨伊關係については支那事變の解決及世界變局の状態よりして日本を國際的の孤立より脱却して強固なる地位に置く必要がある。支那事變を通じて米英のとりたる態度に鑑み從來の經緯に拘らず獨伊と提携し「ソ」聯と同調せしむるやう施策すべしとの論であります。當時は日獨伊三國同盟とまでは持つて行かずたゞ之との政治的の聯絡を強化するといふ意味でありました。又對「ソ」關係を飛躍的に調整すべしとの論もあつたのであります。 

(B) 日米國交調整、全員は皆、獨伊との提携が日米關係に及ぼす影響を懸念して居りました。近衞總理は天皇陛下の御平生より米英との國交を厚くすべしとの御考を了知して居りましたから、此點については特に懸念して居られました。乃ち閣僚は皆支那事變の解決には英米との良好關係を必要とすることを強く感じて居りました。たゞ「ワシントン」會議以來の米英の非友誼的態度の顯然たるに鑑み右兩者に對しては毅然たる態度を採るの外なき旨松岡外相より強く提唱せられました。
 松岡氏の主張は若し對米戰が起るならばそれは世界の破滅である、從つて之は極力囘避せねばならぬといつて居ります。それがためには日米の國交を改善する必要があるがそれには我方は毅然たる態度をとるの外はないといふのであります。會議では具體案については外相に信頼するといふことになりました。

(C) 對中國政策、對中國施策としては援蒋行爲を禁止し敵性芟除を實行するといふにありました。何故斯の如きことが必要であるかといへば今囘の事變の片付かないのは重慶が我が國力につき過小評價をして居るといふことと及び第三國の蒋介石援助に因るからであるとの見解からであります。從つて蒋政府と米英との分斷が絶對的に必要であるとせられたのであります。

(D) 南方問題、對「ソ」國防の完壁、自立國家の建設は當時の日本に取つては絶對の課題でありますが之を阻害するものは(1)支那事變の未解決と(2)英米の壓迫であります。右のうち第二のことについては重要物資の大部分は我國は米英よりの輸入に依つて居るといふことが注意せられます。もし一朝この輸入が杜絶すれば我國の自存に重大なる影響があります。從つて支那事變の解決と共に此事に付ては重大關心が持たれて居りました。之は南方の諸地域よりする重要物資の輸入により自給自足の完壁を見ることに依つて解決せらるべしと考へられました。但し支那事變の進行中のことでもあり日本は之がため第三國との摩擦は極力これを避けたいといふのであります。
要するに對米英戰爭といふことはこの決定當時に於ては少しも考へられて居りません。
但し日本の之を欲すると否とに拘らず場合に依り米英より武力的妨害のあるべきことは懸念せられては居りました。



三國同盟 


   一〇 

 以下日獨伊三國同盟締結に至る迄の經緯にして私の承知する限りを陳述致します。右條約締結に至る迄の外交交渉は專ら松岡外務大臣の手に依つて行はれたのであります。自分は單に陸軍大臣として之に參與致しました。
 國策としての決定は前に述べました第二次近衞内閣の二大國策に關係するのであります。即ち「基本國策要綱」に在る國防及外交の重心を支那事變の完遂に置き建設的にして彈力性に富む施策を講ずるといふこと(英文記録六二七三頁)及「世界情勢の推移に伴ふ時局處理要綱」の第四項、獨伊との政治的結束を強化すとの項目に該當致します。(英文記録一一七九五頁)獨伊との結束強化の眞意は本供述書九項中 (A) として述べた通りであります。

 この提携の問題は第二次近衞内閣成立前後より内面的に雜談的に話が續いて居りました。第二次近衞内閣成立後「ハインリツヒ、スターマー」氏の來朝を契機として、此の問題が具體化するに至りましたが之に付ては反對の論もあつたのであります。吉田海軍大臣は病氣の故を以て辭職したのでありますが、それが唯一の原因であつたとは言へません。

 九月四日に總理大臣鑑定で四相會議が開かれました。出席者は首相と外相と海軍大臣代理たる海軍次官及陸相即ち私とでありました。松岡外相より日獨伊樞軸強化に關する件が豫めの打合せもなく突如議題として提案せられました。  


それは三國間に歐羅巴及亞細亞に於ける新秩序建設につき相互に協力を遂ぐること之に關する最善の方法に關し短期間内に協議を行ひ且つ之を發表するといふのでありました。
 右會合は之に同意を與へました。スターマー氏は九月九日及十日に松岡外相に會見して居ります。此間の進行に付ては私は熟知しませぬ。そして一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡會議及御前會議となつたのであります。「ここで申上げますが檢事提出の證據中一九四〇年(昭和十五年)九月十六日樞密院會議及御前會議に關する書類が見られますが(法廷證五五一號)同日に斯の如き會議が開かれたことはありません。尚ほ遡つて同年八月一日の四相會議なるものも私は記憶しませぬ。」


 一九四〇年(昭和十五年)九月十九日の連絡會議では同月四日の四相會議の合意を認めました。此の會議で私の記憶に殘つて居ることは四つであります。
 其の一は三國の關係を條約の形式に依るか又は原則を協定した共同聲明の形式に依るかの點でありますが、松岡外相は共同聲明の形式に依るは宜しからずとの意見でありました。其の二は獨伊との關係が米國との國交に及ぼす影響如何であります。此點に付ては松岡外相は獨逸は米國の參戰を希望して居らぬ。獨逸は日米衝突を囘避することを望み之に協力を與へんと希望して居るとの説明でありました。

三は若し米國が參戰した場合、日本の軍事上の立場は如何になるやとの點でありますが、松岡外相は米國には獨伊系の國民の勢力も相當存在し與論に或る程度影響を與ふることが出來る。從つて米國の參戰を囘避し得ることも出來ようが、萬一米國參戰の場合には我國の援助義務發動の自由は十分之を留保することにして行きたいとの説明を與へました。

四は「ソ」聯との同調には自信ありやとの點でありますが、松岡外相は此點は獨逸も希望して居り、極力援助を與ふるとのこともありまして、參會者も亦皆松岡外相の説明を諒と致しました。右會議後同日午後三時頃より御前會議が開かれました。同日の御前會議も亦連絡會議の決議を承認しました。

 此の御前會議の席上、原樞府議長より「米國は日本を獨伊側に加入せしめざるため可なり壓迫を手控へて居るが、日本が獨伊と同盟を締結し其態度が明白とならば對日壓迫を強化し、日本の支那事變遂行を妨害するに至るではないか」といふ意味の質問があり、之に對し松岡外相は「今や米國の對日感情は極度に惡化して居つて單なる御機嫌とりでは恢復するものではない。只我方の毅然たる態度のみが戰爭を避けることを得せしめるであらう」と答へました。松岡外相は其後「スターマー」氏との間に協議を進め三國同盟條約案を作り閣議を經て之を樞密院の議に附することとしたのであります。 
 

   一一 

 此の條約締結に關する樞密院の會議は一九四〇年(昭和十五年)九月廿六日午前十時に

 審査委員會を開き同日午後九時四十分に天皇陛下臨御の下に本會議を開いたのであります。(法廷證五五二號、同五五三號)樞密院審査委員會の出席者は首相、外相、陸相、海相、藏相だけであります。同本會議には小林商相、安井内相の外は全閣僚出席しました

 星野氏、武藤氏も他の説明者と共に在席しましたが、これは單に説明者でありまして、審議に關する責任はありませぬ。責任大臣として出席者は被告中には私だけであります。尚ほここで申上げますがそもそも樞密院の會議録は速記法に依るのではなくして同會議陪席の書記官が説明要旨を摘録するに過ぎませんから、説明答辯の趣旨は此の會議録と全く合致するといふことは保證出來ません。此の會議の場合に於ても左樣でありました。

 此の會議中私は陸軍大臣として對米開戰の場合には陸軍兵力の一部を使用することを説明しました。これは「最惡の場合」と云ふ假定の質問に對し我國統帥部が平時より年度作戰計劃の一部として考へて居つた對米作戰計畫に基いて説明したものであります。
 斯る計畫は統帥部が其責任に於て獨自の考に依り立てゝ居るものでありまして國家が對米開戰の決意を爲したりや否やとは無關係のものであります。統帥部としては將來の事態を假想して平時より之を爲すものであつて孰れの國に於ても斯る計畫を持つて居ります。
 これは統帥の責任者として當然のことであります。尚ほ此の審議中記憶に殘つて居りますことは某顧問官より「ソ」聯との同調に關し質問があつたのに對し松岡外相より條約案第五條及交
換文書を擧げ獨逸側に於ても日「ソ」同調に付き周旋の勞をとるべきことを説明しました。

 以上樞密院會議の決定を經て翌二十七日條約が締結せられ、同時に之に伴ふ詔勅が煥發せられましたことは法廷證四三號及五五四號の通りであります。 
 

   一二 

 右の如く三國同盟條約締結の經過に因て明かなる如く右同盟締結の目的は之に依て日本國の國際的地位を向上せしめ以て支那事變の解決に資し、併せて歐洲戰の東亞に波及することを防止せんとするにありました。

  三國同盟の議が進められたときから其の締結に至る迄之に依て世界を分割するとか、世界を制覇するとか云ふことは夢にも考へられて居りませんでした。唯、「持てる國」の制覇に對抗し此の世界情勢に處して我國が生きて行く爲の防衞的手段として此の同盟を考へました。
 大東亞の新秩序と云ふのも之は關係國の共存共榮、自主獨立の基礎の上に立つものでありまして、其後の我國と東亞各國との條約に於ても何れも領土及主權の尊重を規定して居ります。又、條約に言ふ指導的地位といふのは先達者又は案内者又は「イニシアチーブ」を持つ者といふ意味でありまして、他國を隸屬關係に置くと云ふ意味ではありません。

之は近衞總理大臣始め私共閣僚等の持つて居つた解釋であります。

 
 〔続く〕 北部佛印進駐 


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