陶芸みち

陶芸のド素人が、その世界に足を踏み入れ、成長していく過程を描いた私小説です。

エピローグ(最終回)

2010-08-12 08:54:00 | 日記
 一心に没入していたろくろから目を上げると、自分の今いる場所がどこなのかよくわからなくなることがあった。回転のまじないにかかって、現世でないどこかに連れ去られるのだ。深夜。自分がいるのは、もちろん田んぼの真ん中に建つボロアパートの一室なのだが、いつもそのことが夢の中の出来事のように思えた。しばらく呆然とたたずんで、まともな感覚がもどるのを待ったものだった。
 また、失敗つづきで考え詰め、どうしようもなく頭が煮え立つこともあった。心の中につっかえものがあると、布団にもぐりこんでも興奮してなかなか寝つかれない。そんな夜は、布団の周りに山と積んである土をマクラに眠った。すると冴えざえと透き通った眠りがたちまちやってきて、深いらせんをどこまでも落ちていくことができた。土はひんやりと後頭部を包みこみ、バクテリアのささやきも子守唄に聞こえる。原野のかおりが甘く鼻先をくすぐり、まぶたの裏に山の光景が浮かびあがる。オレがすごした一年間は、そんな時間だった。つまり、晴朗なトリップのような。
 今でもあの頃を思い出すと、全部がマボロシだったような気さえする。だけど、今ろくろを回してみても湯呑みが正確に切っ立つということは、あれは実際に存在した出来事だったのだ。自分をひたすらに成長させつづけることができた、夢のような一年間だった。たくさんの出会いに助けられ、たくさんの奇跡に救われた。それは生涯でいちばんしあわせな日々だった。
 ひるがえって今はといえば、リアルな現実と格闘している。背筋が寒くなるような借金をして陶芸教室を起こし、駅前でチラシを配って街ゆくひとに呼びかけ、指導と称するあやうい手つきで技術を披露し、しどろもどろの口上でおぼつかない知識を開陳する。毎日が冷や汗ものの綱渡りだ。
 「先生」と呼んでもらえる立場になったが、とんでもない。生徒さんたちには教えられてばかりだ。目を輝かせて夢中になる姿にハッとさせられ、純粋無垢な創造性にギョッとさせられ、素直さが究極の知性であることを学ばせられ、明るさや楽しさ、意欲といったものにあらためて目を開かされる。そんな人々と接していると、技能、知識というものはいったい創作にどれほど必要だったのか?と感じることがある。陶芸には、学校で修得した技よりももっと大切なものがある。そのことを、未熟だけれど魅力的な作品をつくる人々に教えてもらっているような状態だ。
 自分はまだまだ、そしていつまでも修行中の身なのだ。あの頃のように、土をマクラに眠ってみたくなった。

 おしまい

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園