管理職も行政も教えてくれない 学校の「今のあたりまえ」 若い教師に伝えたいこと

今当たり前と思っていることも、よくよく考えてみれば、問題だらけ。若い人には、ぜひ読んで、考えてもらいたいものばかり。

コロナのおかげ?

2020-05-24 18:24:36 | 行政
今回は教育からちょっと離れて。
まず、寄るの散歩を日課にした結果、自宅の周りの四方八方に詳しくなったこと。久しぶりに歩く道の様子の変容に驚かされた。
あるとばかり思っていた店がなくなり、普通の住宅になっていたこと。野菜の路地販売の箇所に詳しくなり、美味しいトマトや絹サヤの「名店」を見つけたこと。こじんまりしていても、存在感のある店をいくつか発見したこと。
花の名前をたくさん知った(覚えた、ではない)こと。
二つ目は、ラインの操作がなんとなく楽になったこと。会議でのグループ電話、学年の打ち合わせで頻繁に使用するから当たり前のこと。

反対に、後退したこと、害を及ぼしたこと。
スマホのキーをたくさん押して、繊細な文字が書けなくなった。私は、例えば「お」なら、「あ」の表示を五回たたくやり方を続けている。一日ラインを使うと、おそらく千、万の単位で、キーを叩いているにちがいない。そのために、軽い腱鞘炎になっているはずだ。もしかすると歳相応の震えかもしれないが。
二つ目は、思っていたへなど本が読めないでいること。ラインのメッセージは、時と場所を選ばない。読書をしていても、トイレに入っていても、構わずキンコンと着信の合図が襲ってくる。じっくり読んではいられない。読書による深い思索や、気持ちいい排泄は、遠くに去っている。

まだまだあるだろうが、これを書いている間に、もう10回も、警笛が鳴り響いた。落ち着いてブログにも没頭できない。

不幸な学校 不幸な子どもたち

2020-05-23 10:13:46 | 行政
休業中の学校の取り組みの参考にしようと、各地の学校のホームページをネットサーフィンしていた。
ある学校のホームページが目にとまった。6年生に、担任がメッセージを動画仕立てで投げかけるものだった。「あ、なかなかいいかも」と、その動画を閲覧してみると---
残念ながら期待外れ。しかも、これを見た子どもたちは、なんて不幸だと思った。
その動画の内容は、いきなり、「これから登校するみなさんには、大事な使命があります」でスタート。責任感を持ちなさい、下級生の手本になれ、自分で考える人になれ、リーダーになれ、一年生に何ができるかを考えることが宿題です---と、一方的に終始し、「ではみなさん、待ってま~す」の担任全員のコール。
この学校の子たちは、なんとかわいそうだと思った。
長い長い休校で、家の中で孤立し、生活も心も乱れ、たくさん出されているはずの課題も、完全には消化しきれなかった子も少なくないだろう。だから学校再開の知らせにも、素直に喜ぶよりも、「課題が全部できないで大丈夫だろうか」「ちゃんと学習についていけるだろうか」「みんなとうまくやれるだろうか」「朝、きちんと起きられるだろうか」と、不安を抱えている子も少なくないだろう。
そのときに、「手本になれ」「立派な最高学年になれ」である。
いま、子どもたちに向けて発信すべきことは、「長いあいだ、よく頑張ったね」「生活や学習が、うまくできた子も、うまくいかなかった子も、安心して学校にいらっしゃい」「先生も、友だちも、みんなであなたを支えてあげますからね」「ひとりひとりが大切にされる、素敵なクラスにしていこうね」といった、ねぎらい、受容、希望のメッセージではないのか。
この重い動画を見た子どもたちは、目を輝かせて再登校するのだろうか。

この動画の担任は、けっして間違ったことを言っているわけではない。私も六年生を担当して、子どもたちを前にして、似たような言葉を発したことが何回もあった。
課題を出す適切なタイミングというものがある。やらせたいこと、目標とさせることは、そのタイミングを間違えると、子どもたちに過度な負担をかけたり、期待通り動かないことが、よくある。
この動画も然り。たとえこれで子どもたちが、動いたとても、たまたまのラッキーか、表面上かのどちらかだ。
教師の思い先行の、こどもの事態を把握していない「教育以前」の初歩的、本質的ミスだと今も思った。

こどもの目線で見ることができないで、自分の思いや期待することを、一方的にこどもたちに強いる教師が、なんと多いことか。
これは「愛」に名を借りた強制以外、なにものでもない。
自己満足の動画。
これは管理職も、周りの教師も見ているはずだから、恐るべき哀しく不感症な学校だと言えるだろう。一人として、異を唱えなかったのか。
いまの学校の意思決定の硬直ぶりでは、果たせないことかもしれない。

再度言う。
いま子どもたちに向けて発するべきことは、どんな子にも、大きく腕を開いて、笑顔で受け入れるよ、という受容のメッセージだ。

再開後の子どもたち 再考

2020-05-20 07:31:38 | 行政
特にクラス替えした学年は、まだ名前と顔が一致しない状態で、さらに分散登校。担任も同様で、顔を見ても、一瞬自分のクラスにいる子かも分からないところからスタートさせることになる。
楽しみだったはずの、友だちとの会話や遊びも、しばらくはご法度。行事も大半は中止になることだろう。
つまり、子どもたちは、学校では学習の遅れだけをカバーするだけにあくせくさせられそうな予感がする。
3か月の空白を、できるだけ埋めることにやっきとなるのは分からなくはないが、スローテンポで軟着陸できるような配慮も考えなくてはならないだろう。
子どもは、私たちが望むほど、すべてが器用でもないし、居直れるだけの度量も持ち合わせてはいない。

学校再開を危惧する 子ども目線で いきたい

2020-05-19 17:39:45 | 学校・組織
いよいよ学校が、6月から再開されそうになってきた。3月から5月、3か月ぶりの学校生活が始まる。
在宅の子どもたちと話をすると、かぎって「はやくみんなと遊びたい」「おしゃべりをしたい」「体育で鬼ごっこを思いきりしたい」「勉強を一人じゃなくてみんなとしたい」「給食が食べたい」など、一人で家にいるときの反動のような答えが返ってくる。
私たちも、そんな子どもたちの要求にそえるよう、ていねいで緻密な準備をしていきたい。
しかし、そんな子どもたちの思いとは裏腹に、大人たちは、「授業の時数を確保させたい」「水泳、運動会などの行事はいらない」「土曜も授業をさせよう」「通知表くらいは出せるように、できるだけ授業をやりきろう」「夏休みも、8月の三週間でいいだろう」と、ひたすら学習させ、水準をもとの状態に、いかに近づけるか。躍起になっている。
学習の遅れをなんとかしたい気持ちもわかるが、これらの提案は、いずれも子どもの目線には立ってはいない。
そう考えると、新学期は9月からにしてもいいじゃないかと思えてくる。

このまま再開させれば、どこかで、つまずいたり、泣いたり、落ち込んだり、パニックを起こしたり、病を抱え込んだり、登校を拒否したりする子が、新型コロナの感染者以上に、わき出てくるにちがいない。

若い先生へ 道徳は自信をもって指導できますか?

2020-05-17 14:30:47 | 勉強、授業
悲しいかな、私には「できません。」
 理由はいくつもあるのですが、1番の理由は「道徳」という「特別の教科」は、「科学でない」からです。例えば算数や理科は、人間が時代を超えて発見したり証明したりした事柄の集大成です。数理科学、自然科学、物理科学、化学とか呼ばれていることにも表れています。国語にしても、教え方や何を重点にするかは統一されたものはないにしても、それぞれの考えで到達した事柄を学ぶことにおいては、算数などと似た側面があります。人文科学などとも称されていますから。
 つまり教科と呼ばれているものは、人類の叡智を、言い換えれば「真理」を追求し、しっかりと受け継ぐ学問群と言えるでしょう。
 しかし、「道徳」だけは違います。「特別の」と、苦し紛れの形容詞がついていますが、これは断じて教科ではない。そう思っています。
 ですから、学問的な到達点とは関係のない「常識」「マナー」「ルール」「エチケット」・・・を学ぶものだけに、それをどう教えていいものか、いや、教えていいものか、いつも悩みながら授業を行っている私です。

 ※同じように考えている教師から、「道徳読み」「途中読み」「批判的読み」といった方法の書籍、意見が出されていますが、どうも私にはしっくりとは馴染めません。「今やらなければならないとしたら、この方法しかない」といった危機感は伝わりますが。

戦前の教訓が生かされていないことも
 2つ目の理由は、戦前の教訓が少しも生かされていないということです。
 私も戦後に生まれ、直接の戦争体験はありません。
 父方の伯父が零戦の操縦士であり、訓練中に事故死したこと、母方の伯母が代々木上原に住んでいて東京大空襲に遭い、着の身着のままで逃げ回ったこと、父が徴用された工場で、右手の親指を決断してしまったこと。そのくらいしか、私の周りの戦争の傷跡が思い浮かびません。それらは、すべてあとから聞いた話です。
 幼少のころ、伯母(空襲で逃げ回った)と池袋に行った際は、北口の地下道を通るのがとても怖かったことも、ひとつの「体験」です。地下道には、その両側に「白い装束」の傷痍軍人が何人も座り込んでいて、アコーディオンを弾きながら「寄付」を募るのです。(すでに戦後、10年以上経っていましたから、大半は「ニセモノ」だと後から聞きましたが)
 そのときは何も気づかなかったのですが、大きくなって、「もし戦争がなかったら」と思うようになってきました。
零戦の伯父の奥さんは、その後再婚。良い旦那に恵まれたとはいえ、配偶者の事故死で、当時の幸せを打ち砕かれたことも確かです。空襲で逃げ回り、財産を燃やしてしまった伯母は、その後露天商から再出発しました。生涯独身であったことも戦争の影響があったようです。父も、親指のない生涯を送り続けることになります。
 私の親類は、まだ良い方だったのでしょう。
 親を亡くし、兄弟を亡くし、夫を亡くし、さらには「外地」で人を殺め、それからの人生が、運命が大きく変わらざるを得なかった方は、それこと限りなくいたことでしょう。

 戦争に向かって突き進む時代、そして戦時中、国民を「喜んで」死に追いやったもの、疑問もなく「お国のため」として、「殺人」たる戦争にのめりこませた要因のひとつに、「修身」の存在がありました。

 詳しくは書きませんが、国家が生き方の善し悪しを決めていたのです。国のため、天皇のために、生きるのだ、死ぬのだと、子どもたちは、学校で毎日教え込まれたのでした。
 戦後は、その誤りを反省し、「修身」は廃止になりました。「国が国民の生き方を説いてはいけない」という教訓です。

 「内容が戦前とはちがうから、いいんじゃないの」と思っている方もいることでしょう。私も以前はそう思っていました。しかし、問題なのは、「国が国民の道徳、生き方を束ねてしまう」ことなのです。

 1974(昭和49)年、首相在任中の田中角榮は、児童教育指針として【「五つの大切、十の反省」】を掲げました。
「五つの大切」
1 人間を大切にしよう  2 自然を大切にしょう  3 時間を大切にしよう 4 モノを大切にしよう
5 社会を大切にしよう
「十の反省」
1 友達と仲良くしただろうか  2 お年よりに親切だったろうか 3 弱いものいじめをしなかったろうか
4 生き物や草花を大事にしただろうか  5 約束は守っただろうか  6 交通ルールは守っただろうか
7 親や先生など、ひとの意見をよく聞いただろうか  8 食べ物に好き嫌いを言わなかっただろうか
9 ひとに迷惑をかけなかっただろうか  10 正しいことに勇気をもって行動しただろうか
 
 なにか当たり前のような言葉の群ですが、当時、これが発表されたときに、国民から、マスメディアから、「国家が国民に道徳を説くべきではない」と、激しく批判を浴びました。上から命令調に、国民に対して「かくあるべき」を説くことが、「戦争への一里塚」だとして、拒否されたのです。(内容の是非ではないこと、わかりますか)

★時の施政者が、国民に向かって「道徳」を説くことは、戦後になっても、何回もなされています。上に紹介した以外でも、「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知をして戴く・・・」と発言したこと。(2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会結成三十周年記念祝賀会における森の発言)最近では、幼稚園で「教育勅語」「五箇条のご誓文」を園児に唱えさせているという報道に、柴山昌彦・新文科相が10月2日の就任会見で「教育勅語」について、「アレンジをした形で、例えば道徳等に使うことができる分野は十分にあるという意味では、普遍性を持っている部分が見て取れる」などと発言をしたり、文科省では、教育現場での扱いについて、そのまま教え込むことはできないとしつつも、「学校において教育勅語を我が国の教育の唯一の根本とするような指導を行うことは不適切だが、憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定しない。」と、後退した評価、活用の道を示したりしました。いつの時代も、国民の道徳形成に、自分の考えを押しつける政治家はつきもののようです。

 「長いものには巻かれろ」といった、主体性のない国民、従順なだけの国民を作っていくことこそ、戦争に繋がるものだとされたのです。学校で教える道徳も、その延長上にあるのです。

 3番目には、教える「徳目」について、また「教材」には、大きな落とし穴があるということです。道徳は、ある場面に出会ったときに、どういった基準で考えればいいか、そして、どのような行動を起こせばいいか、その判断をするための力を養うトレーニングをする教科だと考えます。
 教科書を読めば一目瞭然ですが、そこには圧倒的に「物語」が掲載されています。そして、その教材文の大半は、ねらいとする「徳目」に結びつけようとする文脈、登場する人物の性格・言葉遣い、状況などが満載されています。
 たかだか数ページの物語の中で、子どもたちに、「誠実」やら「友情」やらを感じ取らせる目標のようですが、みなさんの実生活を思い出してほしいのです。
 たとえば、友だちから「お金を貸して欲しい」という依頼を受けたとします。あなたは、その時に何を考えますか。
「その友だちとの関係の深さ」「信頼に足る友だちなのか」「何に使うための金なのか」「金を渡して、それが友だちのためになるのか」「自分は、金を貸して困ることはないのか」「貸さないとしたら、関係はどうなるのか。反対に貸すとしたら、どうなるのか」・・・
 たくさんの視点に立った判断が必要になるのが、現実の生活です。自身の中にある「誠実」や「友情」のために、その時に考えた、たくさんの条件を駆使して結論を出すのです。
 しかし、教科書の物語には、それを可能にするほどの豊富な「手がかり」がないものがほとんどです。つまり、それらを少ない指導時間の中で、確認し、類推し、あるいは無視して、授業を終えなければなりません。(これについては、いずれ詳述します)手がかりのない(少ない)事例から、何が誠実か、真の友情かの行動の指針を出すとすれば、それは誤った判断を導くものとなるのは当たり前のことです。
 
 総論ですが、私の道徳指導の逡巡は、以上3つの疑念があるからです。
 しかし、それでも指導しなければならない現実。それについては、またお話していきたいと考えています。