※前号のちょっと補足です。「ブラック」と言われるほどの超定額働かせ放題の現在に仕立て上げたのは、もっぱら政権の怠慢が主な理由ですが、同時に、当時の日教組の戦術の誤り(いつか説明するかもしれません)も大きな原因です。
そして、辛い、痛い言葉ですが、岡崎勝が「こうした(註 ブラックと言われる)『働き方』に鈍感だった普通の教職員の『労働条件への意識の低さ』が招いた結果でもある」と言ったことも後押ししているのかもしれません。(「現代思想」2020年4月号「迷走する教育」の中の岡崎論文より)
もう「職員会議」とは呼べない伝達会
「ただでさえ忙しい学校で、くどくどと職員会議をしていることは、時間の無駄ですよ。学期1回だって、多いくらいです。短時間でさっさと終わらせて、その分、仕事に回すのは、けっこう働き方改革になっていると思いますよ。」
最近話した若い先生の言葉。
「これから職員会議を始めます。あらかじめお伝えしておきますが、提案のあと、話し合いの時間はとりません。質問だけ、質問だけですよ。ここは話し合いの場ではありませんから、意見は出さないでください。」
これも最近の職員会議の風景。
長い議論の末に卒業式の原案が職員会議で決まる。司会者、「それでは、プリントの卒業式実施計画案の<案>の字を消してください。」こちらは、30年も前の職員会議。もともと、職員会議に出されるものはすべて「案」として提案され、話し合われていました。
「校長先生から、来年度、体育の研究指定校にという提案がありましたが、みなさんのご意見をうかがいます。どうぞ、たくさん意見を出してください。」
今から数年前の職員会議。めずらしく意見を求める会議となる。日常の多忙、前回も指定校を受け、少し間を置きたいなどの意見が続出し、不本意、という表情で、校長が「分かりました。研究校は受けないこととします。」の回答。
しかし、翌朝、「やはり、受けることにしました。」と、大どんでん返しの言葉。
職員会議は 開かなくてもいい?
今から20年前に、職員会議に関して、大きな転換がありました。2000年1丹21日「学校教育法錨行規則等の一部を改正する省令」(文部省令第3号)が公布され,翌年4月1日から施行されることになりました。
そこでは、校長の職務の円滑な執行に資するため,職員会議を置くことができる」とされ,第2項では「職員会議は,校長が主宰する」と定められました。つまり、職員会議は、校長の考え次第で、極論すれば、開かないでもいいことになりました。しかも、その性格は「決定事項の伝達」なのです。
それまでの職員会議は、「校長は,校務の運営上必要があるときは,職員会議を開き,所属職員の意見を求めて,適正な学校運営に努めなければならない」という表記でした。
違いがわかりますか?
それ以降、職員会議は、あくまで「校長の都合で」開かれるものであり、意見交換ではなく、あくまで決定事項の追認の会だという性格を帯びたものに「変質」してしまったのです。
たしかに、職員会議は、私の若いころは、例えば「日の丸」「君が代」などを巡って、その扱いをどうするかで、管理職と職員とが対立していた状況で(これはいずれ詳述します)、延々と夜遅くまで会議が続くこともしばしばでした。行政や管理職にとって、学校の運営はきっとやりづらいものだったに違いありません。(同情するわけでは全くありませんが)そのあげく、なのでしょう。それが、20年前の職員会議の「大改革」だったのだと考えます。
つまり学校の「上意下達」の完成です。仕上げは、今から5年前の「通知」です。
26文科初第424号 平成26年6月27日
校内人事の決定及び職員会議に係る学校内の規程等の状況について(通知)
このたび、一部の学校において、校内人事の決定に当たり、教職員による人事委員会等の組織を設置したり、教職
員による挙手や投票等の方法によって、選挙や意向の確認等を行ったりしていた事案や、校長が主宰することとさ
れている職員会議において議長団など校長以外の教員を議長とするような事案が国会等において指摘されている
ところです。・・・・
① 校内人事の決定に当たり、校長の選任ではなく教職員の互選等により選ばれた教職員を主たる構成員とする人事
委員会等の組織を設置し、当該組織が校内人事の原案を作成し校長が追認するなど実質的に当該組織が校内人事を決
定しているような状況は、校長の権限を実質的に制約しかねないため、法令等の趣旨に反し不適切であり、このよう
な組織は設置すべきでないこと。仮に校長が校内人事に関する組織を置く場合には、校長の指揮監督のもと必要に応
じて校内人事に関する事務を行うための組織であることを明確化することなどにより、校長の権限を実質的に制約す
ることのないように規程を整備すること。
② 校内人事の決定に当たり、教職員による挙手や投票等の方法によって、選挙や意向の確認等を行うことは、校
長の権限を実質的に制約しかねないため、法令等の趣旨に反し不適切であり、行うべきでないこと。
校内人事は校長の専決事項である。挙手や投票で人事を決めてはいけない。
この職員会議の「変化」は、教育界全体の流れの中の1つにしかすぎません。要するに教育行政がスムースに下に下りるような「支配」の仕組み全体を鳥瞰しないと分からないものです。あとでお話しする、「校長―副校長―主幹―指導―主任―平」といった上意下達の職階制、自己申告に代表される業績評価、給料・昇級・退職金の差別化などと、表裏一体のものです。
私は2つ前の学校まで、「教務主任を推薦してください」「研究主任は○○先生にお願いしたいのですが」といった意見を出し合う職員会議を経験してきました。オープンすぎて、強い語気や自信満々の先生の意見が通ってしまうこともありましたが、きちんとした理由や理屈のある意見交換であり、その結果は、ほぼ全員が納得したものであったことを記憶しています。
今や「職員会議」という言葉が空回りしています。
広辞苑で、「会議」を引いてみると、「①会合して評議すること。何かを決めるため集まって話し合うこと。その会合。「編集―」 ②ある事項を評議する機関。「日本学術―」とありました。
つまり、学校の「職員会議」は、もはや「会議」という名称としてはまずいものだと考えます。
「伝達会」「承認会」とでも呼ばれるほうが妥当でしょう。
最初に紹介した若い先生の言葉を、どのように思いますか。
私は、この「命令承認会」では、次のような弊害が生じると思います。
①物言わぬ先生が多くなること。これは、必ず子どもの教育に、致命的な悪影響を及ぼすこと。
②職階制とも絡み合って、管理職への「忖度」過度な教員が増えること。これも教育活動を汚すことになる。
③話し合いがないために、「当事者意識」が欠如し、「やる気」がトーンダウンする。
④一部の「経営」層と、もの言わず黙々と働くものとの二極分化が生じること。百害あって・・・
すべて「昔はよかった」とは思わないが、職員会議に関しては、明らかに「昔がよかった」と思う。
そして、辛い、痛い言葉ですが、岡崎勝が「こうした(註 ブラックと言われる)『働き方』に鈍感だった普通の教職員の『労働条件への意識の低さ』が招いた結果でもある」と言ったことも後押ししているのかもしれません。(「現代思想」2020年4月号「迷走する教育」の中の岡崎論文より)
もう「職員会議」とは呼べない伝達会
「ただでさえ忙しい学校で、くどくどと職員会議をしていることは、時間の無駄ですよ。学期1回だって、多いくらいです。短時間でさっさと終わらせて、その分、仕事に回すのは、けっこう働き方改革になっていると思いますよ。」
最近話した若い先生の言葉。
「これから職員会議を始めます。あらかじめお伝えしておきますが、提案のあと、話し合いの時間はとりません。質問だけ、質問だけですよ。ここは話し合いの場ではありませんから、意見は出さないでください。」
これも最近の職員会議の風景。
長い議論の末に卒業式の原案が職員会議で決まる。司会者、「それでは、プリントの卒業式実施計画案の<案>の字を消してください。」こちらは、30年も前の職員会議。もともと、職員会議に出されるものはすべて「案」として提案され、話し合われていました。
「校長先生から、来年度、体育の研究指定校にという提案がありましたが、みなさんのご意見をうかがいます。どうぞ、たくさん意見を出してください。」
今から数年前の職員会議。めずらしく意見を求める会議となる。日常の多忙、前回も指定校を受け、少し間を置きたいなどの意見が続出し、不本意、という表情で、校長が「分かりました。研究校は受けないこととします。」の回答。
しかし、翌朝、「やはり、受けることにしました。」と、大どんでん返しの言葉。
職員会議は 開かなくてもいい?
今から20年前に、職員会議に関して、大きな転換がありました。2000年1丹21日「学校教育法錨行規則等の一部を改正する省令」(文部省令第3号)が公布され,翌年4月1日から施行されることになりました。
そこでは、校長の職務の円滑な執行に資するため,職員会議を置くことができる」とされ,第2項では「職員会議は,校長が主宰する」と定められました。つまり、職員会議は、校長の考え次第で、極論すれば、開かないでもいいことになりました。しかも、その性格は「決定事項の伝達」なのです。
それまでの職員会議は、「校長は,校務の運営上必要があるときは,職員会議を開き,所属職員の意見を求めて,適正な学校運営に努めなければならない」という表記でした。
違いがわかりますか?
それ以降、職員会議は、あくまで「校長の都合で」開かれるものであり、意見交換ではなく、あくまで決定事項の追認の会だという性格を帯びたものに「変質」してしまったのです。
たしかに、職員会議は、私の若いころは、例えば「日の丸」「君が代」などを巡って、その扱いをどうするかで、管理職と職員とが対立していた状況で(これはいずれ詳述します)、延々と夜遅くまで会議が続くこともしばしばでした。行政や管理職にとって、学校の運営はきっとやりづらいものだったに違いありません。(同情するわけでは全くありませんが)そのあげく、なのでしょう。それが、20年前の職員会議の「大改革」だったのだと考えます。
つまり学校の「上意下達」の完成です。仕上げは、今から5年前の「通知」です。
26文科初第424号 平成26年6月27日
校内人事の決定及び職員会議に係る学校内の規程等の状況について(通知)
このたび、一部の学校において、校内人事の決定に当たり、教職員による人事委員会等の組織を設置したり、教職
員による挙手や投票等の方法によって、選挙や意向の確認等を行ったりしていた事案や、校長が主宰することとさ
れている職員会議において議長団など校長以外の教員を議長とするような事案が国会等において指摘されている
ところです。・・・・
① 校内人事の決定に当たり、校長の選任ではなく教職員の互選等により選ばれた教職員を主たる構成員とする人事
委員会等の組織を設置し、当該組織が校内人事の原案を作成し校長が追認するなど実質的に当該組織が校内人事を決
定しているような状況は、校長の権限を実質的に制約しかねないため、法令等の趣旨に反し不適切であり、このよう
な組織は設置すべきでないこと。仮に校長が校内人事に関する組織を置く場合には、校長の指揮監督のもと必要に応
じて校内人事に関する事務を行うための組織であることを明確化することなどにより、校長の権限を実質的に制約す
ることのないように規程を整備すること。
② 校内人事の決定に当たり、教職員による挙手や投票等の方法によって、選挙や意向の確認等を行うことは、校
長の権限を実質的に制約しかねないため、法令等の趣旨に反し不適切であり、行うべきでないこと。
校内人事は校長の専決事項である。挙手や投票で人事を決めてはいけない。
この職員会議の「変化」は、教育界全体の流れの中の1つにしかすぎません。要するに教育行政がスムースに下に下りるような「支配」の仕組み全体を鳥瞰しないと分からないものです。あとでお話しする、「校長―副校長―主幹―指導―主任―平」といった上意下達の職階制、自己申告に代表される業績評価、給料・昇級・退職金の差別化などと、表裏一体のものです。
私は2つ前の学校まで、「教務主任を推薦してください」「研究主任は○○先生にお願いしたいのですが」といった意見を出し合う職員会議を経験してきました。オープンすぎて、強い語気や自信満々の先生の意見が通ってしまうこともありましたが、きちんとした理由や理屈のある意見交換であり、その結果は、ほぼ全員が納得したものであったことを記憶しています。
今や「職員会議」という言葉が空回りしています。
広辞苑で、「会議」を引いてみると、「①会合して評議すること。何かを決めるため集まって話し合うこと。その会合。「編集―」 ②ある事項を評議する機関。「日本学術―」とありました。
つまり、学校の「職員会議」は、もはや「会議」という名称としてはまずいものだと考えます。
「伝達会」「承認会」とでも呼ばれるほうが妥当でしょう。
最初に紹介した若い先生の言葉を、どのように思いますか。
私は、この「命令承認会」では、次のような弊害が生じると思います。
①物言わぬ先生が多くなること。これは、必ず子どもの教育に、致命的な悪影響を及ぼすこと。
②職階制とも絡み合って、管理職への「忖度」過度な教員が増えること。これも教育活動を汚すことになる。
③話し合いがないために、「当事者意識」が欠如し、「やる気」がトーンダウンする。
④一部の「経営」層と、もの言わず黙々と働くものとの二極分化が生じること。百害あって・・・
すべて「昔はよかった」とは思わないが、職員会議に関しては、明らかに「昔がよかった」と思う。
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