金曜日に立川で、多摩地区の研究、研修主任、そして一般教員向けの「報告会」が行われた。
出席は約900人だという。
東京都多摩地区教育推進委員会 第23次計画報告会
<「主体的・対話的で深い学び」の視点に立った授業の創造--「深い理解」の実現を目指して-->
が表題である。
簡単に言えば、新しい指導要領の目指すものを先取りして研究し、それを伝達する会である。
「いやー、むずかしくって」「なんか、わけわからなくなりそうで」
終了後、会場の外にある喫煙所で、何人かの教員が、苦しい笑いを浮かべて話していた。
多摩地区から選ばれた(応募した?)16人が、それぞれ小学校部会、中学校部会に分かれて、表題に書かれた主題を、実践を通じて論理構成していく・・・の成果の報告なのだが、苦笑の教員の言う、内容が「むずかしくて」というよりも、むしろ彼ら彼女らが「難しくさせている」といった印象であった。
悪く言えば、この報告者は、もともと「支離滅裂」な文章(新しい学習指導要領のことである)を、「きっとこういった趣旨のはず」とばかりに、つじつま合わせをし、それを現場の授業に、無理矢理当てはめる「使命感」で展開しているからである。
なぜ批判的な見解が出てこないのか。
批判すべき知識も力量もないのか。それとも勇気がないのか。
指導要領についての「私見」がないのである。
内容に目を向けよう。
「主体的・対話的で深い学び」
つまり、3つの要素が組み込まれた学習をさせろと要領は言う。
「主体的」は、自分の意思で、問題意識をもって学ぼうとする「姿勢」「心情」である。
「対話的」は、自他の意思の交流、つまり「方法」である。
「深い学び」、これは「浅い学び」とは異なり、「知っている」ではなく「わかっている」「できる」「活用できる」「概念を形成できる」というレベルの「学び(方・のレベル)」である。(報告書では「深い理解」という言葉に変えているが、それはそれで、また別の意味だと思える)
このジャンルの違ったキーワードを、まとめて追求せよというのである。
それ自体、この報告者は疑問に思わないのだろうか。
宇佐美寛氏も書いていたが、指導方法にまで学習指導要領に入れるべきではない。
要領に「教育目標」「学習内容」を盛り込むことは、まあよいとして、今回のように「指導方法」「学習活動」を入れ込むことは越権である。
ある学習すべきものがあるとして、それを子どもたちにどのように学ばせていくかについては、現場の教員にしか分かるものではないはずだからである。
「ここは、話し合いではなく、1人1人が自分の頭で考えてまとめていくことが、うちのクラスにはふさわしい」
「アクティブラーニング」という言葉が、突然現れるや、大きな書店には、それに便乗した「雨後の竹の子」本が、書店に何種類も積まれるようになった。パラパラとページをめくって立ち読みすると、なんのことはない、これまで出されてきたものの「手直し」程度の内容で、話し合いやグループ活動について焼き直したものばかりで、目次を立ち読みするだけで、概要が分かってしまうほどだ。
話をもどす。
「アクティブラーニング」が、定義できない、多義である、誤解を招くとして、要領に盛り込めず、代わって出てきた「主体的」「対話的」「深い学び」を、ひとくくりにして私たちに理解させよというのでは、現場がただ混乱するだけだ。
現に、今回の報告者の「苦悩」を見よ。
分野の違った言葉を組み合わせているのだから、報告者は、いったんこれらをバラして注釈を加え、さらにそれらを結びつける作業に四苦八苦している現状である。わけもない。
ずっともどろう。
そもそも、「主体的に学ぶ」ことも「対話的に学ぶ」ことも、「深く学ぶ」ことも、なにも新しい発見ではない。これまで私たちが追求してきたものに他ならない。
こうやって、空虚な言葉の「おもてなし」感覚で受けいれ、強引に、さも「新しい学び」だと、外にはしたり顔で喧伝し、内では混乱し困惑するであろう未来の学校現場がが見えてくる。
指導方法まで口をだすな、と文科省に言いたい。
出席は約900人だという。
東京都多摩地区教育推進委員会 第23次計画報告会
<「主体的・対話的で深い学び」の視点に立った授業の創造--「深い理解」の実現を目指して-->
が表題である。
簡単に言えば、新しい指導要領の目指すものを先取りして研究し、それを伝達する会である。
「いやー、むずかしくって」「なんか、わけわからなくなりそうで」
終了後、会場の外にある喫煙所で、何人かの教員が、苦しい笑いを浮かべて話していた。
多摩地区から選ばれた(応募した?)16人が、それぞれ小学校部会、中学校部会に分かれて、表題に書かれた主題を、実践を通じて論理構成していく・・・の成果の報告なのだが、苦笑の教員の言う、内容が「むずかしくて」というよりも、むしろ彼ら彼女らが「難しくさせている」といった印象であった。
悪く言えば、この報告者は、もともと「支離滅裂」な文章(新しい学習指導要領のことである)を、「きっとこういった趣旨のはず」とばかりに、つじつま合わせをし、それを現場の授業に、無理矢理当てはめる「使命感」で展開しているからである。
なぜ批判的な見解が出てこないのか。
批判すべき知識も力量もないのか。それとも勇気がないのか。
指導要領についての「私見」がないのである。
内容に目を向けよう。
「主体的・対話的で深い学び」
つまり、3つの要素が組み込まれた学習をさせろと要領は言う。
「主体的」は、自分の意思で、問題意識をもって学ぼうとする「姿勢」「心情」である。
「対話的」は、自他の意思の交流、つまり「方法」である。
「深い学び」、これは「浅い学び」とは異なり、「知っている」ではなく「わかっている」「できる」「活用できる」「概念を形成できる」というレベルの「学び(方・のレベル)」である。(報告書では「深い理解」という言葉に変えているが、それはそれで、また別の意味だと思える)
このジャンルの違ったキーワードを、まとめて追求せよというのである。
それ自体、この報告者は疑問に思わないのだろうか。
宇佐美寛氏も書いていたが、指導方法にまで学習指導要領に入れるべきではない。
要領に「教育目標」「学習内容」を盛り込むことは、まあよいとして、今回のように「指導方法」「学習活動」を入れ込むことは越権である。
ある学習すべきものがあるとして、それを子どもたちにどのように学ばせていくかについては、現場の教員にしか分かるものではないはずだからである。
「ここは、話し合いではなく、1人1人が自分の頭で考えてまとめていくことが、うちのクラスにはふさわしい」
「アクティブラーニング」という言葉が、突然現れるや、大きな書店には、それに便乗した「雨後の竹の子」本が、書店に何種類も積まれるようになった。パラパラとページをめくって立ち読みすると、なんのことはない、これまで出されてきたものの「手直し」程度の内容で、話し合いやグループ活動について焼き直したものばかりで、目次を立ち読みするだけで、概要が分かってしまうほどだ。
話をもどす。
「アクティブラーニング」が、定義できない、多義である、誤解を招くとして、要領に盛り込めず、代わって出てきた「主体的」「対話的」「深い学び」を、ひとくくりにして私たちに理解させよというのでは、現場がただ混乱するだけだ。
現に、今回の報告者の「苦悩」を見よ。
分野の違った言葉を組み合わせているのだから、報告者は、いったんこれらをバラして注釈を加え、さらにそれらを結びつける作業に四苦八苦している現状である。わけもない。
ずっともどろう。
そもそも、「主体的に学ぶ」ことも「対話的に学ぶ」ことも、「深く学ぶ」ことも、なにも新しい発見ではない。これまで私たちが追求してきたものに他ならない。
こうやって、空虚な言葉の「おもてなし」感覚で受けいれ、強引に、さも「新しい学び」だと、外にはしたり顔で喧伝し、内では混乱し困惑するであろう未来の学校現場がが見えてくる。
指導方法まで口をだすな、と文科省に言いたい。