結論から言うと、
2003年度入試以降は都立高校受験において、学区という制度はない。
2002年度までは学区という縛りがあった。
1993年度入試までは、自分が住んでいる学区内の都立高校しか、原則として受験できなかった。
1994年度入試からは、20%の枠で隣接学区から受験することができるようになった。
今でも「旧第〇学区」などという言い方があるのは、この当時の名残だ。
このブログでも、旧学区で高校を区分けしている。
第一学区(千代田区、港区、品川区、大田区)
第二学区(新宿区、渋谷区、目黒区、世田谷区)
第三学区(中野区、杉並区、練馬区)
第四学区(文京区、豊島区、板橋区、北区)
第五学区(中央区、台東区、荒川区、足立区)
第六学区(墨田区、江東区、葛飾区、江戸川区)
第七学区(日野市・八王子市・町田市)
第八学区(立川市・青梅市・昭島市・東大和市・武蔵村山市・福生市・あきる野市・羽村市・瑞穂町・日出町・奥多摩町・檜原村)
第九学区(武蔵野市・小金井市・西東京市・東久留米市・小平市・東村山市・国分寺市・清瀬市)
第十学区(国立市・三鷹市・調布市・狛江市・府中市・多摩市・稲城市)
現在、都内在住であれば、どの都立高校でも受験できる。
ただし、以下の島しょ都立高校は「その島に住んでいること」などの受験条件がある。
・大島高校
・新島高校
・神津高校
・三宅高校
・八丈高校
・小笠原高校
・新島高校
・神津高校
・三宅高校
・八丈高校
・小笠原高校
都教育委員会は「新実施計画(第二次)」として、2019年度以降に島外からの受験生の受け入れ推進を行うとしている。現在は神津高校と八丈高校は島外生徒を受け入れている。
余談だが1994年度入試のころは、学力検査と調査書(=内申点)の比率は
6:4
5:5
4:6
の中から学校ごとに決められていた。
ほとんどが6:4ではあったが、内申点の比重は現在よりも大きかったのだ(現在は7:3)
◆都立の暗黒時代
もう少し、この時代の話をしておこう。
隣接学区からの受験を認めた1994年度。この結果は散々だった。
この枠を利用した受験生は約5%。学区を超えて名門校に殺到する、ということにもならなかった。
しかも受験倍率は1.14倍と過去最低水準。
日比谷や戸山は受験者全員が合格。西も2名の不合格者しか出なかった。
それもそのはず。
前年1993年春の大学入試、日比谷高校からの東大合格はたった1名。
なお東大合格2名の年もあり、1998年と1999年だった。
1990年代、まともな大学に行きたければ、私立や国立(こくりつ)高校に行く。これがこの時代、教育熱の高い家庭の標準的な考え方だった。
その元凶ともいえるのが学校群制度とグループ合同選抜制度。
これにより昭和後期の都立高校人気はガタ落ち。
私立高校への受験生流出が一気に加速した。
学校群制度がどれだけクソひどい制度なのかは、改めて記事にする。
が、端的に言うと「どんなに学力が高く、内申点やテストの点が良くても、行きたい学校に行ける確率は33%」
という制度だ。(確率は群によって異なる)
たとえば42群には北園、豊島、板橋の3高校がある。
学力順では北園が最も高く、板橋が最も低い。(もっとも当時の板橋は"中堅"くらいだった)
北園高校に行きたい受験生は42群に出願し、入試を受ける。
合格点を取れば、上記の3校のどれかに入学が許可される。
どの高校に行きたいかの希望を出せない。成績が良い順というわけでもない。
42群受験生の中でのトップの子が、板橋高校に合格になるかもしれないのだ。
北園高校に行きたくて努力を続けてきた結果がこの仕打ち。
当時の合格者の心中いかばかりか。
◆かつての名門日比谷高校は全くダメになった
このクソ制度により、上位生の都立志願者は激減。彼らは私立高校や私立中学受験をするようになっていく。
これを覆したのが当時の石原都知事。
1999年、石原慎太郎氏が東京都知事選に勝利した直後、テレビ番組で言い放ったのが章タイトルの言葉。
2001年から石原都知事は都立高校改革を開始。
日比谷、西など「進学指導重点校」に指定した高校に予算と人材を集中投資した。
リーマンショックによる経済的な理由からの都立志向も追い風となり、都立人気は徐々に上がっていった。
そして2016年には、日比谷は東大合格数を53名と、40年ぶりに50の大台に載せた。
着手して20年近くかかったのである。
たまに「学区って何ですか」
と聞かれるのでこの記事を書いた。
これからの受験生は、学区という言葉を気にしなくてもいい。
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