池上本門寺境内を歩いていると「←力道山の墓所はあちらです」という立て札がいくつも立っていて、興味本位で彼の墓を見物することにした。
力道山は日本統治下の朝鮮咸鏡南道で朝鮮人の子として生まれ、朝鮮相撲の大会で日本人百田巳之吉に相撲の才を買われ、1940年彼の奨めで15歳で来日し角界入りした。このとき既に妻子持ちで、単身朝鮮海峡を渡ったのだった。その後終戦を挟んで彼は相撲に精進し1949年に関脇にまで昇進するが、翌年に突然、自ら髷を切り廃業する。朝鮮人が横綱になれないことを知ったためとも言われるが、髷を落としたのが朝鮮戦争の開戦直後であったことが気にかかる。
相撲を辞めて三ヶ月後に、力道山は秘かに百田巳之吉の子、百田光浩の名で日本人としての戸籍を得ている。この後プロレスに転身してからも、力道山は朝鮮半島出身であったことはひた隠しにし、相手レスラーに空手チョップを見舞うときには「この朝鮮人野郎」と言うのが口癖だったそうだ。後年、同じく角界からプロレスラーに転身した北尾が韓国籍の長州力に全く同じ言葉をぶつけ、民族差別と見做されて契約解除されている。
力道山は朝鮮半島では「民族の英雄」と奉られているらしいが、朝鮮人の出自を隠して日本人のヒーローになりすまし、米国からやってきた悪役レスラーを「朝鮮人」と侮蔑した上で日本の国技の空手チョップでぶちのめした、鳥でもなく獣でもない蝙蝠のようなレスラーが「真の英雄」になりえるのだろうか。
1963年12月8日、力道山は赤坂のナイトクラブ「
ニューラテンクォーター」で、暴力団員に登山ナイフで腹部を刺され、それがもとで化膿性腹膜炎で死去する。池上本門寺の墓碑に書かれた一文「力道山先生名は百田光浩 九州大村の産 幼にして角界を志し関脇に栄進せるも 一九五一年プロレス界に転身 爾来研鑽鍛練 又多くの門弟を養成 後進の道を拓き斯界の始祖となり隆盛を斎す 一九六二年WWA選手権を獲得名声世界に洽きも 昨年末不慮の災に遭い急逝 時三十九才 一周忌に際し門弟一同碑を献納 謝恩の意を捧げつつ不滅の偉業を讃う 一九六四年十二月十五日 建立」には、未だ出生の秘密は隠されたままである。
そして、3ヶ月が流れ、このなりすましヒーローを刺殺したヤクザが死亡したことを知った。
04月13日
漫画ゴラク読んでますが、力道山が渡米したときハッタリで持っていったチャンピオンベルトを作ったのが根本敬先生のお父上という情報にビックリ。花くまゆうさく先生が紹介してる「真夜中のハーリー&レイス」(東京キララ社)読まなきゃ!