萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第40話 冷厳act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-04-12 22:45:01 | 陽はまた昇るside story
名残の雪、日常の朝



第40話 冷厳act.1―side story「陽はまた昇る」

その日は未明、雪が降り始めた。
窓を開けると頬撫でる冷気と一緒に小雪が舞いこんでくる。
春の吹雪が染めあげていく山嶺と青梅の街に、静かに英二は微笑んだ。

「名残の雪、になるのかな?」

もう吹雪も今冬は、奥多摩では見納めになるかもしれない。
けれど訓練で登りに行く高峰では、吹雪が起きる可能性はまだ高い。
今後の高峰への登山計画を思い、英二は微笑んだ。

下旬に、槍岳と穂高岳。
来月は富士山と剣岳、そしてもう一度、穂高。
穂高の滝谷は、滝沢第三スラブと並んで著名な岩壁になる。

これが終わると初任科総合で、2ヶ月間を警察学校で研修を受ける。
この期間は、外泊日は奥多摩にもどり救助隊の任務に就く。
ちょうど5月から6月は晩春から初夏にかけて、新緑美しい時になる。山もシーズンでそれだけ遭難事故も多い。
特に週末は人出が多く、遭難防止の巡回にも人員が必要になるだろう。
だから英二は外泊日には戻ろうと考えた、けれどふと気になったことが独り言にこぼれた。

「藤岡は、どうするんだろ?」

この青梅署には英二と同期の藤岡が鳩ノ巣駐在所に勤務している。
藤岡は同じ遠野教場の出身で、同期の中ではいちばん長く一緒にいることになる。
初任科総合の2ヶ月間、外泊日を藤岡はどうするのだろう?
たぶん朝食の時に会うだろうから訊いてみようかな?
考えながら静かに窓を閉めると英二は、デスクライトを点けてファイルを開いた。

この救急法ファイルは警察学校の時から書きこんでいる。
殊に卒業配置されたこの青梅署で、警察医吉村に出会ってから精度を増した。
元が大学病院のER担当教授だった吉村医師の救命救急は、トップレベルの技術と経験を備えている。
そんな吉村医師から新人警察官に過ぎない英二は、救急法指導を個人的に受けている。
こんなことは普通はないだろう。
英二も最初は、吉村医師の多忙を見かねて手伝いたかっただけだった。

大抵の警察医は1人で全ての警察医業務を担当しながら、自身の開業医院も持っている。そのため多忙なケースが多い。
吉村医師も青梅署で1人で担当している、開業医院は長男に任せているけれど往診は続けていた。
そして吉村医師の場合は元ERだったことから救急法講習の依頼が多く、警察医の研修テキスト編纂なども担当している。
どの業務も誠実な吉村医師は決して手を抜かない、だから遅くまで診察室の灯がついている時もある。
そんな吉村医師が英二は大好きだった、それでずっと手伝いを続けている。
その手伝いの合間に吉村医師は、英二の救急法について相談に乗ってくれていた。
だから今日も、勤務前の1時間ほどを吉村医師の手伝いに伺う予定になっている。
その前に今日の質問を頭にまとめておきたくて、英二は救急法のファイルとテキストを照合していった。

「うん…やっぱり、脱臼処置のおさらいかな?」

今月の初めに英二は、初めて脱臼処置を実際に見た。
海沢探勝路での滑落で足首を脱臼した女子大生、その遭難救助に国村と向かった時に見ている。
脱臼は処置を間違えれば筋を痛めてしまう、だから慎重を期したくて英二は吉村医師に携帯電話を架けた。
あのとき吉村医師は往診で氷川に来ていた、それで吉村医師は自身が登山道に入って遭難者の脱臼処置をしてくれた。
いつも吉村医師は登山靴とアイゼンを車に積んでいる、だから対応が素早かった。

山岳地域の医師として緊急に備え、いつでも山に入る仕度と整えている。
こういう姿勢は救急医療のトップにふさわしい、そう心からの敬愛を思い出すごと想う。
あのとき吉村医師は登山道に入りながら携帯電話で指示を出し、ときおり救助者の状況確認もしてくれた。
山岳現場に立てるER医師の姿は心に響いて、英二は山岳レスキューの警察官としてプロになる意志を見つめた。

―さすが、奥多摩の警察医だな、先生

素直な敬愛に英二は微笑んだ。
元が奥多摩出身らしく吉村医師は山に馴れている、その素早い登攀と的確な処置はまさに「山ヤの警察医」だった。
あの日の吉村医師を想いながらページを捲って、ふっと英二は困った記憶を想い出した。

「…あのとき、充電切れしたんだよな、携帯、」

吉村医師との連絡に携帯電話を使ったこと、電波の悪い海沢探勝路で電源をおとさなかったこと。
この2つの理由で携帯電話の電池消耗が激しくなって、充電切れを起こしてしまった。
それを英二はあの夜、川崎へ帰るため青梅線に乗ってから気がついた。

きっと周太に心配させてしまう、そう思ったけれど連絡の術もない。
帰る道に公衆電話を探しながら歩いたけれど、見当たらないまま川崎の家の門を潜った。
そして案の定、周太の黒目がちの瞳は涙を湛えて迎えてくれた。

 なんで?どうして充電とかしないの?…ほんと、心配したんだから…ばか、
 ばか、英二のばか。もう知らない、こんなに心配させるなんて、英二ひどい。雪崩とか、考えちゃったんだからね、俺
 しらない、わからない、英二のばか、

「…4回は、ばか、って言われたよな?」

思い出して英二は笑ってしまった。
すっかり拗ねて泣いている周太が、心から愛しくて嬉しかった。
あんなに「ばか」を言われたのは久しぶりだったな?笑いながら英二は携帯を充電器に繋いだ。
あんなふうに拗ねて泣いてくれるほど、求めてもらっている。この現実が温かい。
ふっと、あの夜と翌朝に見つめた周太の姿が心に映りこんで、英二は目を閉じた。

―ほんとうに、きれいだった…周太、

純白のゆかたを纏った、桜いろ艶やかな肌と露含んだ黒髪。
見つめてくれる黒目がちの瞳が、深い想いとあざやかな覚悟に静謐と輝いていた。
こんな美しいひとが自分を求めてくれる。それが不思議で、愛しかった。

―…ずっと抱きしめていて…あいしてるんならいうこときいて
 いつか、奥多摩に住みたい…英二と一緒にいたい、この家ごと、奥多摩に連れて行って

あの夜と朝に、周太が伝えてくれた想いの意味。
ほんとうは解かっている、それなのに自分は言えなかった。
沢山の約束を結んだ、嫁さんになってと言った、自分はすべて君のものだと想いを伝えた。
それなのに言えなかった。
いちばん周太が求めてくれた言葉を、自分は言えなかった。

俺だけのものでいて

そう、言ってあげられなかった。
言えなかった理由が、自分の卑怯な罪悪感の所為だと解っている。
自分が大切な友人の恋愛を簒奪した、それどころか強姦までしてしまった。
この罪悪感に竦んで、周太の望むことを言ってあげられなくなった。

周太には自由に恋愛も経験してほしい。
そういう庇護者としての大らかな願いが今の自分にはある。
そして周太と国村の美しい初恋を愛しいと見つめている自分がいる。
だから自由に周太と光一が想いを重ねてくれたら良い、そう想っている。
けれど、どこか本当は、単に自分の罪悪感を終わらせたいと言う気持ちがある。

―こんな俺は、卑怯だ

優しいフリして本当は自分が傷つきたくないだけ。
本当は自分の罪悪感を終わらせたくて、そんな自分勝手な想いで言ってしまいそうになる。
ただ一度でいいから国村に抱かれてほしい、そう周太に願いそうな自分がいる。
一緒にいたいと望んでくれて、周太が婚約しているのは英二。英二だけに体ごと委ねてくれる。
いま左手に嵌めたクライマーウォッチも、周太の純粋な想いを籠めて贈ってくれた。
それなのに自分は、こんなに狡い。

「…こんな、酷い婚約者なんて…いないよな?…ごめんね、」

クライマーウォッチの文字盤に、涙が1つこぼれ砕けた。
この想いを谷川岳で国村は聴いてくれた、そして笑ってくれた。

―…ホント、酷い馬鹿だね?前にも言っただろが、そんな罪悪感は要らない、俺に遠慮も要らないね

そんなふうに明るく笑って英二の罪悪感を拭ってくれた。
そして堂々と宣戦布告に国村は微笑んだ。

 周太に極上の夜を捧げたい、体ごと心を伝えて愛してるって言いたい
 その時はね、宮田が苦しもうが、俺を止められないよ?そういう俺のこと、誰にも止められない
 それくらい俺は、ワガママだからさ

まばゆいほど真直ぐで潔い宣言だった。
まばゆくて美しいと想った、だから尚更に願いを叶えてほしいと想ってしまった。
同じ一人の男として国村の願いを叶えてほしいと想う、この気持ちと周太の想いが矛盾して哀しい。
友人の願いと恋人の願い、どちらも大切で叶えたい。

―自分は、どうしたらいいのだろう?

想いながら見たクライマーウォッチが6時半を示している。
もう仕度する時間になる、そっとため息ついて英二はファイルを閉じた。
いつものように活動服に着替え始めると、かちり解錠音が鳴って扉が勝手に開いていく。
いつもの侵入者だろうな?思いながらTシャツを着こんだところで、テノールの声が笑った。

「あれ?もうTシャツ着ちゃったんだ、つまんないな」

カーゴパンツとパーカーに作業着をはおった農業青年スタイルで国村が笑っている。
ワイシャツのボタンを留めながら英二も笑いかけた。

「おはよう、国村。今日は少し早めに診察室に行くんだ、」
「ふうん、おはよ。今日は質問が多めなんだ?」

からり笑って聞きながら国村はデスクのファイルを手に取っている。
ページを捲る白い指を見ながら、英二はスラックスにベルトを通して頷いた。

「うん、脱臼の処置をおさらいしたいんだ、沢登の季節になると、転倒も多いから」
「この間の海沢みたいなケースか、まあ脱臼処置がきちんと出来ると助かるよね」

感心げにページを捲りながら底抜けに明るい目が笑っている。
ネクタイをきちんとしめると英二は扉を指差した。

「朝飯、行くけど?」
「うん、俺も食うよ、」

愉しげに笑って国村はファイルを戻してくれる。
そのまま並んで食堂へ向かうと、ちょうど藤岡も一緒になれた。
朝食のトレイを受け取って席に着くと国村が口を開いた。

「宮田、今日の自主トレは12時で良かった?」
「うん、大丈夫だよ」

答えながら英二はベーコンエッグを箸で切った。
藤岡も卵に箸付けながら尋ねてくれる。

「今日の自主トレはどこいく予定?」
「それなんだよね、」

聴かれて底抜けに明るい目が窓へと視線をめぐらした。
英二と藤岡も窓を見やると、真白な空と風雪が広がっている。
未明からの吹雪は止む気配が遠い、この天候だと訓練場所の選択が難しいだろう。
どうするのかな?そう見た先で細い目が愉しげに笑った。

「ウチの山にしよっかね、ラッセルで急登の訓練できるよ」
「あ、梅の山か?」

国村は兼業農家の警察官で、山に梅林を持っている。
まだ英二は行ったことがない、けれど急峻な山を国村は持っていると後藤副隊長から聴いた。
多分その山のことだろう、そう思っていると愉しげに国村は教えてくれた。

「そ、梅の山だよ。ちょっと吹雪いてるけどね、花が見頃だ。なかなか見事なもんだよ、藤岡も今度おいでよ、」
「うん、見たいな。梅はいいよな、雪のなかでも春告げる感じが、かわいいな」

人の好い顔で藤岡が笑っている。
その笑顔に訊きたいことを思い出して英二は口を開いた。

「藤岡、初任科総合の時は外泊日、どうする予定?」
「青梅署に戻る予定だよ、宮田もそうなんだろ?」

気さくに笑いながら藤岡は器用にベーコンエッグの黄身を切りだしている。
いつもどおりに丼飯に乗せるのかな?予測しながら眺めて英二は微笑んだ。

「うん、救助隊も忙しいし、吉村先生の手伝いもあるから。藤岡は柔道指導?」

藤岡は鳩ノ巣駐在所で勤務しながら、地元の柔道指導も担当している。
きっとこの為だろうな?訊いてみた英二に、予想通りに黄身を丼飯にのせながら藤岡は明るく笑ってくれた。

「そうだよ、週末の柔道指導が鳩ノ巣駐在はあるだろ?この柔道指導は、じいちゃんとの約束なんだ、」

藤岡の実家は宮城県の海岸近い農村にある。そこは震災の津波に呑みこまれた地域だった。
藤岡の家は山蔭でなんとか残った、けれど畑仕事に出ていた藤岡の祖父は亡くなった。
この話を国村と英二は、3人で河原の焚火で呑んだときに聴いている。
そんな藤岡の言葉に、細い目が温かに笑んでテノールの声が訊いた。

「藤岡のじいさまか、柔道の師範だって言ってたな?」
「そうだよ。じいちゃんね、村の柔道クラブの師範なんだよ。若い頃は県警の柔道特練で、村の駐在さんだったんだ、」

祖父を藤岡は敬愛していた、だから祖父と同じように警察官になって柔道指導を務める道を選んだ。
そして祖父の遺体を発見してくれた警視庁機動隊の姿にレスキューの道を志して、卒業配置から山岳救助隊を志願している。
こういう姿勢の良い藤岡が英二は好きだった、箸を運びながら英二は微笑んだ。

「藤岡だって、インターハイ出場してるよな?」
「うん、俺は、そこまでだったけどね。でも、やっぱ柔道は好きだな、」

ほんとうに好きなんだろう、そんな笑顔でいる。
この月初に稽古をつけてくれた時も、藤岡の教え方は上手だった。
またお願いしてみようかな?今後のことを考えながら英二は笑いかけた。

「この間もさ、藤岡、教え方が巧いなって思ったよ?お蔭で俺、受身は自信ついた、」
「宮田ってさ、受身きれいだよね?技なら、パワーがあるから肩車とかも良いんじゃない?」

楽しげに藤岡が提案をしてくれる。
いつもながら明るく元気な同期の様子がうれしい、漬物に箸運びながら英二は訊いてみた。

「外国の選手がよくやるやつだよね?」
「そう、あれって実戦向きだしさ、国村対抗策にも良いかもよ?」

英二の相槌に藤岡が、すこし悪戯っ子に笑っている。
国村に対抗するんだ?そんな感想が可笑しくて笑った英二に、テノールの声がふってきた。

「なに?俺を封じる気ってワケ?」

丼飯のお替りを持って来た国村が首を傾げこんだ。
そんな国村に藤岡が、からり笑った。

「うん、だって国村さ?おまえって寝技好きだろ、だから立った状態から投げれる技の方が、封じやすいよなって」
「たしかに寝技は好きだね、」

飄々と笑いながら国村は煮物を口に放り込んだ。
悪戯っ子に細い目を笑ませながら飲みこむと、楽しげにテノールが笑った。

「でもね、出来ればベッドの上での寝技をかけたいよ?ね、俺の可愛いパートナー。今夜も同衾し・よ・う?」

ころん、英二の箸から里芋が丼へと転げこんだ。
うまく丼に入って良かったな?安心しながら英二は隣のアンザイレンパートナーに笑いかけた。

「しない。ベッド狭いから嫌だよ、ちゃんと自分のとこで寝な」
「おや、つれないね?谷川岳じゃ、あんなに仲よくしてくれたのにさ。ね、パートナーなら言うこと聴いて?」

きっぱり断った英二にテノールの声が笑ってくる。
こういう冗談が国村は好きで堪らない、また始まったなと可笑しくなってしまう。
けれど知らない人が聴いたら、さぞ驚くだろうな?
そんな心配をしていると、藤岡が人の好い顔でからっと笑った。

「へえ、宮田。とうとう国村とまで、えっちしちゃったんだ?湯原、怒ってない?」

がきっ、

鈍い音と一緒に、英二の左掌で丼が2つに割れた。

「あーあ、やっちゃったね、宮田?ま、飯がほとんど入ってなくてよかったね、」

飄々と笑って国村は、のんきに自分の丼飯に箸を運んでいる。
その向かいで藤岡は、目を丸くして割れた丼を眺めていた。

「ほんと宮田ってパワーあるな。初任科総合のとき、同期のやつら驚くよ?…そのパワーで国村を押し倒しちゃったわけ?」

ひどい誤解だ。

英二は一度も国村にそんなことをしたことはない。
それに狂言とは言え、国村の方こそ英二を押し倒したことがあるくらいだった。
それなのに、自分が「能動的サイド」と疑われるなんて?
心裡で憮然としながらも、英二は微笑んだ。

「しない、」

きっぱり断言して、割れた丼を英二は謝りに行った。



朝食を終えて自室に戻ると英二は、活動服の上着を着て制帽を被った。
中身を点検したザックを背負い、救急法ファイルを手にとる。
それから携帯電話を充電器から外して、ふと受信ランプに気がついた。

「周太、」

受信ボックスの送信人名に英二は微笑んだ。
また今朝も、この名前を考えている自分がいた。
こんなにいつも誰かを考えている事は、周太に出逢うまで自分には無い。
こんなに考えてしまう、そんな自分に英二はちいさく笑った。

「…こんなに好きなら、言えたらいいのに。ね、周太?」

俺だけのものでいて

そう言えたら、きっと周太は心から笑ってくれる。
それなのに自分は言えなかった。
あんなにも、周太は美しかったのに。

見つめてくれる黒目がちの瞳には、深い純粋な想いが静かに輝いていた。
愛情を盾に命令しながらも隠せない含羞が、変わらない初々しさが眩しくて。
清楚な艶あざやかに桜さきほこる肌が華やいで、黒髪薫る清澄な佇まいに惹きつける。
男でも女でも無い。ただ美しい純粋な温もりが、純白の衣をまとって英二を見つめていた。

「ほんとに周太、…花嫁みたいだったよ?」

やさしいメールの文面に英二は笑いかけた。
いまにして思えば気がつける「男でも女でも無い」谷川岳で国村が言った意味に気づかされていく。
そして想ってしまう、

自分は周太に相応しいのだろうか?

婚約を申し込んだ花束には「あなたに相応しいのは自分だけ」とのメッセージも籠めてある。
けれど、本当に自分が相応しいのだろうかと、自分と国村の想いとを比べてしまう。
あんなふうに美しい純粋な想いを、自分が受け取る資格はあるのだろうか?
いま周太に向けてしまう「一度でいいから」の願いが孕む卑怯な自分が、哀しい自責にもなっていく。
それでも、

「…それでも、周太?俺はね、君との約束はすべて、叶えたいよ?」

いつか奥多摩に故郷をつくること、毎日を一緒に夜と朝をおくること。
いつか自分の伴侶に迎えて、生涯ずっと守り続けていくこと。
そして、どんな場所からも必ず「隣」に帰り続けていく絶対の約束。

「…こんな卑怯な俺だけど、愛してるんだ、君のこと…帰りたいのは君の隣だけ…だよ、」

零れていく想いに涙ひとつ零れて英二は微笑んだ。
こんなふうに誰かを想って泣くなんて、自分は知らなかった。
誰かの為に自分を責めて、自分を見つめて考え込むなんて、思わなかった。

恋は、楽しい遊戯。
そんなふうに自分は思っていた、このひとに出逢うまでは。
ただ「美しい人形」を演じていれば、気楽な快楽にひと時を過ごせた。
ほんのひととき体重ねて寂しさを紛らわす、そのあとの虚しさには目を閉じる。
だから、誰とも「永遠」なんて思わなかった。

こんなにいま、苦しい。そして愛しい。
苦しいけれど想いの温もりは優しくて、心から安らぐ幸せな瞬間が手離せない。
求めてしまう正直な想いに心から、頷いてしまえたらいいのにと願っている。
そして、告げられたらいいのにと思う。

「永遠に、…俺だけのものでいてほしい、ほんとうは…でも、言えないんだ。周太、」

そっとメールの文面に微笑んで、長い指は涙を払った。
涙払って、ひとつ微笑んで長い指はメールの返信を書くと「送信」を押す。
それからチェーンで携帯電話を固定してポケットに仕舞うと、ふと英二は窓を見た。

さらりさらり、
窓ガラスに雪が囁くようふれて、落ちていく。
近寄ってみると硝子には、六角形の花が白い空に輝いていた。

「…雪の結晶だ、」

きれいだな?
きれいな結晶が嬉しくて英二は微笑んだ。
そして「周太にみせてあげたい」そう想っている自分がいた。
こんなふうに、美しいものを見せてあげたいと願える相手がいる。
そんな幸せが温かい、温もりに微笑んでいる自分がいる。

“一緒にいたい、傍にいたい”

素直な想いが心に起きて、温かい。
ほんとうは「資格」とか「相応しい」とか関係ないのかもしれない?
そんな素直な想いが心に響いていく。

もう、素直で良いのかな?

ほっと肩の力が抜ける想いに微笑んで、踵返すと英二は廊下への扉を開いた。

早めの昼食が済むと駐在所に、雪のなか国村は四駆で迎えに来てくれた。
御岳にある国村の持ち山に着くと、軽くラッセルしながら梅林へと登りあげていく。
未明からふり続く雪は、山中に50cmを超える積雪をもたらしている。気温はごく低い。
この分では午後の巡回は積雪が大変だろう、さらりとした雪質は表層雪崩の危険も考えないといけない。
この後の巡回コースを考えながらピッケルを捌いていく英二に、白い息の向うから国村が笑いかけた。

「ほら、宮田?もう梅林だよ、」
「うん?」

テノールの声に目をあげて、英二は軽く息を呑んだ。
真白な雪ふる紗のむこう、白と紅のグラデーションが湧出した。

白梅、紅梅、薄紅の花。一重に八重と花は雪に咲き誇っていく。
樹幹の黒と白銀を屏風にひろがっていく梅花の叢雲は、涯に生まれる幻のよう華やいだ。
山林の深い陰影に白く紅く花雲あざやかで、ゆらめく白銀の紗に微かな雪音がやさしい。
ふりしきる雪に光をまとう花姿には、幽玄な華美が静謐に鎮まっていた。

「…きれいだ、」

ほっと白い息に英二は微笑んだ。
こんな美しい場所があるんだな?素直な賛嘆に英二は切長い目を細めた。

「きっと、周太が見たら喜ぶよ。本当に、霞のように咲くんだな、」

ほら、また「見せてあげたい」と願う自分がいる。
もう素直にただ「愛している」と告げたら良いのかもしれない。
けれど、この美しい場所の主が抱く想いを自分は知っている。
その切なさにまで目を背けることは、自分に出来るのだろうか?
そんな想いを見つめながら、きれいに英二は笑った。

「山は、きれいだな?」
「だろ、」

短く答えて国村が笑っている。
雪ふみわけて梅の木の下に佇むと、国村はそっと幹へと手を伸ばした。

「雪にも咲いて、偉いな?…よしよし、すぐ春が来るよ?」

愛するひとに話すよう国村は梅に笑いかけている。
こんなふうに国村は樹を愛する心が強い、そんな姿は木の精のように見えて不思議だった。
不思議で純粋無垢な心が、作業着にウェアをまとって佇んでいる。
そして英二に愉しげに笑いかける顔は「山」の粋のようだと英二は想った。



(to be continued)

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