萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第46話 夏生―side story「陽はまた昇る」

2012-06-17 23:56:50 | 陽はまた昇るside story
時の入口、懐旧の向こう側



第46話 夏生―side story「陽はまた昇る」

黎明から暁に移る空が窓からあふれだす。
ゆるやかな光に充ちる部屋で、英二はデスクの前に座りこんで紺青色の日記帳を開いていた。
このあと週末で青梅署に戻るまでは、この解読が出来ない。そんな微かな焦りと冷静の狭間でラテン語を目で追っていく。
この日記帳を見つけて数か月、ラテン語にも幾分は慣れて読みやすくなっている。
けれど、綴られていく内容は重苦しさを増し読み難くなっていく。

「あったよ、ここ、」

透明なテノールに声かけられて、英二はベッドをふり向いた。
狭いシングルベッドに寝そべった長身が起きあがって、デスクへと古いページを示してくれる。

『 La chronique de la maison 』

紺青色の布張表紙、フランス語で綴られている「記録」の本。
経年の割には白いページを指さす先に、ある一家に起きた惨劇が綴られている。
ある「家」を廻るミステリー、謎の経緯が外国の言葉で綴られていく。
その全ては50年前、現実だった。

「ここ、『Le Département de la Police Métropolitain』これはね、警視庁って意味。『Mon visiteur』の勤務先になってる、」

惨劇のさなかに交錯している人々の姿、そのなかに顕れる第三者。
それを指し示す単語たちを白い指は順に示し、テノールの声が意味を口にしてくれる。

「で、こっち。『L'agent de police du Département de la Police Métropolitain』警視庁の警察官、って書いてある、」
「て、ことはさ?このイニシャルが警察官の名前?」
「だね。それから『Mon visiteur』との関係は『La même période de l'université』大学時代の同期、ってこと、」
「学部は、きっと違うよな?」
「だろね、どこで知り合った友人なのかは、ここ、『Département qui s'élance』にかかっている。射撃部って意味かな」

示されていく単語たちに、なにが50年前に起きたのか呼び覚まされていく。
いま英二が読んでいたラテン語にも、何頁か先に同じ内容が書き表されているだろう。
そんな思いと追いかけるフランス語の文章に、1つの言葉が白い指に示された。

「そしてね、これ『Mon pistolet』、私の拳銃、って意味だよ、」

推測は、当っていた。



初日の説明など全てを終えて、遠野教官と白石助教が教場を出て行った。
ややあって、途端に教場内が賑やかに笑いだした。

「久しぶりだな、元気だった?」
「おう。おまえ、練馬署だっけ?どんな感じ?」

互いに仲の良い同期と懐旧に会話を交わす。
やはり遠野教場は「特例」クラス替えは一切なかった、班編成も変わらないから座席も同じでいる。
おかげで英二は周太から、すこし離れた席のままだった。
せっかく同じ教場になれたから、今度は隣の席が良かったな?そんなことを考えていると、ポンと肩を叩かれた。

「宮田、久しぶり。雰囲気がすっかり変わったな?」
「おう、内山。久しぶりだな。俺、そんなに変わった?」

麹町警察署に卒業配置された内山とは、卒業式以降は会う機会が全くない。
もう7か月ぶりになるな?そんな時間の経過に微笑んだ英二を、精悍な顔は見つめて頷いた。

「うん。細いままでも体、がっしりしたし。雰囲気も落ち着いたっていうのかな、背中から違う。たぶん教場で宮田が一番変わったな、」
「そうかな?俺の背中、どんなふうに変わった?」

自分でも変わったかな、とは思っている。
同期には自分はどう映るのだろう?訊いてみたいなと思った横から松岡が声かけてくれた。

「久しぶりだな、宮田。ほんと、内山が言う通りだよ?おまえ、大人の男になったな、」
「大人?じゃあ俺、7か月前は子供だったんだ、」
「ああ、悪いけど、子供だったな?」

可笑しそうに言って松岡が笑いだした。
教場で最年長の松岡は、元々が会社員の経験を持っている。その為もあるだろう、初任教養の時から人を良く見ていた。
同期では一番「大人」だろう松岡に「子供」と言われたら仕方ない、我ながら納得しながら英二は答えた。

「俺もね、自分で子供だったな、って思うよ?たった7ヶ月だけど、すごい濃くて、良い時間だったから、」
「そうだろうな。宮田、山岳救助隊だろ?いちばん厳しい現場だって、俺のとこの先輩も言ってた。現場、どんな感じか聴かせろよ、」

落着いた声で松岡が訊いてくれる。
その問いかけに内山も微笑んで、教場の出口を指さしてくれた。

「俺も宮田に聴きたい、って思っていたんだ。俺の現場とは全く違うんだろ?談話室、行こうよ、」
「うん、いいよ。でも俺の現場の話なら、藤岡も一緒の方が解かりやすいかな、」

席を立ちあがり、鞄を持って英二は窓の方をふり向いた。
振向いた先で周太が、関根と瀬尾と上野、それから藤岡と深堀の6人で楽しそうに話している。
同期たちと笑っている顔が幸せな快活に明るい、それが嬉しくて微笑んだ英二の隣で内山が口を開いた。

「湯原も雰囲気、かなり変わったな?なんか、きれいになったよな、男に言うの変かもしれないけど、」

ほめられると嬉しいです、自分の婚約者ですから。

そんな心の声に我ながら面映ゆい、そして可笑しい。
こんなふうに同期と話している最中でも、つい恋の奴隷モードに切り替わる自分が可笑しい。
これから2カ月間、こんなことが多いんだろうな?自分で自分に笑ったとき、松岡が微笑んだ。

「うん。幸せそうで、良い顔だな。恋愛とかしている、って感じだよ」

がったん、

英二の手から鞄が滑落して、中身が床に散乱した。

「ごめん、」

素直に謝ると、英二は床の筆記用具やノートたちを拾い出した。
これ位のことで動じていたら、この先の2カ月間は心臓が困るだろうに?
そんなふうに首傾げこんだ時、すっとノートが目の前に差し出された。

「これ…俺の方にも、飛んで来てたよ。大丈夫?」

穏やかな声が笑いかけて、黒目がちの瞳が見つめてくれる。
やさしい大好きな眼差しとクロスした途端、英二はきれいに微笑んだ。

「うん、大丈夫だよ、周太?寮に戻るよな、一緒に行こう?」

さらり名前で呼んで、周太の手を取ると一緒に立ちあがった。
すこし気恥ずかしげに微笑んだ周太の首筋が、あわい赤に染まっている。
相変わらず初々しくて可愛いな、いま隣にいる幸せに笑いかけた英二に内山が尋ねた。

「湯原のこと、名前で呼んでいるんだ?」
「うん、そのくらい大切なんだ、」

きれいに笑って英二は正直に答えた。
そんな英二に松岡が、温かな笑顔で言ってくれた。

「おまえら、初任教養の時から仲良かったもんな?じゃあ、あとで談話室で、」

軽く手を挙げると松岡は、携帯を開きながら教場を出て行った。
もしかして奥さんからかな?なんとなくそう思って見送っていると、隣から周太が笑いかけてくれた。

「俺たちも行こう?…英二、」

名前、呼んでくれた。

この場所でも名前で呼んでくれた、それが嬉しい。
嬉しくて笑った英二のこめかみを、横から関根が小突いて笑ってくれた。

「久しぶりだな、宮田?相変わらず、湯原には甘い顔しちゃってるんだな、」
「うん、相変わらずだよ?あと、飲み会、ごめん。せっかく瀬尾が声かけてくれたのに、」

関根と瀬尾に英二は謝った。
ほんとうは初任総合の前に、周太も一緒に4人で呑む約束をしていた。
けれど英二の時間が都合つかないまま、今日になっている。
特に話したいことのある瀬尾には申しわけない。困り顔で微笑んだ英二に、瀬尾は優しい笑顔で言ってくれた。

「大丈夫。今夜、俺の部屋で話そうって今、言っていたところなんだ。宮田くんこそ、休みも無いって聴いたよ?大丈夫?」
「俺の場合、好きで行っている訓練が多くて、休みが無いだけだよ。だから大丈夫、」

笑って答えながら、皆で廊下へと出た。
周太の隣を歩きながら、内山が英二と周太の顔を見て微笑んだ。

「湯原も宮田のこと、名前で呼ぶんだな?ほんと、仲良いんだ。そういうの、ちょっと羨ましいよ、」
「ん、そう?」

穏やかに周太が笑いかけてくれる。
そんな周太の顔を見て内山が、さっきと同じことを本人に言った。

「湯原、きれいになったな?男に言うの失礼だったら、すまない、」

黒目がちの瞳がひとつ瞬いて、精悍な顔を見あげている。
すこし首筋が赤くなっていく、けれど周太は綺麗に笑って内山に応えた。

「ん、ありがとう…最近よく、言われるんだ。恥ずかしいけど、嬉しいよ?」
「そうか、じゃあ良かった、」

精悍な顔がほころんで、急に人懐っこい雰囲気にくるまれる。
そういう内山も雰囲気がやわらかくなったかな?そう見ている先、廊下の向こうから仏頂面が歩いてきた。

「宮田、ちょっと来てくれるか?話がある、」

相変わらずの渋めの声をかけて、遠野教官が真直ぐ英二を見てくる。
やっぱり呼びだされたな?元から予想していた展開に英二は微笑んだ。

「はい、解かりました、」

答えると、内山に英二は頼んだ。

「ごめん、内山。松岡にも伝えてくれる?ちょっと遅れるかもって、」
「おう、言っておく。時間は気にするな、」
「ありがとう、」

礼を言って英二は周太を見た。
やっぱり黒目がちの瞳は心配そうに見つめてくれる、こんな顔も愛しい。
目で「大丈夫だよ」と告げて笑いかけると、英二は遠野教官に向き直った。

「すみません、お待たせしました、」
「うむ、」

短く頷いて遠野は廊下を歩きだした。
その隣を、すこし足早な歩調に合わせて英二は歩いて行った。
そのまま屋上へ出ると、無人が見晴らせる場所で遠野は立ち止まった。

「まずは、正式任官おめでとう、宮田、」

仏頂面のまま祝辞を述べて、遠野は英二を見ている。
まずはこれが入口だろうな?微笑んで英二は頭を下げた。

「ありがとうございます、教官。後藤副隊長から、よろしくとご伝言です、」

本来なら初任総合の修了と同時に正式任官と本配属になる、けれど英二は2月に繰り上げられ任官した。
その経緯は遠野教官なら当然すでに知っているだろう、この特別措置が前提で英二の卒配先を決めた本人なのだから。
だから今も細かい話は要らない、ただ礼と伝言を述べた英二に遠野は頷いた。

「うむ、後藤さんもお元気そうだな。ご無沙汰をすまないと伝えてくれ、」

言って、遠野がすこし笑った。
いつにない和やかな表情に、心裡に英二は二度見した。

― このひとも、笑えるんだな?

珍しい笑顔に驚きながら、でも後藤を想うなら笑顔も当然だろうと納得できる。
いつも大らかで深い眼差しと強靭に頼もしい背中は、男なら憧れ目指したい姿だろう。
今ごろは午後の巡回中かな?ふっと奥多摩を懐かしんだ時、渋い声が口を開いた。

「宮田、おまえの新しい履歴書を見た。親族欄と身元引受人が変わったな?」

その質問から来るだろうな?
おだやかに微笑んで英二は自分の担当教官を見た。

「私はクライマー枠で任官しました、公私とも奥多摩が中心になります。それなら本籍も移した方が便利ですから分籍しました。
それに私の両親は今後、山岳救助の任務に反対する可能性があります。ですから身元引受人も、湯原のお母さんにお願いしました、」

正直に答えて英二は微笑んだ。
じっと遠野は英二の目を見、その目は表情を隠しながら此方を探る。
そろそろ訊かれるだろうな?そう見た先でへの字の口が開かれた。

「宮田は、湯原の家と親しくなったんだな?」
「はい、受けとめて貰っています、」

ありのままに答えて、真直ぐ見つめ返す。
見つめた先、ほっと遠野は溜息を吐くと率直に問いを投げかけた。

「宮田、知っているなら教えてほしい。なぜ湯原は、新宿署に配属されたんだ?」

意外な質問に、英二はすこし首を傾げこんだ。
傾げた視界から見る教官の目は、なにか困惑のまま探るよう英二の顔を見つめている。
きっと本当に遠野は「知らない」、おだやかな微笑のまま英二は訊いた。

「卒配先は、教官が決められるんですよね?」
「俺は、湯原の配属先に新宿署は外したんだ。けれど、復帰して確認したら新宿になっている。白石も驚いていた、」

普通なら驚くだろう、けれど自分はもう驚かない。
そのまま静かに英二は、担当教官に確認した。

「警察学校側からの推挙には、新宿署は無かった。そういうことですか、」

もし、そういうことなら。
警察学校「以外」での決定が「意図」を以て、周太を新宿署に配置したことになる。
それは周太の「父の軌跡を追う」意志とは無関係の決定、全てが他者の意図に操作されたことになる。

―この「他者の意図」こそ、俺が潰す相手だ

この決定は「何者」が操作したのか、この操作をする「意志の発生源」は何なのか?
これらを知る最大のヒントが、今、与えられる。警察学校以外の決定なら、考えられる場所は限られるから。
この予想の裏付けが今聴かされる?そんな想いと見つめる先で、渋い声が短く告げた。

「そういうことだ、警察学校は新宿署とは出していない、」

これで、50年の連鎖と束縛の正体が、また露わになる。

ひとつ自分はまた、核心への鍵を手に入れただろう。
周太の新宿署配属が「どこの部署」で決められたのか?それが今、明かされた。
あとは、その部署で「誰が」操作したのか?ここから追えばいい。

「そうですか、」

いま聴かされた「鍵」に短く答えて、英二は静かに微笑んだ。
微笑んだ先から、じっと黒い目が英二を見つめてくる。
どこか翳りのある目は傷みを想わせる、この男も苦しんでいるのだと今は気付かされてしまう。
この7ヶ月の間に自分は幾度も人間の生死と哀嘆に立会ってきた、その瞬間の蓄積から今も相手を見ている。
この男の苦しみが癒えるのは誰が力を貸すことも難しい、そんな想い見つめる先で遠野は静かに訊いた。

「宮田、おまえは何か知っているな?なぜ、湯原は新宿になったんだ、」

静かな苦みの声には、困惑と探り出したい想いが見えてしまう。
この声のトーンに遠野の、教官としての責任感と刑事としての追及する信念が解かる。
いま自分に尋ねてくる2つの想いに笑いかけて、英二は口を開いた。

「教官も、本当は気づいていらっしゃるのでは、ありませんか?」

静かな問いかけに、鋭い目が英二を見つめ返す。
その目に微笑んだまま英二は、問いかけを重ねた。

「お気づきだから、新宿署を外した。違いますか?」

周太が新宿署に配属された、その理由。

これらを英二は「現場」でも見てきた。
新宿駅近くのガード下、新宿警察署のベンチ、術科センター射撃場、いつものラーメン屋。
川崎の家に遺された「2つの血痕」と壊された本、紺青色の日記帳、「家」のルーツを示す事物と想い。
その全てが「周太が新宿署に配属された」理由を示すカードをくれた。

けれど、そうして自分が手に入れたカードを、誰に見せる心算も自分には無い。
このカードの共有は唯ひとりだけ、自分のアンザイレンパートナーだけにしか見せない。
このカードたちが示す方向は決して安全なものではない、むしろ危険に充ちているから。
だから自分たち以外の誰にも見せられない。

―知らないことが、安全を守る…だから言えない

だからこそ周太には尚更に、話すことも気付かせることも出来ない。
本当は教えてあげたい祖父や曾祖父たちの幸せな記憶すら、この危険を手繰るヒントになるから言えない。
だから今も、語ることは欠片も出来ない。

「そうだな、俺は気づいている、」

ため息と一緒に言って、遠野はすこし笑った。
英二も笑いかけて、けれど口は閉ざしたままに遠く北西を眺めた。
いま、自分のザイルパートナーは巡回を終えただろうか?そんな想い見つめる傍から、遠野が口を開いた。

「湯原は、俺の教場の訓練生だ。俺には卒業配置の責任がある、だから知りたい。でも、おまえは話すつもりが無いな?」
「はい、」

短く答えて英二は、おだやかに微笑んだ。
きっと話せば遠野は危険に晒される、それを防ぐことも遠野には難しい。それは半年前の英二も同じだった。
けれど今の自分ならもう、危険に立つことも出来る。それだけの実績と立場と協力を得ているから。
この「今」の自分を作り上げた、その原点に立つ男に英二はきれいに笑いかけた。

「遠野教官。あなたのお蔭で私は青梅署に配属され、山ヤの警察官になれました。心から感謝します、ありがとうございます、」

端正な礼に頭を下げて、英二は微笑んだ。
そんな英二の姿を見つめて、ふっと笑んで遠野は口を開いた。

「宮田、おまえは変わったな。ずいぶんとマシな顔になった、」
「ありがとうございます、」

素直に礼を言って笑いかける。
そんな英二に遠野は言ってくれた。

「山岳救助隊は危険が多い、気を付けろよ、」
「はい、気を付けます、」

心配をするなんて意外で、けれど嬉しい。
そして気づいている、いま言った「気を付けろ」は山岳救助の危険だけじゃない。
けれど敢えて聞かないでいる遠野が好きだなと、自分の教官で良かったと感謝できる。
感謝のまま率直に微笑んだ英二を見、遠野は踵を返しかけた。その背中に英二は声を掛けた。

「教官。安西は服役中ですね?」

周太に危害を加えた男。
あのときの事を自分は、忘れらるだろうか?
この想いと佇んだ英二を翳りある目が見つめ、渋い声は微かに笑った。

「安西の行方は、おまえは知らない方が良い、」

たしかに、その通りだろう。
素直に頷いて英二は、軽やかな諦めを示して見せた。

「そうですね、私は知らない方が、良いかもしれません、」

知れば、手を下したくなるから。
50年の連鎖に絡まる者達を、追い詰め、糾弾するように。

大切な周太に「拳銃」を突きつけた、そんな男は少しも許せない。
赦せない、そんな自分は今もう完全犯罪も出来てしまう。

たとえば、自殺の現場を「作りだす」にはどうするか?
または、遭難の現場を「作り上げる」にはどうしたらいいか?

山岳救助と警察医の補佐、この2つを務めている自分には出来てしまう。
ほんとうの自分は直情的で熱が高すぎ、けれど冷徹な頭脳が行動を起こしてくれる。
この行動も実直なままに綿密で、生真面目なままに緻密な計画を立て、完全犯罪は作られるだろう。
この今も、馨を陥穽に追い込んだ男達を徐々に追い詰めている、それと同じことをするかもしれない。

― もっと、残酷にやるかもしれないな?周太に直接「銃」を突きつけた相手だから

より残酷な復讐。それは周太を泣かせる可能性、だから怖い。
この想い見透かすよう、すこし皮肉っぽい目は笑って渋い声が微笑んだ。

「お互い、知る領分が違う。そういうことだ、」

言って、遠野は出口の方へ踵を返した。
かつんかつん、短靴の足音が屋上を叩き遠ざかっていく。

がたん、

重たい扉の閉まる音がして、静謐が明るい屋上をひたした。
ほっと小さく息吐いて、英二は鉄柵にもたれ空を見あげた。

「…知る領分が、違う…そのとおりだ、」

それでもいつか遭遇したら、自分は何をするだろう?

そんな想いと遠望した北西に、望郷を英二は見つめた。
いま奥多摩は、御岳は、あのブナの木は、どうしているのだろう?

秀介は勉強を誰に聴いている?国村は登山計画書を見ているだろうか、岩崎は、後藤は?
それから吉村医師はたった一人で、警察医任務をすべてこなす。だから過労が心配になる。
きっと国村が代わりに朝晩は手伝ってくれるだろう、けれど農繁期を迎える国村自身が多忙になる。
それでも農業の事は、美代が援けてくれるだろうけれど。

―みんな、どうしてるかな、山はどんな顔かな…

もう今日だけで何回、自分は奥多摩を考えたのだろう?
こんな今の自分に微笑んで、英二は望郷の彼方繋がる空を見あげた。
その視界の端映りこむ校内の木々は、緑が濃い。奥多摩より季節早い府中には、もう夏が兆していた。

夏が来る、そして本配属。
もう英二自身は2月、クライマー専門枠へ切替と同時に正式任官をした。
けれど周太の本配属は初任総合修了と同時、そして異動は夏か秋には来るだろう。
この異動はもう上層部の一角では決定事項にされている、その確信をさっき遠野の言葉に見つめた。

―…俺は、湯原の配属先に新宿署は外したんだ。けれど、復帰して確認したら新宿になっている

警察学校の推挙に無かった新宿署、けれどそこへ周太は配属された。
だから解ってしまう、これも50年の束縛のなか「決定事項」にされていた。

「…警務部人事二課、か…」

そこにも、50年の連鎖と束縛を望む人間がいる。
いったい彼らは、どこまで縛りつけたら満足すると言うのだろう?

『 La chronique de la maison 』

50年前、唯一発の弾丸を発射した。

この罪と罰は、いつ消える?
この哀しみの連鎖反応を望む者たちは、いつ消滅する?

これらには消える意志が無いのだろう。
これらは「法治国家」の名の下に正当化され、生き続けることが肯定されるのだから。
けれど、断ち切ってしまいたい、全ての束縛を壊して、潰してやりたい。
この断絶は「法治国家」の損失になる、そう言われるかもしれない。
けれど自分は護りたい、愛する存在を家を護りたい、愛するひとの尊厳を護りぬきたい。
それは司法の警察官として過ちかもしれない、けれど自分は「人間の尊厳」を護りたい。

そのためには本当は、組織なんてどうでもいい。
だって本来の組織は人間を、人間の尊厳を守るべきものであるはずだから。
それが出来ない組織なんか、どうでもいい。それは小さな人間の利害と虚栄が巣食うだけの場所だから。
そんなものは人間にとって「毒」にすぎないのだから。

「…奥多摩も、晴れてるかな?」

遅い午後の陽射しふる屋上で、ひとり英二は北西を見つめた。



夜、瀬尾の部屋から戻ると英二は、すぐ隣の扉をノックした。
暗い廊下の静謐に、扉が開くだけ光が射していく。
ゆるやかに明るむ廊下に佇んで、英二は明るい室内の婚約者に笑いかけた。

「いい?」
「ん、待ってた、」

頷いて、嬉しそうに中へ入れてくれる。
入ると英二は扉を後ろ手に鍵かけて、愛する小柄な体を抱きしめた。

「周太、逢いたかった、」

笑いかけてキスをする。
キスふれながら額には、すこし濡れている黒髪やわらかに触れる。
そっと唇離れて見つめた瞳は、気恥ずかしげに微笑んだ。

「ん、俺も…」
「よかった、周太も想ってくれるんだね、」

笑いかけて手をとると、ベッドに並んで腰かける。
初任教養の時と同じくらい狭いシングルベッドと部屋、けれど今度は扉に施錠できる。
たった1つ違うだけ、けれどこの差は自分たちにとって大きい。
誰も見に来れない空間で、英二は愛するひとを抱きよせた。

「周太、今日は初日だけど、楽しかった?」
「ん、楽しかったよ?でも…ちょっと恥ずかしかったいろいろ、」

黒目がちの瞳が見上げて、羞みながら正直に答えてくれる。
この「恥ずかしかった」の一番は何か、きっと当てられるだろうな?
ちょっと可笑しくて笑いながら英二は、口を開いた。

「風呂。すごく困っただろ、周太、」
「ん、…困った、よ?」

正直に答えて困ったよう微笑んでくれる。
いつもの穏かな声が、すこし拗ねるよう困った記憶を言ってくれた。

「だって英二が、変なこと言うから…俺、すごく困ったんだから、」
「あ、見るなよ、って関根に言ったこと?」

すぐ気がついて英二は解答に微笑んだ。
たしかに自分は、大浴場の洗い場で一緒になった関根に「見るなよ」と思わず釘刺した。
けれど関根は何を言われているのか、全く解からない顔で訊いてきた。

「なんだ?なにを、見るなよ、なんだよ?」
「いいからさ、俺に向かって何でも喋ってて?」
「宮田に喋るのか?うーん、いろいろ話はあるよな?あ、この間さ、青免のことなんだけど、」

そんな感じで、すぐに関根は笑顔で英二へと話し始めてくれた。
おかげで関根が周太の裸を見る時間は、大部分を減らせた。
つい数時間前の記憶のことに、英二は周太へと微笑んだ。

「今日は風呂、ちょうど空いていて良かったね、周太?関根の視線だけカットすれば良かったしさ、」

周太の素肌は、出来れば誰にも見せたくない。
そんな望みと素直に笑った英二に、困ったよう周太は首傾げこんだ。

「あのね、英二?そういうこと言われると逆に意識しちゃうから…ね、男同士なんだし、そんなに気にしないでほしいんだけど、」
「じゃあ周太?周太は俺の裸を見ても、意識しないの?」

さらり笑って言った言葉に、白いシャツの首筋が忽ち赤くなっていく。
いま周太が着ているシャツは英二が最初に贈った服、すこし大きめなのが可愛らしい。
こんな可愛い婚約者の無防備な姿は、出来れば絶対に他の人間に見せたくはない。
この意志と笑って覗きこんだ、やさしい黒目がちの瞳が困ったよう英二を見た。

「する…だから、ほんとは困ってたの、風呂…」
「周太も意識してくれるんだ?周太は、どんなふうに困ったの?」

自分の裸でときめいてくれるのかな?
なんだか幸せで笑った英二に、気恥ずかしくて堪らないトーンで教えてくれた。

「ん…英二といっしょの風呂は、ね…いつもえいじいろいろするから想いだしちゃって…こまる…」

そんなこと言われたら今すぐ困りそうです。

また恋の奴隷モードが心裡で発言してしまう。
ほんとうは今すぐ「いろいろ」したくて仕方ない、けれど流石に警察学校寮でそれは出来ない。
それなのに見つめる先で赤く染まる首筋は、きれいに艶めいて無垢な誘惑に惹かれてしまう。
恥ずかしがって伏せた睫の翳が長い、滑らかな頬に美しい影絵を描いて見惚れさせる。
まだすこし濡れている髪から昇る香も、おだやかに清々しく心掴んでいく。

「周太、おいで、」

名前を呼んで抱きよせて、瞳を覗きこむ。
気恥ずかしげに見てくれる黒目がちの瞳が愛しい、今こうして抱きしめられる幸せがふれてくる。
この今、こうして抱きしめている。
けれど迎える夏にはもう、どうなるのかほんとうは解からない。

― ずっと、離さない、

この短い祈り、どうか叶えさせてほしい。





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