萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第37話 凍嶺act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-03-25 23:55:58 | 陽はまた昇るside story
寛恕、まもりたい場所



第37話 凍嶺act.6―side story「陽はまた昇る」

周太の母は18時半過ぎに帰って来た。
庭の門が開く軋む音に手伝いの手を止めると、英二は花束と一緒に玄関ホールへ出迎えに出た。
リビングの扉を閉めた時、ちょうど重厚な玄関扉が開いて懐かしい姿が微笑んだ。

「ただいま、英二くん」

穏かな黒目がちの瞳が愉しげに笑ってくれる。
変わらない温もりが嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「おかえりなさい、お母さん。これはね、山梨のばら園で作って貰った花束です」

靴を脱いで玄関ホールに上がった彼女に、鞄と交換に花束を英二は手渡した。
オールドローズの香に微笑んで、うれしそうに周太の母は英二を迎えてくれた。

「ありがとう、とってもいい香ね。おかえりなさい、英二くん。そして、任官おめでとうございます」

明るく黒目がちの瞳を笑ませて、抱えた花束ごときれいに頭を下げてくれる。
恐縮しながら微笑んで英二も礼をすると、彼女の瞳を真直ぐ見て笑いかけた。

「ありがとうございます。これからは公の場でも、ご迷惑をかけることになります。すみません、」
「謝らなくていいの。電話でも言ったでしょう?私はね、あなたは息子なのだと決めています。だから遠慮はいらないわ、」

軽やかに笑いながら上を指さすと、彼女は階段を上がり始めた。
こういう彼女の穏かな包容力と潔癖な覚悟は、いつもながら英二には温かい。
感謝に微笑んで英二は2階ホールに一緒に上がると、鞄を渡しながら彼女にお願いをした。

「お母さん、すこしだけ話があります。夕食の前でも大丈夫ですか?」

英二の言葉に黒目がちの瞳が見上げてくれる。
すこし微笑むと周太の母は頷いてくれた。

「ええ、大丈夫よ。この椅子で話しましょうか、コート脱いで手を洗ってくるわね、」

ホールに据えたティーテーブルの椅子を示すと、微笑んで彼女は自室の扉を開いた。
コート姿を見送って、ふと廊下の窓から見あげた黒紺の空に幾つかの星が掛かっている。
きっと北岳では眩い星の輝きに満ちているだろうな?そんな記憶の空に微笑んで英二は椅子に座った。
これから、この庭先で国村が英二に告げた「3つの責任」と、幾つかの事を話さないといけない。
すこし考えをまとめているうちに、身づくろいを済ませた彼女が向き合って座ってくれた。

「お待たせ、英二くん。お話は、クライマーの任官に関わる事と初任科総合での帰省先、あと、周太のことかしら?」

きれいに黒目がちの瞳が微笑んで、英二の要件を先にきちんと言ってくれた。
こんなふうな理解は、ほんとうに受け入れられていると嬉しくなる。きれいに笑って英二は頷いた。

「はい、その3つです。手短なことから相談させて頂きますね、」
「ええ、どうぞ?でも先に言っちゃおうかな、初任科総合でも、ウチに帰ってきてください」

あっさり最初の1つを言われて英二は笑ってしまった。
彼女も一緒に笑ってくれながら、言葉を続けてくれた。

「だってね、任官の書類にも第一身元引受人に私が認められたでしょう?たぶん、自動的にここが帰省先だと思うわ」

言わないでもすぐ察して彼女は言ってくれた。
こういう聡明さは周太とよく似ている、いま台所で食事の支度をしている姿を想いながら英二は微笑んだ。

「はい、ありがとうございます。俺、初任科総合の休暇は、おそらく青梅署に帰ることになると思います。
ちょうど初夏の登山シーズンで人手が必要になるんです。でも、書類には帰省先を書く必要があるらしくて。すみません、」

「あら、残念。帰ってきてくれないの?でも、任務なら仕方ないね、」

心から残念そうに彼女は言ってくれる。
なんだか逆に申し訳ないな?済まなく想いながら英二は、ひとつの提案をした。

「もし出来そうなら、一度は帰らせて頂きますね?それからお母さん。春になったら、奥多摩に周太といらっしゃいませんか?」
「奥多摩に、私が?」
「はい、お母さんが奥多摩に、です」

黒目がちの瞳が驚いて、すこし大きくなっている。
こんな表情は周太とそっくりで、ほんとうに似たもの親子だなと英二はいつも思う。
こうした感想もどこか温かで、おだやかな幸せに微笑ながら英二は言葉を続けた。

「俺が生きようって選んだ現場を一度見てほしい。これが理由の1つ目です。
そしてもう1つは、お父さんが愛した場所が奥多摩だからです…こんなこと、俺が言うのは図々しいって思わせたなら、すみません」

真直ぐに英二は黒目がちの瞳を見つめた。
見つめた先で彼女は穏やかに微笑んで、ゆっくりと首を振ってくれた。

「いいえ、図々しくなんかないわ?だってね、英二くん。あのひとの想いごと持っていて、って合鍵を渡したのは私だもの?」

きれいな笑顔が「あなたには言う権利があるわ?」と英二に告げてくれる。
こんなにも信頼を寄せてくれる、それが心から嬉しくて感謝が温もりになっていく。
温かな想いを見つめるなかで、彼女は英二に言ってくれた。

「奥多摩、懐かしい。あのひとの休暇が取れたらね、いつも一緒に行って森を歩いて。川で遊んだり、山小屋に泊まったこともあった。
奥多摩はね、あのひとの幸せな記憶の場所なの。だから周太、英二くんと奥多摩で過ごすようになったのは、本当に良かった。
あのひとに本当に向き合えるようになって…だから記憶が戻り始めたのね、周太。あのひとが居た、幸せだったころの…記憶、が、」

黒目がちの瞳から、ひとつ涙がこぼれて白い頬をながれていく。
ゆるやかな涙の紗を、ホールのやわらかな照明にきらめかせながらも彼女はきれいに微笑んだ。

「うん。私もね、幸せだった場所に行きたいな?…春が楽しみね、よろしくね、英二くん」
「はい、楽しみにしてくださいね?」

答えと英二は微笑んで、そっと長い指を伸ばして白い頬の涙を拭った。
ひとつ瞬いて涙を治めると彼女は、すこし首を傾げて笑ってくれた。

「不思議ね、こういう涙の拭い方。ちょっと、あのひとに似てるかな?だからかな、周太、英二くんにだけは、安心できるみたい」
「はい、そのことが今回、俺を救ってくれました。お母さん、俺…お母さんに謝らないといけません、」

この自分が周太を強姦してしまったこと。
そのことが周太の男としてのプライドを傷つけて、周太からの信頼を失ったこと。
けれど周太が「父への想い」にまつわる英二への想いから恋い慕って、求めてもらえたこと。
本当に恥ずかしい事ばかりだった、けれど英二は正直に周太の母へと告白した。
そうして全てを話し終えたとき、彼女は穏やかに微笑んで英二に訊いてくれた。

「あの子を傷つけたこと、それは約束違反ね?けれど、このことから得たもの、お互いに沢山あるのでしょう?」

ほんとうに周太の母が言う通りだった。
今回のことで英二は幾つか考え、気がついたことがあった。
それを聴いてもらえたらいい、素直に英二は口を開いた。

「はい。俺は自分自身の2つの思い違いに気がつけました。ひとつには、俺の愛情は『束縛』でしかなかった事です」
「束縛?」

穏かに短く彼女が相槌を打ってくれる。
やさしいトーンの相槌に英二は頷いて恥を飲みこむと、ずっと考えて来たことを話し始めた。

「お父さんが亡くなった時のこと、俺は何とか真実を知ることが出来ました。
これは俺だけの力で出来たことじゃありません。沢山の人に援けられて出来たことです。きっと、お父さんも援けてくれていました。
そう解っていたはずでした、けれど『俺が周太を救ってあげた』そんな恩着せがましい想いがどこかあって、傲慢になってました。
この傲慢さが、俺だけが周太を全部理解しているんだ、俺だけが守ってやれるんだっていう勘違いになっていたんです。
俺だけが理解して守れる、だから周太は俺のものだ。そんな束縛になっていました、周太を対等な人格として見ていなかったんです」

話しているこの場所は、ゆるやかなホールランプの光が温かい。
オレンジいろの光が照らす温もりと、周太の母の穏やかな瞳が英二の心をほぐしてくれる。
こんな醜い想いすら受容れられていく、そんな信頼と安堵に微笑んで英二は続けた。

「ふたつ目はね、周太は『男』なんだってことです。
いつの間にか俺は、周太をか弱い女の子のように扱っていました。女の子扱いだから周太の男としてのプライドを無視出来たんです。
でもこれは間違いです。率直に言って周太は中性的です、それに泣き虫で甘えん坊な所が可愛い。それでも周太は本当に誇り高い男です。
自分の運命から逃げ出さない、凛とした勁い誇らかな男です。そんな周太に俺、憧れて好きになりました。それなのに忘れていたんです、」

どうして自分は忘れていたのだろう?
あんなに警察学校時代は周太の「男」である面にも援けられていた、その恩も自分は忘れていた。
こんな自分は本当に男として恥ずかしい、こんなにも恥だからこそ今きちんと向き合いたい。
見つめてきた恥と想いに、潔い誇りと微笑んで英二は周太の母に告げた。

「今回のことで俺は、周太は自分と同じ『男』として対等だと肚から気づけました。
周太は優しい分だけ勁い男です、そんな男を女性と同じように扱って守ることは間違いです。
確かに周太は精神年齢が幼くて心配です。でも幼いからこそ、自分で経験して成長しないといけない。束縛は周太を歪めるだけです。
だから周太に自由でいて欲しい、たくさん心の経験を積んで欲しいとお願いしました。国村と恋愛してもいい、そう言ってもあります」

黒目がちの瞳が穏やかなまま真直ぐ英二を見つめてくれる。
その瞳がふっと微笑んで、彼女は言ってくれた。

「あの子のこと、本当に真剣に考えてくれてるのね。…ありがとう、英二くん。
あの子の母として、あなたに心から感謝します。そしてね、英二くん?あなたは、また素敵な大人の男になったね、」

穏かな声が心からの感謝を告げてくれる。
こんな自分でも、また彼女は受容れて真直ぐ見つめて認めてくれた。
こんなに受容れてくれる存在は英二は他に知らない、このひとに会えた自分の幸せに英二は微笑んだ。
そんな想いにいる英二に、きれいに黒目がちの瞳が笑いかけてくれた。

「あの子はね、自由になったうえで、英二くんと一緒にいたい。そう選んでるわ?
それは恋愛感情が勿論ベースよ?それにプラスして、父親の面影を重ねているから尚更、安心して大好きなのだと思うわ」

きっとそうだろうと自分でも考えていた、周太も同じように言ってくれている。
けれど、聡明なこの女性から、周太の母親から言われることは嬉しかった。嬉しくて英二は素直な想いを口にした。

「父親代わりでも、俺は嬉しいんです。お母さん、俺ね?お父さんのこと、すごく好きです。尊敬しています、だから嬉しいんです」

きれいに笑って英二は想うままを声にした。
そのまま相談事を英二は、周太の母に話し始めた。

「それでね、お母さん?国村にとっても俺、父親か兄の代わりみたいで」
「国村くんまで?…あら、それじゃ周太、とりっこしたでしょ?」

さすがに周太の母は「お見通し」らしい。
心強い味方の存在に安心して英二は笑った。

「やっぱり解ります?」
「それはね、あの子の母親だもの?それじゃ今夜、寝る場所もまたケンカになりそうね?」
「そうですね?国村も後に引かない性質なんです。本当に良いヤツなんですけど、ね?」
「周太もね、なかなか頑固でしょ?まさに板挟みになっちゃうね、英二くん?」

困ったわね?と黒目がちの瞳が笑ってくれる。
ほんとに困りそうだと思いながら英二も笑って、次のことへと口を開いた。

「はい、観念して困ります。その国村に言われたんです。クライマーとして俺が任官した、本当の意味を言われました。
お母さん、俺は3つの責任があるんです。その1つめと2つめは前に話した通りです。そして3つめ、これが俺には意外でした…」

3つ目の責任。このことを英二は周太の母に話した。
話しながら長い指でニット越し周太の父の合鍵にふれて、英二は彼のことを想った。
もう、あんな哀しい結末はつくらせない。この責任を背負う背中を正しく自分に備えたい。
敬愛する面影と一緒に英二は心裡、3つ目の責任にまつわる誓いを告げて心刻みこんだ。



話し終えて階段を降り始めると食事の匂いが温かに昇ってくる。
ちょうど支度が整ったのかなと思った英二に、ふと彼女が声を掛けた。

「あら、英二くん?首のとこ赤いね、…凍傷じゃないわよね?」

すこし心配そうに穏やかな声が訊いてくれる。
やさしい気遣いに感謝しながら英二は肩越しにふり向いて笑った。

「これね?国村の罠なんです」
「罠?」

階段を降りてホールに立つと彼女は不思議そうに英二の首筋を見た。
あかるいオレンジの照明の下で赤い痕を見つめると、愉しげに彼女は笑い始めた。

「それ、キスマークなのね?周太、すっかり拗ねたでしょう?」
「はい、俺が寝てる隙に勝手につけられちゃって。さっき俺、周太に怒られました、」
「そうでしょうね?これじゃ本当に、英二くん困ったね?」

笑いながらリビングに入ると暖炉の棚に周太の母は目を留めた。
そこには奥多摩の草花がきれいに寄せ植えされた鉢が置かれてある。
瑞々しい緑と花に微笑んで、彼女は笑い声が愉しい台所の方を振向いた。

「これは、彼のお土産ね?」
「はい。国村は兼業農家の警察官なんです、」

そう英二が説明する声に、台所から長身の姿がリビングへと入ってきた。
捲った袖を直しながら歩み寄ると、底抜けに明るい目が笑って端正な礼で微笑んだ。

「初めまして、国村光一です。今夜はお世話になります、」
「初めまして、光一くん。遠くからようこそ。この鉢植、とても素敵ね?ありがとう、」

穏かな黒目がちの瞳が朗らかに笑っている。
彼女の瞳を真直ぐに純粋無垢な目で見て、国村は笑った。

「宮田はいつも花束を土産にするって聴いたんです。で、俺は地元の花で寄植を造ってみました。他の土産は、夕飯でお披露目します」
「光一くん、お料理が上手って聴いてるわ?楽しみね、」

そんな会話を交わしながらダイニングテーブルに就くと、和食の立派な膳が並んでいた。
いつも周太は端正で温かな家庭料理を整えてくれる、それに加えて酒の肴に合いそうな料理が今夜は並んだ。
たぶんそうかな?予想しながら眺めていると、汁椀を盆に載せて周太が台所から入ってきた。

「おかえりなさい、おかあさん…英二、おまちどうさま?」

うれしそうに笑いかけてくれながら周太は汁椀を配膳してくれる。
そんなエプロン姿がすっかり板についている息子に彼女は楽しげに微笑んだ。

「ただいま、周太。今夜はまた、ご馳走ね?光一くんと作ったの?」
「ん、そう…英二もね、手伝ってくれて。後でね、すごいのがでるよ?」

そう言って周太もエプロンを外すと食卓に就いた。
皆が席につくと国村は、きれいな5合瓶から飴色の酒をグラスに注いだ。

「これはね、俺の家の梅で作ったんです。予約販売はするんですけどね、」

底抜けに明るい目が楽しげに笑っている。
渡されたグラスに口付けて、周太の母は微笑んだ。

「すごく良い香り、おいしいわ、」
「でしょう?俺の自信作の梅ですから。花もきれいですよ、いっぺんは見にお出で下さい、」
「山に梅の林があるのでしょう?周太、ちいさい頃に話してくれて」
「あれ、あの頃に聴いたんですね?今も、あの頃の通りです。霞がかかるように花が咲きます、」

愉しげな話を聴きながら英二も梅酒を楽しんだ。
普通より香りが良くて甘さが控えられている、芳香辛口の酒を好む国村らしい。
旨いなと微笑んだ英二の向かいから、赤く染めた頬に掌を当てながら周太が笑いかけた。

「ね、英二?今夜はね、どれがいちばんおいしい?」

どれもおいしいよ?
いつもなら最初にこれを言うけれど、多分今夜は言わない方が良い。
今夜は国村作が何品も加わっている「どれも」と言ったら国村の手料理まで褒めたことになる。
いつもは気にしなくても今夜の周太はきっと拗ねるだろう。それに献立のなかで英二は周太のものが一番好きだった。
見つめてくれる黒目がちの瞳に微笑んで、英二は素直に答えた。

「鶏の胡桃焼かな?あとは肉じゃが。ごはん食べたくなるな?」

梅酒で染まった頬の赤がまた深くなって、幸せそうに周太は微笑んでくれる。
どうやら周太にとって、満足がいく幸せな回答がきちんと出来たらしい。
この笑顔が嬉しくて微笑んだ英二に、周太が掌を伸ばしてくれた。

「ん、たくさん炊いてあるから…おかわりする?」
「うん、お願いできるかな?」

そんな調子で英二はごはんを7杯食べた。
もう1膳お願いしようかな?空になった茶碗を眺めたとき、隣で国村が立ち上がった。

「宮田、飯はそこまでだ。今から俺がね、最高の〆を出してやるからさ。ちょっと待ちなね」

からり笑って国村は台所へと立っていった。
それから10分ほどして国村は、きれいな蕎麦をたずさえ戻ってきた。

「さっき打っておいたんだ。で、いま茹でたてだからね。このツユでどうぞ、」

蕎麦猪口には香り好い汁が張られている。
この汁に蕎麦をつけて啜ると、蕎麦の芳香がふわり広がった。

「うん、旨いな?」

思わず英二は微笑んで国村を見た。
隣も満足げに自分の蕎麦を啜りこんで、すこし得意げに笑った。

「だろ?俺が作った蕎麦をね、蕎麦粉にして持って来たんだ。
 ほんとは挽きたてがイイんだけどさ、さすがにそれは無理だからね。道具も代用品だけど、旨いもんだろ?」
「そうだよな、道具とかは特に持って来なかったよな?」
「うん、家でもさ、俺はボールとかで作っちゃうんだよね。ああいう大仰な道具って、なんかめんどくさいだろ?」

どうやら国村は蕎麦打ちにも馴れているらしい。
国村の家は代々、梅と蕎麦を作っているから当然のように蕎麦打も出来るのだろう。
そんな国村らしい土産に微笑んで周太の母が言ってくれた。

「お花に梅酒、そしてお蕎麦。どれも奥多摩を満喫させてもらったわ?ありがとう、光一くん」
「お好みにあったなら良かった、奥多摩もイイでしょう? 周太はどう?旨いかな、」

急に聴かれたけれど、落ち着いて周太は箸を止めた。
嬉しそうに微笑ながら周太は、斜め向かいの国村に答えた。

「ん、おいしいよ?ありがとうね、光一」
「そっか、良かった。ご希望とあらば、また作ってあげるからね」

周太の言葉にテノールの声が嬉しそうに答えている。
愉しげな会話で親しい人と囲んだ手料理の食卓、こんなふうに過ごす夕食の時が楽しい。
あかるい寛ぎと温かな食卓が幸せで、英二は幸せに微笑んだ。



風呂を済ませると英二はリビングを覗きこんだ。
リビングでは周太の母が息子と話していた、先に風呂を済ませた国村は2階に上がったらしい。
母子で話す時間もあげたくて、彼女に「おやすみなさい、」を告げると英二も階段を上がった。
周太の部屋に入ると国村の姿が見えない、けれど屋根裏部屋の梯子階段に灯が落ちている。
きっと上にいるのだろう、微笑んで英二は梯子階段に足を掛けた。

「国村、」

部屋に入って声を掛けると、やわらかなフロアーランプの光に長身の背中が佇んでいる。
ゆっくり黒髪の頭がふり向いて、底抜けに明るい目が英二を見つめて笑いかけた。

「今日の湯上りも艶やかだね、宮田?この家、風呂も良いな、」
「うん、ブルーと白のタイルがきれいだったろ?」
「だね。この家の人は、陶器モノは青と白が好きみたいだね」

話しながら並んで床に座り込むと、天窓の星空がきれいだった。
川崎でも意外と星が見える、冬の清澄な大気の所為だろうか?
天窓を見あげる英二の隣から、透明なテノールの声が低く問いかけた。

「ダイニングの飾り皿。あれが何か、宮田は知ってる?」
「いや?きれいだな、とは思っていたけど…数字が入っていたな?あ、」

ダイニングに青い飾り皿が4枚ある。
それぞれ絵柄は異なっているけれど、どれも4桁の数字が焼きこまれていた。
そのうちでも一番に新しい雰囲気の1枚は「1988」となっている。

1988、年?

周太が生まれた年。
そして国村も英二も、美代も生まれた年になる。
青い皿の数字がもつ意味に気がついて、英二は口を開いた。

「あれって、この家の主たちが生まれた年に造られた、ってこと?」
「たぶんね。ま、一番古い皿はさ、この家が建てられた年じゃないかな?でさ、あの皿って結構イイものなんだよね、」

白い指で濡れている黒髪をかきあげながら、珍しく国村がため息を吐いた。
どうしたのかなと見ていると、細い目が英二を見つめて微笑んだ。

「あれはね、デンマークの王室御用達が造るイヤーズプレートなんだ。
限定品でね、しかも限定数を焼き終えると型を壊しちゃうんだよ。それで余計に価値も出るワケだ。
あのコーヒーカップも、このメーカーの代表シリーズだよ。でさ?さっき周太、曾じいさまが揃えたって言っていたよね。
それって多分、この家を建てた大正時代に買い求めたって事だろ?あれを当時から持っているなんてさ、日本じゃ珍しかったろうね、」

和食器は英二も父親に連れられていく食事の場で教えられている。
けれど洋食器は実家にあるメーカー位しか知らなかった、友人の博学を素直に英二は褒めた。

「いいものだな、って思ったけど、そんな価値のあるものって知らなかったよ。国村、良く知ってるんだな?」
「うん、おふくろが詳しかったんだよね、そういうの…」

いつになく少し寂しげなトーンに英二は友人の顔を覗きこんだ。
覗きこんだ細い目はすぐ普段通りに明るく笑うと、英二の額を白い指が小突いた。

「いずれにしてもさ、この家って結構な家だね?家自体も一見、豪邸って程じゃないけど木材が良い、組み合わせ方も巧いよ。
華美じゃないけど丁寧に仕事して造り上げた、住みやすい洋館の良さ。それが細かいところからも解かる、タイル1枚も良いモンだ。
趣味がいい堅実な成功者が造った家、そんな雰囲気だ。たぶん、周太の曾じいさまってさ、何かで成功して財産を作った人じゃない?」

農業高校出身で林業も多い奥多摩育ち、そういう国村は木材の質に目が肥えている。
建築物から読みとっていく類推に頷きながら英二は訊いてみた。

「うん。俺も同じように思ってるよ。書斎の本も立派な装丁だろ、当時は贅沢な物だったよな?
しかもね、周太のお祖父さんは戦後すぐ、パリ大学に留学したらしいんだ。これって、当時は普通、難しかったと思うんだけど、」

周太の祖父に関する日記帳の記述と、過去帳に記された生年。
これらから計算すると終戦間もない時期に、彼はパリ大学ソルボンヌへと留学している。
まだ戦後の混乱期に世界レベルの一流大学に留学するのは、能力だけでは不可能だったはずだろう。
この疑問に対して国村も、すこし考え込むように頷いた。

「あの当時、フランスと日本では経済格差も大きかったしね?それでも蔵書だって舶来モノばかりだ、
当時ソレダケの経済力があるのは珍しいはずだろうな。なにより、当時の日本からパリ大学に行くならさ?
きっとそれなりのバックボーンが無いと無理だ。それに該当する「湯原」を探すと、曾じいさまのことも解かるかもね…ん?」

まだ濡れた黒髪を透かすよう細い目が英二を見た。
その視線に気がついた英二の耳に、かすかな階段を上がる気配が聞こえてくる。
気づいた英二の様子に満足げに目を細めて、白い指を口もとに立てるとテノールの声が微笑んだ。

「お喋りの続きは、また後でだね?愛しのツンデレ女王さまがお出でになるな、」

笑いながら国村は、ロッキングチェアーの方を眺めた。
やさしいフォルムの頑丈な椅子には、可愛らしいテディベアが座っている。
前に訪れた時には居なかった住人に、すこしの驚きと英二は微笑んだ。

「テディベアか、姉ちゃんも持ってるな」
「ふうん、宮田の姉さんか。別嬪なんだってね、美代が言っていたよ」
「でも姉ちゃん、なかなか彼氏出来ないよ?」

そんな話をしていると下で扉が開く音がした。
すぐに梯子階段から微かに軋む音が立って、周太が部屋を覗きこんだ。
覗きこんだ黒目がちの瞳に笑いかけてテノールの声が話しかけた。

「おじゃましてるよ、周太?すてきな屋根裏部屋だね、居心地いいよ」

自分の大切な部屋を褒められて、周太は素直に嬉しそうに笑った。
階段から無垢材の床へと素足で上がりながら、気恥ずかしげに周太は口を開いた。

「ありがとう、のんびりしてね。星、きれいかな…あ、」

2人の視線がロッキングチェアーに向いている事に気がついて、周太の首筋が赤くなり始めた。
見る間に湯上りの頬を更に赤くしながらも、背中を伸ばしたまま周太は無垢材の床に素足を運んでくる。
真赤な頬に羞恥が滲み出てしまっている、それでも周太はロッキングチェアーからテディベアを抱き上げた。

「23歳の男が、なんて変かもだけど…でも、俺の宝物なんだ、」

大切そうにテディベアを抱きしめて周太は2人を見あげた。
そんな周太の瞳を見つめ返して、心から嬉しそうな細い目が温かに笑んだ。

「久しぶりだな、小十郎、」

愉しげに笑いかけながら伸ばした白い掌は、優しくテディベアの頭を撫でた。
優しい掌に周太は、うれしそうに頷くと微笑んだ。

「光一、覚えていてくれた?」
「そりゃね?すごく可愛かったからさ、小十郎も、周太もね、」

さらり答えながら底抜けに明るい目が笑った。
愉しげに笑いながら国村は、すっと体を傾けると周太の耳元にやさしいキスをした。
驚いて黒目がちの瞳が大きくなって、周太は真赤なまま片掌で耳元を押さえこんだ。

「…っ、こういち?」
「あれ、驚かせちゃったかな?ごめんね、周太、」

からり笑いながらも国村は細い目を温かに笑ませている。
愉しげに笑いながら英二と周太を見ると、いつもどおりテノールの声が微笑んだ。

「懐かしい小十郎を見ちゃったらね。子供時代と同じコト、したくなっちゃってさ。堪え性の無い俺で、ごめんね?」

まったく悪びれた様子の無い、いつもながらの堂々とした宣戦布告をしてくれる。
こんなふうに豪胆で無垢な態度はいつも、英二には何だか眩しいなと想えてしまう。
こんな友人がやっぱり大好きだ、穏かに大らかな笑顔で英二は国村の額を小突いた。

「ほんと、堪え性が無いね?でも気持ちは解るな?テディベア抱っこして真赤な周太、可愛いから」
「だろ?ほんと可愛いよね、ちょっと俺、今夜は危ないよ。ねえ?」

飄々と笑いながら「危ないよねえ、」と自分で言って国村は梯子階段を降りていった。
なんだか裏がありそうだな?ちらり気がついて首傾げた英二のシャツを、そっと周太が掴んできた。
黒目がちの瞳が困ったように見上げてくれる。こんな顔は弱いな?微笑んだ英二に周太は唇を開いた。

「…テディベアが好きな23歳の男って…ダメ?」

ゆるやかなトーンで素直に訊いてくれる。
こんな顔でこんなトーンで訊かれて「ダメ」なんて言うわけないのに?
きれいに笑って英二は黒目がちの瞳に答えた。

「姉ちゃんなんか24歳だけど、テディベア2つも持ってるよ?それに、このテディベアは周太に似合ってる、」

想ったままを素直に英二は答えて、周太に笑いかけた。
答えを聴いた周太の赤い頬に、幸せそうな笑顔がほころんだ。

「ありがとう、英二。このテディベア、小十郎って言うんだ。父が付けてくれた名前で…小十郎はね、父の身代わりなんだ」
「身代わり?」

どういうことなのだろう?
穏やかな笑顔で訊きかえした英二に周太は微笑んで、理由を話してくれた。

「父はね、忙しくて休みがとり難かったから。俺が生まれる時も、その後も、傍にいられないかもしれない、って。
それで、父の代わりに傍にいてくれるように、俺が生まれる前に小十郎を連れて来てくれたんだ…俺が寂しい想いをしないように。
小さい頃ずっと大切にしていて…でも、父が亡くなった知らせを聴いた瞬間、小十郎の記憶も失くして…でも最近、思い出せたんだ、」

恥ずかしそうに顔を赤くしながらも、うれしそうに微笑んで話してくれる。
きっと本当に大切な宝物なのだろう、話しながらも周太はやさしく「小十郎」を抱きしめている。
この「小十郎」が周太の父代わりと言うなら尚更に大切だろう、そして父の死を知った瞬間に忘れたことも納得がいく。
この可愛らしテディベアにこもる想いが切なくて愛しい、そっと長い指の掌で「小十郎」の頭を撫でた。

「周太が忘れていた間、お母さんが預かってくれたんだ?」
「ん、そう…13年間ずっと貸してくれて、ありがとう。お母さん、そう言ったんだ…ね、英二?」

見あげてくれる黒目がちの瞳に温かな紗がかかりだす。
おだやかなフロアーランプの灯にきらめく瞳がきれいで、見惚れてしまう。
見つめる英二に周太はきれいに笑って、幸せに言葉を紡いだ。

「お父さん、ずっと一緒にいてくれたんだよ?お母さんと俺と、一緒に。
銀河鉄道は来なかった、けど、ほんとは一緒にいたんだ…だから、奥多摩鉄道もね、本当に一緒に乗っていたよね?」

きっとそうでしょう?
きらめく温かな瞳が英二に問いかけを贈ってくれる。
やさしい問いかけに素直に頷いて英二は微笑んだ。

「うん、一緒に乗っていたよ。だって周太?お父さんの合鍵を持っている俺も、一緒にいたんだから」

幸せな笑顔から涙ひとつこぼれて「小十郎」の瞳にふりかかる。
やさしいテディベアと一緒に泣きながら、周太は英二に笑いかけた。

「あのね…英二は、お父さんの時がある。すごく、安心出来るよ?でも、それ以上にね…英二、」

すこし背伸びして、右掌が英二の左頬をくるんでくれる。
微笑んだ黒目がちの瞳がそっと近づいて、やさしいキスが唇に贈られた。
ふれる想いが温かい、幸せでキスに微笑んだ英二に穏かな声が笑いかけてくれた。

「英二、愛してる…無事に北岳からも帰ってくれて、ありがとう、」

黒目がちの瞳からまた一滴の涙こぼれていく。
やわらかな涙に英二は唇よせて拭うと、黒目がちの瞳に笑いかけた。

「こっちこそだよ、周太?迎えてくれて、ありがとう。こうやって俺はね、必ず帰ってくるよ。愛してるから、」

君を愛している、いつだって。
愛する君を守り続けて、君の隣に帰り続ける。
そのためになら最高峰だって登る、昇進だってする。叶うまで努力する。
想い見つめる真中で周太は気恥ずかしげに微笑んで「小十郎」をロッキングチェアーに座らせた。
そして英二に抱きつくと、幸せに黒目がちの瞳が笑ってくれた。

「ん、愛して?…だから今夜も言うこと聴いて、英二?…おれといっしょにねてね?」

また、フリダシに戻ったな?

可笑しくて微笑んだ英二からすこし離れると、周太はフロアーランプの灯を消した。
星明りだけの部屋で黒目がちの瞳が微笑んで、やさしい唇が唇にふれてくれる。
ふれる唇に応えながら長い腕に小柄な体を抱きとめていく、頬ふれる髪の香に惹かれてしまう。
穏かで温かい幸せなキスの時を過ごして、英二は周太に笑いかけた。

「周太、下に行こう?」
「ん、」

素直に頷いて英二の袖をそっと持つと、周太はくっつくように一緒に歩いてくれる。
梯子階段を降りながら、ちいさな声が恥ずかしげに訊いてくれた。

「ね、ベッドでいっしょにねてくれるんでしょ?ふとん2組、お母さん敷いちゃったけど…」

首筋を赤くしながら、含羞に黒目がちの瞳が潤んで見つめてくれる。
こんなに一緒にいたいと、求めてもらえるのは心から嬉しい。
なによりも、こんな顔されたら聴いてあげたくなってしまう。
けれど国村の周太への想いを知っている以上、それも難しくなってしまう。
階段を降りて周太を見つめると、困ったまま英二は微笑んだ。

「周太、俺も一緒に寝たいよ?でも今夜はね…っ、くにむら?」

言いかけた英二を背中から抱きこんで、国村が肩へと担ぎ上げた。
細身でも英二同等の身長と、それ以上にパワーがある国村は軽々と英二を担いでしまう。
驚いている周太を底抜けに明るい目で見ると、きれいなテノールが愉しげに笑った。

「周太?湯上りの君があんまり可愛いからさ、俺は今夜、オオカミになりそうで危ないんだ。
だから今夜はね、宮田に俺をシッカリ監視して貰って寝るからさ。ね、み・や・た?今夜も俺たち、同衾しようね?」

可笑しそうに笑いながら英二を担いだまま国村は部屋を歩いていく。
山岳救助隊でもパートナー同士の英二と国村は普段から、訓練でお互いを担ぎ合っている。
それどころか互いに背負った状態でザイル登下降もするから、この程度は簡単だった。
これじゃ今の自分は救助者状態だな?抱え上げられた自分が可笑しくて、笑いながら英二は国村の腕を軽く叩いた。

「こら国村、おろしてよ?救助訓練じゃないんだからさ、俺を担ぐ必要はないだろ?」
「堅いこと言うなよ、宮田?…さ、可愛い俺のアンザイレンパートナー。ここが今夜は、俺たちの愛の褥だよ?」

笑い堪えながら細い目を笑ませて国村は、ふとんを捲ると英二と一緒に横たわってしまった。
横向きにさせた英二の背中にがっしり抱きつくと、底抜けに明るい目が周太に微笑んだ。

「さ、周太?はやく電気消して寝ようよ、ここからはね、愛をささやく時間だよ?ね、み・や・た」
「おまえとは愛は囁かないよ?っていうかさ、これじゃ俺、なんにも動けないんだけど、」

英二の肩には腕が回されて、脚には絡み脚まで掛けられているから動けない。
まるで逮捕術の寝技訓練みたいだ?自分の状況が可笑しくて、けれど困って微笑んだ英二にテノールの声が笑いかけた。

「動けないようにしてるんだよ、宮田?さ、俺を一晩ずっと逃がさないでね。周太の色香に俺が負けないよう、レスキューして?」
「今ね、俺がレスキューされたい気分だよ?」

どうとも出来ないでいるうちに、ふっと部屋の灯がおとされてデスクライトが点いた。
きっと周太が消したのだろう。けれど、さっきから周太は何も言わないでいる。
いま周太はなにを想っているのだろう?あわいオレンジの灯が照らす視界に、英二は瞳を動かした。

「周太?」

呼びかけた名前に、かすかな衣擦れの音が応えた。
音に見上げた視界に小柄な影が映りこんで、英二の懐にするりと入り込んだ。

「…ん、英二?」

黒目がちの瞳が懐から、恥ずかしげに微笑んだ。
ふたつの掌が英二の体にしがみついて、気恥ずかしげに周太が身を寄せてくる。
大好きな髪の香が頬ふれるなか、背中からテノールの声が笑った。

「あれ、周太もコッチに来ちゃったんだ?じゃ、3Pしちゃう?」
「しない、」

笑って英二は即答すると、かるく国村の額に頭突きした。
頭突かれた国村が思わず右掌で額をさすった隙に、自由になった右腕で英二は、そっと周太の体を抱きこんだ。

「痛いなあ、宮田。そんなムキになるなよね?」
「なるよ。ほら、周太が固まっちゃっただろ?ね、周太?ごめんね、国村がバカなこと言って」

こんな夜の用語をこの状況で言われて周太は困るだろうな?
そう心配した英二の肩越しに、雪白の顔も懐を覗きこんでくる。
見あげてくれる黒目がちの瞳はひとつ瞬いて、国村と英二に不思議そうに問いかけた。

「ね?さんぴーってなに?」

意味の分からない言葉に周太は考え込んで、固まっていたらしい。
驚かせたわけじゃなくて良かったな、そう安心しかけた肩越しにテノールの声が愉しげに笑った。

「三人で仲良く、えっちすることだよ?試してみたい、周太?」

ほのぐらい照明のなかでも解るほど、すぐさま周太の顔が真赤になった。
これじゃ本当に固まってしまう?すこし焦って英二は周太を抱きこんだまま、長い指で頬にふれた。

「周太?国村は冗談を言っているだけだからね、気にしないで?」
「…ん、…英二?」

頬くるむ指に掌を重ねて黒目がちの瞳が微笑んだ。
微笑んだ顔を周太はすこしだけ動かすと、くるんだ指にやわらかな唇でふれてキスをした。

「…周太、」

心ひっぱたかれて、名前が唇からこぼれでた。
こんなこと、こんな状況で周太がするなんて?
驚いて見つめる黒目がちの瞳が気恥ずかしげに微笑んで、周太の唇が英二に命令をした。

「ないしょにして?あいしてるならいうこときいて、」

こんな命令ちょっと、ときめきます。
心裡の呟きに自身で笑いながら、英二は自分の主に素直に頷いた。

「はい、言うこと聴くよ?それ、好きにして良いよ?」
「ん、…すきにするね」

キスされた指を英二は周太に預けてしまった。
その会話に首傾げてテノールの声が愉しげに笑った。

「なんか愉しそうだね、俺に内緒話みたいだけどさ?ま、俺も好きにするよ、み・や・た、」

愉しげな笑いをあげた唇が英二の首筋にふれた。
驚いて肩越しにふり向くと英二は国村の顔を見た。

「待ってよ、国村?ダメだって、おまえには許可しないよ?」
「あれ、ダメだった?内緒話につい寂しくなって、おしゃぶりが欲しくなっちゃった。許してね、」

からり笑って白い指が英二の額を小突いた。
そんな国村を見あげて周太は、拗ねたように微笑んだ。

「光一、だめ。英二は俺のなの、じゃましないで」
「ダメだね、周太。昼間も言っただろ?宮田はね、俺の公認アンザイレンパートナーなんだから。悪いけど、一生一緒だよ?」
「それはそうだけど…でも俺だってこんやくしゃなんだから。それに光一、俺のこと好きなんでしょ、いうこときいて、」
「嫌だね。確かに俺は君に惚れてるよ?でもね、こればっかりは言うこと聴けないね。こいつは俺の可愛いパートナーだからさ、」
「ばか、光一のばか、言うこと聴いてくれないなら、嫌いになるからね?」
「嫌いになっても良いよ?でも俺はね、ずっと君を愛してるよ、周太?…さ、宮田?俺とイイコトしよっか?」
「だめ、かってにしないで?光一のばか、英二は俺のなの」

周太の母が言った通りに「とりっこ」が始まってしまった。
今夜はずっとこんなだろうか?
こんな調子で今夜は無事に眠れるのかな?
明日は午後から出勤で、そのあと連続8日ほど勤務が続くことになる。
出来れば今夜は寝かせてほしいのにな?そんな想いで英二は2人に提案してみた。

「あのさ、俺、明日から8日間の連続出勤なんだ。だから今夜はね、ゆっくり寝たいんだけど?」

いったん2人とも口を閉じてくれる。
けれどすぐ底抜けに明るい目が笑って、テノールの声が愉しげに笑った。

「俺も7日間の連続だけどね。俺は今夜、寝るの勿体無いな?でも宮田は好きに寝な、俺も好きにするからさ、」

言いながら国村はまた英二の首筋に唇でふれてくる。
こういう艶っぽい悪ふざけが国村は好きで仕方ない、こんなエロオヤジなパートナーが可笑しい。
けれど今笑ったら、きっと懐にいるツンデレ女王さまが怒るだろうな?
そう思って堪えたのに、すぐに懐から抗議の声があがった。

「ばか光一、やめて、英二の首にさわらないで」
「嫌だね。俺はいま口寂しいんだ、こんな美しいうなじの、おしゃぶりを我慢したくないね」

とりっこが再開してしまった。

この2人共たしか、警察学校の首席同士で射撃大会の優勝コンビだったはず。
けれど自分を挟んで繰り広げられる舌戦は、幼稚園児と変わらない気がしてならない。
しかもこの2人は初恋の相手同士でいる、そんな2人から、こんな挟み撃ちにあうなんて予想外だ。
この自分が感動するほど純愛の2人だったはず、なのに、この今の状況はなんだろう?

「がまんしてったら?やめて光一、さわらないで、英二は俺のなの、ばか光一」
「じゃあさ、代わりに君でさせてくれるワケ?だったら止めてあげてもイイけどね」
「自分の腕でもすえばいいでしょ?ばか光一、ばかばか、へんたい、もうしらない」
「周太だってさ、ホントは宮田の指、吸ってただろ?可愛いねえ、ヘ・ン・タ・イ・さん」

もうこの状態でもいいかな?

観念して英二は目を瞑って眠りに入る体勢になった。
大切な婚約者で生涯を誓った相手と、大切な夢の相方で生涯のアンザイレンパートナー。
どちらも大切なふたり。だから「好き」だと表現してもらえるのは嬉しいし、居場所なんだなと幸せになれる。
けれどこの先も、3人で一緒になるたびごと、こんな状態になるのだろうか?
ちょっと途方に暮れて英二は、目を瞑ったまま溜息を吐いた。



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