萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

山霜act.3―side atory「陽はまた昇る」

2011-12-03 20:11:11 | 陽はまた昇るside story
山に生き、




山霜act.3―side atory「陽はまた昇る」

現場は八丁橋から車ですぐの地点だった。
ゴム長靴を履いた大学生の男3人が、林道脇で待っていた。
2人は立っているが、1人は血だらけで蹲っている。
片膝ついてザックをおろしながら、英二は後藤を見上げた。

「副隊長、よろしいですか」
「ああ、頼むよ宮田。国村は彼の聴取を頼む」

笑って後藤は、無事な2名から事情聴取を始めた。
英二と国村で、負傷者の担当になる。他のメンバーは山に入る装備を整え始めた。
英二はすぐにザックから救命用具ケースを出し、感染防止用グローブを準備する。
国村は聴取用の手帳を取り出した。その国村の視線が、学生のゴム長靴を見ている。
たぶん軽装備なことに怒っているな。思いながら英二は、国村に声を懸けた。

「じゃ始めるよ、国村よろしくな」
「うん。こっちこそ、よろしく」

国村の声は冷静だが、目が笑っていない。あとで暴発するかもしれない。
でも今は手当てが先だった。英二はグローブをはめながら、救助者の観察を始める。
彼の顔を覗きこんで、英二は微笑んだ。

「大変でしたね、もう大丈夫です。今、寒くはないですか?」
「…はい、寒さは、大丈夫です」

意識は明確な様子だった。すこし震えが見られるのは、事故のショックだろう。
頭部も打った形跡はなさそうだ、ただパンツ右膝下が裂け血痕が見られる。
微笑みかけながら、英二は順次に訊いていく。

「痛いところを、教えて頂けますか?頭は痛くないですか?」
「頭は大丈夫です…右足が、痛いです。ほかは、背中と腕を少し打ちました。他は大丈夫です」

頭や背中を痛めた様子は無い、すこし安心出来る。
英二は、失礼しますと断って彼の右袖を捲らせてもらった。

「では脈を見せて頂きますね。吐き気は無いですか?」
「はい、無いです」

右側から手を握り、軽く手首を反らせる。
左手で親指側の手首に沿って示指と中指、薬指の3指を当てクライマーウォッチを見た。
15秒計って脈拍数を国村に告げる。これを4倍して1分間あたりの回数として記録していく。
こうした計測データは、医療機関へ引き継ぐ際に報告する。
握った手が少しだけ汗ばんでいる、脈も少し早い。滑落時の緊張が残っている。
けれど英二は、彼に微笑みかけた。

「はい、大丈夫ですね。では指先を失礼します」

循環の初期評価をする、リフィリングテストを行う。
示指の爪先端を5秒間つまみ、ぱっと放す。爪床は3秒でピンク色に戻った。
毛細血管再充満時間を測る方法で、組織還流が影響を受けていると2秒以上かかる。
原因は脱水、ショック、外傷、低体温症などが考えられる。彼の場合はショックと、右足の外傷だろう。
英二の計測データをメモし終わると、国村が事情聴取を始めた。

「すみません、教えてください。どのように崖に落ちましたか?」
「…はい、歩いていた尾根が、細く急になって、…バランスを崩しました」
「細く急に。どうやってその尾根に入りましたか?」
「あの、登山道を逸れたんです。植物が少ないから、支尾根を下って、そして水源林の巡視道に出ました…」

聴取を聴きながら、頭、首、胸、腹部、腰、手、足の順で迅速に観察し続ける。
彼は自分できちんと事情聴取に答えている。意識は明確、頭部損傷も無いようだった。
顔面に擦過傷。首や手足のしびれも無い。ただ右膝下には外傷がある様子だった。
聴取の合間をみとって、英二は声をかけた。

「すみません、パンツを切っても宜しいですか?右膝下の手当てをしたいのですが」
「…あ、はい。お願いします」
「はい、では失礼しますね」

外傷用ハサミで縫目に沿って切っていく。こうすると後で縫い直しが出来る。
岩角にぶつけたらしく膝下には、腫れと裂傷が見られた。まだ出血は止まっていない。
清拭綿で傷の周りをさっと拭くと、シュリンジで創傷内の洗浄をした。
厚手のガーゼパッドで患部を保護し、手早く伸縮包帯を巻いて直接圧迫止血を行う。
巻き終わり処理まで終えると、聴取の合間に声をかけた。

「すみません。結び目は痛い場所には、当たっていませんか?」
「はい、大丈夫です」

応答がしっかりしてきている。きっと彼は大丈夫だろう。
断りを入れて脈拍を15秒計る。さっきより落ち着いてきていた。
顔面の擦過傷の手当てに移る。泥と血の汚れを拭くと傷は浅い、さっと消毒だけ済ませた。
これで一通りは大丈夫だろう。英二はグローブをはずして廃棄袋へと納めた。

「それで、迷い込んだ枝尾根で、バランスを崩したんですね」
「はい、」

にこやかに国村は聴取している。けれど細い目が笑っていない。
彼は登山道を逸れた、そして彼はゴム長靴だ。初心者型遭難としても山を知らなさ過ぎる。
これはもう国村は怒るだろう、手早く用具を片付けながら英二は見守った。

「そうですか。長靴で、よく急斜面に入れましたね」

顔は笑っているのに細い目が怖い。
しかも「長靴で」を強調した、これは完全に皮肉で言っている。
天祖山のような急斜に長靴で登ることは、あまりに暴挙に過ぎただろう。
この大学生をフォローする言葉は、英二にも見つけられそうにない。

「ええ、大学の授業の一環だったので、必死で」
「そうですか、必死で、ねえ?」

しかも聴取中なのに「ねえ?」と言った。こういう時は暴言寸前のサイン。
彼の怪我よりも、こっちの方が重度だ。
困ったなと思いながら、英二は救助者の状況報告を書き始めた。
書いておけば、消防の救命救急士への引継ぎ報告がスムーズになる。
計測数値の確認がしたくて、英二は国村に声をかけた。

「国村、さっきの計測数値、ちょっと見せて」
「はい、ここね」

手帳のページに記された数値を、国村の白い指が示してくれた。
その指したデータの横に「ゴム長人間の記録」と添え書きされている。
思わず英二は噴き出してしまった。

「っ…うん。メモありがとうな」
「いいえ、俺の仕事ですから?」

涼しい顔と声で答えた国村は、細い目が笑っている。噴き出した英二にすこし満足したのだろう。
少しは暴発を、避けられるだろうか。そう思うと余計に可笑しくて、なんとか英二は微笑みで押さえこんだ。
計測数値を報告書に書きこんだ時、英二の無線が受信になった。
後藤副隊長からだった。

「宮田、そっちはどうだ」
「はい、応急処置は完了しました。軽傷で意識も明確な様子です」

無線と話しながら、報告書のペンは走らせていく。
こうしても英二は、正確に話を聴くことが出来る。要領の良さが、こんなふうにも適性になっていた。

「そうか、無事なら良かったよ。で、国村はどんな様子だ?」

事情聴取の内容ではなく、先に国村の様子を後藤は訊いた。
きっと後藤も英二と同じ心配をしている。少し笑って英二は答えた。

「はい、ついさっき『ねえ?』が出ました」
「あっ、あいつ、もうじき怒るな。ちょうどいい、すぐ国村とこっち来い。そうだ今ちょっと声かけろ」

後藤が応援を呼ぶからには、むこうの現場は厳しい状況だろう。
この後の現場を覚悟しながら、英二は国村を振返った。
見ると今まさに唇の端が上がりかけている。すぐ英二は声を懸けた。

「国村、現場急行するよ?準備よろしくな」
「おう、了解」

英二に答えると、国村は立ち上がって準備を始めた。
とりあえず今の暴発は回避出来たらしい。でも今を我慢させた分、後が怖いだろう。
その国村の背後に、消防の山岳救助車が見えた。これですぐ引き継げる。
英二は無線に報告した。

「今、ちょうど消防が到着しました。引き継ぎ次第、そちらへ向かいます」
「うん、頼むよ。消防隊への報告もよろしくな」

消防隊員に国村は既に説明を始めている。国村は自由人だが、仕事は適確にこなす。
それが今は色んな意味で幸いした、英二は微笑んだ。

「はい、今、国村が状況説明を始めてくれています」
「そりゃよかったよ。あいつの注意をな、救助者に向けないようにしとけ。そのままこっちへ連れて来い」
「はい、了解です」

無線を切って、英二は消防の救命救急士へ引継ぎを始めた。
書いたばかりの状況報告を示し、2回の脈拍データとリフィリングテスト、観察の経過報告をした。
すぐに終わって、救命救急士が英二に微笑んだ。

「適確で解りやすいですね、どこかで勉強したのですか?」
「はい、青梅署警察医の先生に教わっています」

あれっという顔をして、救命救急士が言った。

「あ、吉村先生か。じゃ、君が宮田くんなんだね」
「ええ、そうですが」

なぜ知っているのだろう。
不思議に思っていると、救命救急士が笑って教えてくれた。

「吉村先生にはね、救命救急のレクチャーでお世話になっていて。それで宮田くんの話も聞きました」
「そうでしたか、」

どう話してくれたのだろう。
気にはなるが、今は救助の任務で急行しないといけない。
消防からも後続すると聞いてから、英二と国村はミニパトカーで先行した。
ハンドルを捌きながら、国村が言った。

「たぶんさ、厳しい状況だろうね。呼ばれるってことはさ」

国村も同じことを考えている。
これから直面する現場は、きっと厳しいだろう。
それでも微笑んで英二は頷いた。

「うん、そうだな。でも出来る限りはしたいよ」
「だね、」

ちょっとだけ、お互いに笑いあった。
少し走って現場につくと、ウェストハーネスを装着する。

「このルンゼの200mほど上らしいね」
「うん、ここからだと見えないな」
「だな。じゃ、行くよ」

国村が先になって登攀を始める。英二も後を追って登って行った。
途中からルンゼは急になっていく。
国村は左側の小尾根に取りついてブッシュを掴んだ。

「宮田、ブッシュを抜かないように気をつけろよ」
「おう、気をつける」

ブッシュはいわゆる自生の草藪だった。これを掴んで登る。
そうして200mほど登攀すると、傾斜の落ちたルンゼにあがる。
後藤副隊長と奥多摩交番の池上が、遭難者に付添って声かけをしていた。
遭難者はレスキューシートを掛けられている。後藤が振り向いて、英二と国村の傍に来た。

「ついさっきな、ここまで何とか運んだばかりだ」
「危険個所にいました?」

国村の問いに、後藤が10mほど上の岩場を指さした。

「あそこにな、引っかかったのを3人がかりで降ろして、俺達がここで受けたんだ」

大変な作業だったろう。
ここに藤岡はいない、おそらく岩場からの下降担当だった。
藤岡はどうしているだろう。思っていると後藤が教えてくれた。

「今な、3人がバスケット担架の準備をしている。なんとか引き下ろせるといいが」
「救助者の状況はどうなのですか?」

英二の問いに、後藤がすこし険しい顔になる。
100mほど滑落したようだよと前置きして、後藤が言った。

「厳しい状況だと思う。でも宮田、看てやってほしい」
「はい、彼女の名前は?」

訊きながら英二は、ザックを降ろし救急用具の仕度を始める。
そういう英二の様子に微笑んで、後藤も隣に片膝をついた。

「うん、Yさんだ」
「Yさんですね。国村、始めていい?」

感染防止グローブをはめながら、英二は国村を見た。
国村は手帳を準備して、クライマーウォッチを見、英二に笑った。

「おう、よろしく頼むな」
「うん。こっちこそ、お願いします」

お互いにすこし笑いあって、救助者に向き直った。
そっとレスキューシートを、国村が捲っていく。少しだけ国村の目が大きくなった。

若い女性は、無残な状態で横たわっていた。

頭部裂傷による流血、右頬の青黒い打撲痕、右肩と右前腕の変形。きっと右側から落ちている。
呼吸が細い。胸部打撲と、背中も打っている可能性がある。なにより頚椎損傷が怖い。
そして微かな震えがたまに起きる。これがもし、けいれんなら脳への影響が考えられる。
確かに後藤が言うように、難しい状況だろう。それでも諦めるわけにはいかない。
英二は微笑んで、でも大声で呼びかけた。

「Yさん!聴こえますか?救助隊が着きました!目を開けてくれませんか!」

彼女の瞳が、すこし開いてこちらを見た。
反応がある、だから間に合うと信じる。微笑んで英二は、低いけれど透る大声で訊いた。

「Yさん!頭は痛くないですか?痛い場所を教えて下さい!」
「…っ、いた、い」

言葉が出た、うれしくて英二は微笑んだ。言葉が出るなら、意識障害は少ないかもれない。
耳、鼻からの出血も無い。吐瀉の形跡もまだ無かった。脳への打撃は無いかもしれない。
ただ時折の震えが、事故のショックなのか、けいれんなのかが判別し難い。
でも何とかなる大丈夫、そう信じて今は処置を進めるだけ。

「Yさん!脈拍を見せて下さい、左手からよろしいですか!」
「…は、…い、」

呼びかけへの反応が続く、脳へのショックは少ないかもしれない。
そっと彼女の左手をとり、脈拍の確認を始める。15秒の計測、拍動が弱い。掌は冷たく汗ばんでいる。
国村に計測報告すると、今度はリフィリングテストを行う。
爪床の色調が戻るのに2秒をはるかに超えた。
それでも英二は、彼女に微笑んだ。

「はい、大丈夫です!では怪我の手当てをしますね!」
「…はい、」
「いちばん痛いところは、どこですか!」
「あ、たま…みぎ、う、で」

問いかけながら、頭部の裂傷を英二は看た。
清拭綿で傷の周りをさっと拭くと、シュリンジで創傷内の洗浄をする。
思ったより傷が浅く、腫れも少ない。岩場の角にぶつけたのではなく、切っただけのようだった。
頭部の打撃さえ少なければ、何とかなるかもしれない。
厚手のガーゼパッドで保護し、止血リンク中央に患部が来るように当て、しずかにネットをかぶせた。

「Yさん!もうじき救急隊も来ますよ!がんばってください!」

記録をとりながら、国村が横から声かけを続けていた。
彼女の瞳が、声に反応して国村を見ている。
こういう声かけが人命を救う。国村は一生懸命に呼びながら、ペンを動かしていく。
池上も必死で呼びかけている。

「Yさん!病院にすぐ行けます!頑張らないと駄目だ!」

ふたりの呼びかけを聴きながら、英二は右前腕の手当てを進めた。
開放骨折にはなっていない、皮下で起きた非開放性の単純骨折でいる。
けれど変形がひどい。きっと扱いを間違えれば、いつでも開放骨折に繋がる危険が高い。
固定後の締めすぎチェックのために、先にまず脈拍確認をする。
英二は呼びかけた。

「Yさん!右の脈拍確認させて下さい!」
「…は、い」

そっと右腕の脈をとる。思った通り脈はとれない。
記録を待っていた国村に、英二は首を振った。けれど英二は、彼女に微笑んだ。

「はい、大丈夫です!もうすぐ救急隊も来ますからね!」
「は、い…」

右腕は皮膚が青黒く変色を起こし、冷たくなっている。
サムスプリントで副木し、肘、前腕、手首にまたがるよう上下からはさむと形を整えた。
掌に丸めたタオルを軽く握らせ、親指と4指の間からバンテ-ジで巻きあげる。
右肩は腫れている、アイスパックを前後にあてがい、右上腕を引き寄せるよう慎重に固定した。
出来る限りの処置を終え、英二は微笑みかけた。

「Yさん!大丈夫、もうじき病院に行けますよ!」
「…はい、」

意識はしっかりし始めた。震えも停まっている。英二は感染防止グローブを外し廃棄袋へ納めた。
このまま保って助かってほしい。横で呼びかける国村や池上も同じ想いだろう。
彼女はまだ大学生、自分や国村と同年代だった。そして吉村医師の次男が遭難死した年頃になる。
まだ若い、どうか生きてほしい。そして今度は、きちんと山を楽しんでほしい。
手早く状況報告を書きながら、英二も呼びかけを続けた。
その傍で無線を繋いだ後藤が、振り向いた。

「バスケット担架が来たぞ、救急車も到着した!」

よかった、英二は彼女に微笑んだ。
彼女も微笑み返してくれる。意識は明確なようだった。
きっと救かる。そう思いながら、国村達と彼女を担架に載せた。

女子大生の搬送は12:00前に終わった。軽傷の男子学生も、一緒に病院へ運ばれる。
女子大生の引継ぎのために英二は、救急車の救命救急士と話していた。
その視界の端を、国村が無事だった学生達に近寄っていく。
そのひとりは、遭難した学生グループのリーダーだった。

まずい、
英二は引継ぎを終えると、国村の顔を見た。
細い目がちらっと英二を見、すっと唇の端があがる。
邪魔すんなよな。そんなふうに細い目が英二に笑った。

ちょっと止められないかな。
思いながらも英二は、国村の傍へ歩み寄っていく。
ちらっと英二を見ると国村は、疲れて座りこむ2人の学生の前に立った。
丁寧に微笑んで、国村は片方の学生に声を掛ける。

「すみません、あなたがグループリーダーの方ですよね」
「はい、」
「ちょっとね、お話伺わせて貰えます?」

そのまま国村は、学生の前にしゃがみこんだ。
細い目で学生の顔を見、口を開いた。

「どうして、ゴム長靴で登られたんですか?」
「ああ、もし雨が降ったらと思いまして」

「ふん、雨、ねえ?」

こんな「ねえ?」は不穏な兆候だ。
ちょっと困ったなと思っていると、また国村は訊いた。

「では、どうして細い尾根道をさ、そのまま進んだのですかね?」
「道だから、どこかに出るだろうと…思いまして…」

「ふうん、どこかに、ねえ?」

不穏な「ねえ?」に学生もちょっと気付いたらしい。語尾が小さくなっている。
もう手遅れかなと、英二は国村の横に立った。
そんな英二を見あげ、細い目が笑う「いいからさ、ちょっと見ててよ?」そんな感じで。
すこし低い声で国村が、学生に笑いかけた。

「確かにね、長靴はいていたら、今日は降りましたよね。ねえ?」
「…え、今日は晴れていましたけど…」

余計な答えをしない方が良いのにな。思って英二は、もう黙っていることに決めた。
だってもう国村の目が「馬鹿じゃないの」と呟くのが英二には聴こえる。
そしてその呟きを、国村は実際に口にした。

「まだ解らないんだ?ほんとさ、馬鹿じゃないの」

もう絶対に止められないな。
観念して英二は、国村の言葉に佇んだ。

唇の端をすっと上げて、国村は低く明確に言った。

「雨じゃなくてさ、「人間」が降ったんだよなあ、今日は。ねえ?
それでなに、道だからどこかに出る?
ああ、出たよな?「あの世」ってやつの近くにさ。
今だって女の子ひとり、死後の世界にね、出ちゃうかもしれないよな。ねえ?」

深く鋭い視線が、真直ぐに2人を射竦めていく。
男子学生2人は、竦んでただ国村を見つめていた。
突き離すよう笑いながら、鋭い眼差しで国村は口を開いていく。

「ほんとにさあ、わかっちゃいないね、ガキ過ぎるんだよ、なあ?
 山ではさあ、人間の小っさい思いこみなんかね、通用しないんだよ。
 ちょっとのミスでも山ではさあ、人間なんか簡単に死ぬんだ。
 ここは山だ、山のルールしか通用しない。てめえのミスがなあ、人を殺しちまうんだよ」

こんな時の国村は自由で誇らかなままに、純粋な怒りは容赦ない。
そんな国村の前で、男2人は呆然と座り込んでいる。
これだけ真直ぐな怒りをぶつけられたら、大抵の人間は心が竦むだろう。
けれど仕方がない、彼らはそれだけの過ちを犯したのだから。
思いながら英二は佇んで、あざやかに純粋な怒りを見つめていた。

「山を知ろうともしない、そして勝手なことばっかしてさあ。
 そのクセなんだよなあ?危険な救助をさあ、他人に押しつけやがって。ねえ?
 こっちもさあ、仕事だって言ってもな、真剣に命がけでやってんだよ。わかってねえだろ、なあ?
 責任も取れないガキがさ、出鱈目な事するんじゃないよ。お前らの出鱈目がさあ、マジ迷惑なんだよ」

国村の怒りは正当だ。山ヤとして真っ当で美しい怒りだろう。
同じ山岳救助隊員としても、英二は国村の怒りがよく解る。
だから国村の怒りを、自分だって持っている。

けれど、この男2人の姿は少し前の自分だ。
そんな自分だけれど、チャンスを与えられて今ここにいる。
周太に努力と誇りを知り、遠野教官と後藤副隊長に配慮され、そして国村や吉村医師に会えた。
どれだけの支えの中で自分は今あるのか。その感謝は本当にしつくせないだろう。
だから自分も、彼らにチャンスを与える一人になれたらいいい。
そっと国村の隣に片膝をつくと、英二は2人に微笑みかけた。

「彼が言う通り、ここは山です。人間の都合で作られた、便利な都会とは違います。
 都会と違って山は怖いです。そして山には絶対のルールがあります。
 けれど本当に山は美しいです。その美しさに出会うには、山のルールが必要なんです。
 ですから今度は、きちんとルールを学ばれて山へ来てください。そうすると本当に美しい姿をね、山は見せてくれますよ」

あなた達にだって、チャンスはきちんとある。そんなふうに英二は微笑んだ。
リーダーの学生が英二を見つめる。そして遠慮がちに口を開いてくれた。

「…俺は、仲間を危険な目に遭わせました。…それでもまた、山へ来ても良いのでしょうか」
「ええ、」

無知だった自分も今、こうしてここにいる。
だからこの目の前の男も、きっと大丈夫だろう。学生の目を見、英二は言った。

「きちんと山を理解し、山に敬意を払って、危険に踏みこまないこと。それが出来れば山は受入れてくれる、そう思います」
「俺でも、誰でも?」

もちろんと英二は頷いた。
だってあんなにも、いい加減に生きていた自分すらここにいる。
あの頃の自分よりは、ずっとこの学生の方が真摯だろう。
英二は、きれいに笑った。

「山のルール生きる人なら、誰でも。だってね、山の懐は大きいですから」

山は恐ろしく美しい。そして人の死も生も、喜びも哀しみも懐深く抱いている。
その懐で育まれて、たった2カ月足らずで自分はこんなに変わった。
その山への想いが英二を、きれいに笑わせくれる。
そんな英二を見、学生が微笑んでくれた。

「すみませんでした…俺、今度はきちんと山に来ます。本当にご迷惑を申し訳ありません、ありがとうございます」
「はい、ぜひ来て下さいね。特に靴は気を付けて」

うれしそうに学生は頷いて、笑ってくれた。
これでこの学生達は、きちんと山を大切に出来るといい。
そう微笑んだ英二の横から、ごつんと国村が肩ぶつけて笑った。

「宮田、おまえさ。良いこと言うね」
「うん?そうかな、思ったことを言っているだけだぞ」

笑って答える英二を見る、国村の細い目は底抜けに明るい。
その目で国村は楽しそうに笑った。

「それがさ、良いんだって。ま、普段はね、エロいばっかだけどさ」
「なに、俺ってさ、そういうポジションなんだ?」
「だね、」

楽しそうに笑う国村には、ついさっきまでの怒りは無かった。
学生達へ向けたように、山への無礼を心底怒る国村は、山ヤとして美しい。
けれどやっぱり、笑ってくれる方が良い。うれしくて英二も、国村と笑った。

学生達を見送って、現場検証も全てが終わった。
ようやく解散となってから、ほっと英二は水筒の水を飲んだ。
直ぐ横では藤岡と国村が、今夜の仕度の話をしている。
ぼんやり二人の様子を眺める英二に、後藤が笑いかけてくれた。

「宮田、ありがとうよ。助かった」

なにかしただろうか。
思って英二が目だけで訊くと、後藤が微笑んだ。

「うん、応急処置とな、国村の処置だよ」

国村にも「処置」なんだな。
思って可笑しかったが、先に気がかりを英二は訊いた。

「救助者の方、容体はいかがなのでしょう?」
「そのことだよ、宮田。いま連絡があった、彼女は大丈夫だ。
ファーストエイドが良かったと、搬送先の市立総合から褒められたよ」

よかった。彼女の無事がうれしい。まだ大学生だった。自分と同じ年頃、まだ若い。
なにより、大学生の身で遭難死した吉村の次男を想うと、やっぱり救かってほしかった。
今日は吉村医師に良い報告もできる。彼女と吉村と両方とも、うれしくて英二は笑った。

「ほんと、良かったです。早く治ると良いですね、」

英二の顔を見て、楽しそうに後藤が笑った。

「なんだか宮田は、吉村に似てきたなあ」
「そうですか?すごく光栄です、そして申し訳なくて恐縮しますね」

ほんとうに光栄だ。
なんだか気恥ずかしいなと思っていると、後藤が言ってくれた。

「宮田、国村をな、よく受けとめてくれたな。俺はなあ、うれしかったよ」
「国村をですか?」

そうだと頷いて、温かな眼ざしで後藤が微笑んだ。

「さっきな、あいつまた怒ったろ?その後にさ、宮田がな、あいつの気持ちを学生達に話してやったろ?」
「いや、あれは俺も、思ったこと言っただけです」

ありのまま、正直に英二は後藤に言った。
英二はほんとうに、思ったままを言っただけだった。

「うん、それがな、良いんだよ。
国村はな、思ったことだけ率直に言うだろ?宮田も思ったことしか言わない、同じなんだ。
しかもな、国村が大切にしていることを、宮田も心から大切にしている。
同じことを大切にして、同じように率直に言えるヤツがいる。それがな、あいつには嬉しいんだ」

確かにそうだ。英二も自分で思った。国村と自分は、その部分で似ている。
そして英二にとっても、そういう国村の存在は嬉しい。
こういうのは良いな。思って英二は、きれいに笑った。

「それは、俺にとっても嬉しいです」
「そうか、うん、」

うれしそうに後藤も頷いて、笑った。
後藤の笑顔も英二には嬉しい。そして不思議にも思う。
奥多摩で生まれ育った、山ヤの申し子のような国村。そんな国村と自分の出会いは、1年前は想像もつかなかった。
けれど今はもう、山ヤのパートナーとして友人として、一緒に立つことが自然になっている。
人の運命は本当に不思議だ、そしてこんな自分の「今」が嬉しい。




(to be continued)



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4 コメント

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Unknown (深春)
2011-12-04 18:11:19
やっと最新頁まで追いつけました。
しかも爽快な読後感に浸れる話で、よかったです。

正しいことを怒鳴れる国村は、イイヤツですね。
それも山で爆発できるからこそ、彼の言葉がまっすぐ伝わってイイですね。

これが湯原のいる新宿だとどうでしょう。
正しいことを怒鳴るだけ、空しくも侘びしい空気にからめとられる気がします。

国村には山でずっと生きていて欲しいです。
そして宮田が、あのチャラ男からスタートして、ここまで立派に
自分の居場所をつくれたことがステキです。
実母といつか再会できた時、湯原が根底の支えだったことを生理的に拒否したとしても、
実母は宮田の純粋な努力を認め、親として誇らしく思ってくれることと思います。

宮田母は一連のお話しの中で、一点の曇り、のようには描かれていますけど、
宮田母も湯原母のごとく受け入れてしまっては、あまりにも都合良すぎてしまいますものね。
宮田母が、息子を拒否することも、愛情持って育ててきたからこそ。
個人的には、夫婦として、宮田父にも肩を持ってもらいたかったですけど、
父は宮田姉と等しく柔軟な方なのですね。

いつか、湯原が、宮田家にお邪魔する日がくるのかな?
なんだか来てしまうと、最終回のような気がして寂しいです(苦笑)。
宮田には申し訳ないけれど、まだしばし、実母とは揉めていてください。。。

それにしても、シビアながらも爽快感のあるお話しでした。
国村にも処置なんだ・・・の部分でクスッと笑わせるし。
さすが智さんの筆ですね。続き楽しみにしてます。
返信する
深春さんへ ()
2011-12-05 03:05:23
爽快なら良かった、山岳救助隊の話は書いていても楽しいです。

国村はたまには都会に行っています。
農業イベントとかで奥多摩の青年団として参加もするので。
けれど絶対に山から離されたくない人です。山や自然を愛し愛されている。
そういう彼の言葉は、都会ではどう響くのでしょうね?
ただ思うのは、都会ですら自然には抱かれているってことです。

そして国村は天地無用かつ「明治の男」賢明で相当に強かです。
真直ぐだけれど、冷静沈着で豪胆。怒りの爆発も「今ならよし」と自分ルールで決めて出すし、出し方も計算しています。
いかに効率的に、自分のペースに相手を巻込むか判断できる賢明さ。
だから自由人のペースを崩されずに生きています。
きっと警察学校時代も自由人でいたと思います。笑

宮田母はそのうち登場します。
彼女の生き方のベースは「同調」
素直に頷いて、見たくないものは見なかった事にする。波風立たなければOK。
こういう人って特に女性は多いですよね。それが美徳と考える人も多いでしょう。

けれど、彼女の息子はそういう生き方を選べなかった。
要領良く生きること=「同調」でもあります。
宮田もそんな感じでチャラ男やっていました。その結果として宮田は、ドラマ第2話かな?当時の彼女に男として最大の侮辱を受けてしまいます。
男にとって、仕事と生き方に誇りを持つことは最大のテーマです。
それを理解できない相手を徹底的に憎んで遠ざけるのも男の性。絶対に許せない。
そういう点は女性と男性の性差の一つでもあります。

宮田父は息子の選択にそういう「男の美学」を見たから許容しました。
「生きる事に誇りと意味を教えてくれた人」男なら誰だって出会ってみたい。
宮田父は「同調」でとりあえず生きていた、けれど息子に突きつけられて、彼自身の男の性が存在感を著してしまった。だから許容出来ています。
父自身が憧れていた「男の美学」を見たら、妻の女性的立場にはもう立てません。

宮田姉は複雑な面を抱えています、そして潔い人です。そのうち描けたら良いなと。

続き楽しみにして頂けると、励みになります。
そして気づけば大変な時間に。驚
休日の寝だめ貯金があって良かったです。






湯原もいつか宮田家に行くのかな、もし行ったとしても最終回では無いです。





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Unknown (深春)
2011-12-07 17:30:13
なるほど。宮田父は、父としてより、男として息子を認めたのですね。
智さんの筆が丁寧なので、男性心理を理解しやすいです。

ここまで、どうして書けるのか、智さんの頭の中を覗いてみたいかな(笑)


それと、国村イメージは明治の男・・・に、はっきりと像ができた訳ではないのですが、
うんうん、なるほど、と頷きましたです。
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深春さんへ ()
2011-12-07 22:54:55
息子を男として認めることは。父親としても最大のロマンです。
なので父としても結局は認めていると思います。

母親は子供を自分の一部のように見てしまう方も多いです。他者性が認められないと言うか。
そうすると英二の母のように生理的嫌悪にもなりやすい。

けれど父と息子は、親子であり、男同士ライバルでもあります。だから対等に認める日がやってくる。それが宮田父子は「朝靄」の夜のベランダで酒を飲むシーンとして描いてみました。

国村は、見た目と中身のギャップがおもしろいひとです。笑

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