mistake、recovery、交錯する想い
第49話 夏閑act.3―side story「陽はまた昇る」
富士山から青梅署独身寮に戻ると、英二は周太にメールを送った。
無事に帰った事と明日の約束を告げる文面に、すぐ優しい返信が戻される。
いま時計は23時、あのファイルで周太は勉強をしていたのだろう。
―周太、どこか解かっているんだね…なにも知らなくても
救急法と法医学、それから1月の弾道調査の結果を基にした狙撃データファイル。
このデータは周太の記録そのままを使用している、だからデータ通りに周太が狙撃したなら的中成功率は高い。
あのデータの意味に周太は、必要な時が訪れたら気付くだろう。
けれど、
「…そんな時は、来なければいいのに…」
本音が言葉になって溜息とこぼれる。
あのデータが必要になる時、それは周太が馨のいた世界に立つ時。
あの「50年の束縛」は、まさに悪魔の契約。あの契約の為に馨も周太も司法の闇へと惹きこまれていく。
この現実が哀しい、悔しい、けれど逃げることも出来ない。
どうして自分の愛するひとは、この運命に立たされる?
この疑問が廻ってしまう、夕方に駅のベンチで泣いたように。
けれどもう泣いている暇はない、今、自分に出来ることをすればいい。
そんな想いに携帯を閉じて、洗面道具と着替えを持つと英二は浴室に向かった。
もう23時、廊下の照明はすこし落とされて暗い。
静かに歩いて脱衣場に着くと、脱衣籠が1人分使われていた。
誰が入っているのか予想通りだろうな?そんなことを考えながら服を脱ぎ支度して、がらり引戸を開いた。
「あれ、やっぱり一緒になっちゃったね、」
湯気の向こう、洗い場から透明なテノールが笑いかけてくれる。
声の主に笑いかけて英二は、遠慮なく隣に座りこんだ。
「出掛けて一緒に帰ってきたら、タイミングは同じになるよな、」
「だね、」
笑って頷きながら光一は、すこし体を斜め向うへ向けた。
そんな様子の意味が伝わって、英二は笑ってしまった。
「光一?やっぱり俺って、油断ならないエロ?」
「まあね、」
しれっと答えて雪白の腕は、さっさと体を洗っていく。
その横顔は濡れた黒髪と熱った薄紅の頬がまばゆい、向けられた背中の艶やかな桜いろ魅せられる。
とくん、鼓動ひとつ意識を叩かれて、英二は軽く頭をふった。
こんなふうには光一を見ることも以前は無かった、でも今は見てしまう。
こんなふうに見つめてしまう事も無かったから、光一の美しさにも気付かないでいた。
そして今夜はすこし心が昂ぶっている自覚がある、たぶん夕方に駅で泣いた所為だろう。
それを光一が見つけてくれた安堵感と、そのあと富士山まで連れ出してくれた嬉しさが体の芯に燻っている。
―ちょっと危ないな、俺
こんな自分を持て余す、けれどこんな時だから自信にもなってくれる。
あんなにも不安と焦燥と、恐怖に自分は泣いた。それでも艶っぽいことを考える余裕があるのなら、自分はまだ大丈夫。
そんな自信への信頼に笑って、英二はシャワーを「冷」にして頭から被った。
「うわっ、冷たいってば。マジ、おまえって水被るの好きだよね?俺まで水、被っちゃったんだけど、」
隣からテノールが笑いながら文句を言って、浴槽の方へ歩き出す。
その声に英二は、降りそそぐ冷水の中から笑って答えた。
「ごめん、これしないとダメなんだ、俺、」
ほんとうに自分は、こうでもしないとダメだろうな?
いつもながら肌を流れていく水の感触に、心と意識が針のよう細くなって鋭利になる。
そんな自分を見つめながら、頭の芯が冷えきるのを英二は待った。
―今日、なにか見落としたことは無いだろうか?
冷えていく意識のなかで一日のことを反芻する。
今日は金曜日。一日の授業と朝夕の日課、それから周太との会話、遠野教官の様子。
いつもどおり遠野教官は仏頂面で、それでも時折見せる笑顔は渋い温もりがあった。
―特に変わった様子は無かった、遠野教官は、
初任総合が始まってから、遠野教官の様子を観察し続けている。
いま遠野は周太を廻る「50年の束縛」に気付く危険がある、それを防ぎたいから。
遠野教官は初任総合の初日、英二を呼びだして周太の新宿署配属の謎を訊いてきた。
あのとき教えるつもりはないと意思表示をした、遠野も「お互い知る領分が違う」と言っていた。
けれど遠野は、この一週間ほど前に再び英二に質問をした。
―…宮田、『Fantome』の意味が解かるか?…捜一時代の同僚にも言われた、ファイルの閲覧に気を付けろ、とな
遠野教官は『ファイルFantome』の存在に気付いた。
このことが誘引していく影響はなんだ?予測される動きは何だろう?
そして危険性を強く感じてしまう。
遠野教官に見つけられたなら他の人間も『ファイルFantome』を発見する可能性がある。
それとも、遠野教官は「見つけられるように」誘導されたのだろうか?
そうだとしたら、何のために?
―…データ名が『F.K』とあるだけだ、それでも履歴書と経歴で誰なのか特定できる。この特定が正解だとしたら、これでは最初から
『これでは最初から』
そう遠野は言った、あの言葉で解かってしまう、遠野は『Fantome』の闇に気がついた。
このことが遠野教官にどんな影響がある?周太にどんな影響になって顕れる?
―まだ確かなことは解からない、けれど可能性の推測なら出来る…
可能性として考えられることは。
遠野教官を「50年の束縛」の鎖持つ人間に仕立てようという意図かも知れないこと。
遠野教官は警察学校教官で、前歴は捜査一課の敏腕刑事。この立場から考えられる遠野教官の利用価値は、高い。
警察学校教官なら、適性がある優秀な人間を着実にピックアップできる。
捜査一課に在籍したなら当然、同課所属のSITを熟知しているだろう。そしてSITが連携する部署のことも最低限は知っている。
なにより敏腕刑事を謳われた能力は、人間を見ることと現場感覚に優れている。
そういう人間は『Fantome』を操作する者たちにとって、仲間にしたいのではないだろうか?
新しい『Fantome』の候補者達を、周太の他にも見つけ出していく為に。
でも、そんなことに加担できる人間ではない、遠野教官は。
そういう人間だったら安西の事件の時、周太にあんな命令は出来ない。
あの事件の後に遠野教官は荒んだ時期がある、もし組織だけを尊重する人間なら、あんなふうに自棄になったりしない。
だから自分は遠野教官に釘を刺した。
「なにも知らないでいる、それだけが湯原を守ります」
あの台詞に対して、どう遠野教官が反応し、行動するか?
それで遠野教官の真意が量れる、そう考えている。そして祈りたい、遠野教官には関わらないでいて欲しい。
今の自分を作ってくれた1人には『Fantome』に関わってほしくない。
それにしても、と思う。
もし遠野教官が『Fantome』を知ったことは、「彼ら」の意図的な誘導だったとしたら?
それは「50年の束縛」の鎖持つ人間を増やす意図がある、そういう推測が出来る。
この推測は多分、正解だろう。なぜなら「法の正義」の番人は必要だと「彼ら」は考えるだろうから。
個人より、組織。それは全てが「法の正義」を守るため。
司法とは、法治国家とは、そういう側面がある。
このことを法学部で学んだ自分は知っている、法治国家と個人の幸福は時に矛盾する哀しみも生まれる。
これを認めることは法曹に携わるものとして、司法の警察官として、苦痛であり侮辱でもある。
それでも目を逸らすことはもう、出来ない。
―このこと以外に、今までに見落としたことはないだろうか…
今日までに、何か自分はミスをしていないか?
冷たい水のなか考えをめぐらしていく、そのなかに、ふっと意識に記憶と条件がふれた。
「しまった、」
鋭利なつぶやきに、英二は蛇口を閉じた。
―昨日、俺は何て話した?
木曜日、自分は大きなミスをした。
たぶん自分が今日、警察学校を出るまではミスの影響は欠片も出ていない。
でも、その後はどうだ?自分が警察学校を出て周太の傍から離れる、そうなったら影響が出る可能性は?
「今日は…金曜日は、部活があったのに、」
いつもは自分が一緒に部活に行く、必ず隣に座り、周太の会話をリアルタイムで知る。だから安全。
けれど今日は自分はいない、そうしたら周太は誰と部活で会話をする?
“遺体の傍に、文庫本が落ちていたんだ。その本は普通の状態だった”
“本と海の砂、どちらも想い出が纏わるから、真相の特定が出来たんだ”
“吉村先生に貸してもらって、光一と藤岡と回し読みしたよ”
木曜日、自分が事例研究の時間に、課外時間に、周太に話した言葉たち。
周太を「ページが抜け落ちた」本から遠ざける心算だった、けれど逆にヒントを与えてしまった?
“藤岡と回し読みした” この言葉に周太は、藤岡に「遺体の傍の文庫本」の感想を訊いてしまう。
もう呼吸するのと変わらない程に読書が習慣の周太なら、どんな本だったのか興味を当然持つ。
だから英二にも周太は「なんて本だったのかな、って思って」と訊いてきた、そんな周太が藤岡に聴かないわけが無い。
そして今日、金曜日は部活動の日だから、同じ華道部の藤岡と周太は必ず顔を合わせてしまう。
そうしたら藤岡は話してしまうだろう、あの文庫本が「ページが抜け落ちた」状態だったことを。
“その本は普通の状態だった” そう自分が言ったことが「嘘を吐いた」と解かってしまう。
“想い出が纏わるから、真相の特定が出来た” この台詞から「ページが抜け落ちた」部分に「真相」が存在すると示唆してしまった。
―迂闊だ、あまりにも…俺は、馬鹿だ、
木曜日、事例研究で話してしまった事が、全てのミスだ。
藤岡と周太が仲が良いことは知っているのに?藤岡から話を聴く想定は当然出来たのに?
そうしたら当然、藤岡はありのままを話すに決まっている。だって藤岡は「50年の束縛」も何も知らないのだから。
「…今ごろはもう、周太…気づいてる?」
つぶやきが、髪から体から滴る水と一緒に墜ちていく。
富士山からの帰り道、電話で話した時に変わった様子は無かっただろうか?
さっきのメールの文面も何も変わっていない、けれど気づかれている?
「どうしたのさ、顔、真っ青だよ?」
テノールの声に、英二は振向いた。
振向いた至近距離、濡れた黒髪を白い手で掻き上げながら、光一が見つめてくれる。
見つめてくれる真直ぐで無垢な瞳、この瞳をも自分はミスで裏切った。ひとつ息を呑んで英二は正直に告げた。
「俺は、ミスをした。周太に気付かれるかもしれない、『Fantome』のことを、」
告げた言葉に、無垢の瞳が大きく瞠らかれた。
凝っと英二を見つめ、そしてテノールの声は静かに微笑んだ。
「そっか。ま、とりあえず、おまえの部屋に戻ろっかね?話はそれからだ、」
言って光一は、シャワーをさっと浴びると脱衣場へと出て行った。
後姿を見送って、自分もさっと全身を洗うと浴室から出た。
静かな脱衣場で光一は黙々と着替えていく。
その頭上で光る蛍光灯の音が微かに聞える、自分の心音すら響くよう想えてしまう。
どこか過敏なほどに冴えた神経に、今の自分の緊張状態が解かって英二は微笑んだ。
―こんなに俺は、周太のことだと必死だな
ほんとうに必死で、余裕が無い。
こんなにも護りたいと願い、足掻いている自分がいる。こんな自分を一年前は考えられなかった。
たった一年、けれど自分は遠くへと来てしまったのだと、どこか自覚が心地いい。
こんなふうに張り詰めてしまう自分の必死さが、なにか嬉しい。
「じゃ、あとで部屋に行くからね、」
細い目を笑ませて、光一が先に出て行った。
遠ざかる足音を聴きながら着替え終えて、廊下に出る。
いつも見慣れた薄暗い廊下に、自分の影が長く伸びて揺らぐ。どこか現実感の消えた視界に、今の自分の心が見えてしまう。
こんな自分は、本当に周太が「異動」になった時、どんなふうになってしまうのだろう?
そんな思いと一緒に自室の扉を開けると、もう光一がベッドに座りこんでいた。
「お帰り、ア・ダ・ム?そんな泣きそうな顔してないで、こっちに来てよね、」
テノールの声が笑って、ぽん、と隣を叩いて呼んでくれる。
こんな受入れが今は命綱のザイルに想えて、嬉しい。
嬉しいまま素直に英二は笑った。
「うん、ありがとう、イヴ?」
「その名前で呼ばれるの、なんか照れるって言ってるのにね?おまえ、割とSだよね、」
そう言ってくれる頬が薄紅色なのは、どっちの熱りだろう?
そんなことを思いながら英二は洗面道具を片づけて、ルームライトを消した。
星明りに浮かぶ白いベッドの上、座りこんで片膝を抱くと壁に凭れかかる。
肩越しに隣を見、薄明に見つめる無垢の瞳へと英二は口を開いた。
「木曜日、事例研究の授業があったんだ。そこで俺は、ミスをした、」
話しだした自分の声は、思ったより落ち着いている。
すこし我ながら安心して、そのまま英二は話し始めた。
あわく窓から降る星と月が部屋を照らす。深更の静謐に座りこみ、自分の声が低く響いていく。
静かな緊張の澹、木曜日と金曜日を話し終えると、透明なテノールは静かに言った。
「…周太、『Le Fantome de l'Opera』に気づいたろうね?」
あわい闇とけるよう告げた声に、心が平手打ちされる。
ため息が唇こぼれて、英二は抱いた片膝に額をつけた。
「だよな…」
やっぱり気づかれてしまった。この推測に、じわり心が軋みあげていく。
こんなミスをした自分が赦せない、どうして余計な事を言ってしまったのだろう?
もし周太が知ってしまったら、馨と同じ轍を踏んでしまうのだろうか?
「でもさ?『Fantome』にまで気付くかは、解んないよね、」
透明なテノールの声に、英二は顔を上げた。
見つめた透明な目は温かに笑んで、光一は言ってくれた。
「Fantomeに謎がある、ってことに気付くとは思うよ?でも『Fantome』が何を指すかは、簡単には解からない筈だね、」
簡単には解からない。
確かにその通りだろう、すこしだけ英二は微笑んだ。
「そっか…『ファイルFantome』には、周太は辿りつけないよな?今すぐには、」
「だろ?今はまだ、解からないと思うよ、」
細い目を笑ませて光一は言ってくれる。
今はまだ、周太にはファイル閲覧権限はない。だから今すぐには解からない。
けれど「今」の後に訪れる時にはどうなるのか?ほろ苦い想いと共に言って、英二は微笑んだ。
「でも、異動したら気づく可能性があるよな…あの部署に行くんだったら、」
「そのときはね?でも多分、周太にはバレないように気遣うだろね、あいつらはさ、」
頷きながら透明な目は英二の目を見つめている。
視線を合わせたままで、静かに光一は言葉を続けた。
「あいつらからしたら『Fantome』が欲しいからね?もし周太が『異動』を拒絶した時のための、最後の手札に使いたいだろ?
だから周太自身には『Fantome』のことは隠してくると思う、だからこそ、周太が知らないでいることは有効でもあるよね?
で、もし、周太が今回の事で知ったとしてもね?きっと周太は黙っていると思う、おまえが周太には秘密にしてる、って気づいたなら」
気付いたなら、黙っている。
その言葉の意味に、ふっと目の奥で想いが熱に変わっていく。
「黙っていてくれるのかな、周太…気づいても『知らない』ことに、してくれるかな、」
「うん、きっとね、」
涙の紗に滲みだす視界で、底抜けに明るい目が温かに笑んだ。
「きっと周太、おまえのこと信じてるから言わないよね?…おまえが秘密にする理由があるって、信じるからさ。
だからね、おまえも黙っていればいいよ。周太が気づいたことを、おまえも知らないで居ればいい。互いに信じあっているから大丈夫、」
言ってくれる言葉が温かい、この言葉の通りだと頷いてしまえる。
言われた通り「互いに信じあっているから大丈夫」と、自分でも思ってきた。
けれど光一に言われると温かで、張り詰めた肩の力が抜けていく。幾分ゆるめられた緊張に英二は微笑んだ。
「そっか…ありがとう、」
「どういたしまして、だね、」
笑ってくれたテノールの声と温かな眼差しに、心和まされる。
ほっとため息吐いた視線の先、白い手の手首に英二は気がついた。
「光一、風呂あがっても嵌めてくれてるんだ、『MANASLU』」
「うん…宝物だからね、」
言われて、気恥ずかしげに秀麗な貌が微笑んでくれる。
その表情がどこか切なくて愛しくて、英二は隣の肩に腕を回した。
「光一、ずっと俺の傍にいてくれ。今も俺、おまえに救けられた…きっと俺一人だったら今、ダメだった。不安で、焦って、さ」
想い告げながら抱きよせて、腕に力を込めてしまう。
腕の中しなやかな体が温かい、温もりとふれる強靭で美しいラインに愛しさが募る。
この相手も大切な唯ひとり、そんな想いのまま抱きしめてベッドに倒れ込んだ。
「光一、」
名前を呼んで見つめて、そっと唇に唇をよせる。
見つめた無垢の瞳は見開いたままで、けれどキスは受容れられていく。
透明な眼差しに視線をからめ見つめて、唇と舌に花の香ふれて心ほどかれてしまう。
こんなふうにキスをする、けれど自分はもう1人を護ろうと懸けている。こんな自分は、ずるい、けれど山っ子が愛しい。
「光一、キスさせてくれて…ありがとう、」
そっと離れて笑いかける。
離れたばかりの薄紅の唇が、すこしだけ微笑んだ。
「どうして、ありがとう、なんて言ってくれるワケ?」
「なんか今、ほんとうは辛そうだったから、」
想ったままを言って、長い腕を伸ばすとブランケットを引き寄せる。
片腕で抱き寄せたままの光一ごとくるまって、英二は言葉を続けた。
「いま光一、目を開けたままだったろ?なんか途惑っている、そんな目だったからさ。本当は今、キスするの嫌だったのかな、って」
「嫌じゃない、ね…ごめんね」
そっと答えて腕から脱け出すと、光一は起きあがった。
けれど英二は腕を伸ばし、細みの体を引き寄せ懐に抱きこんだ。
「嫌じゃないなら、どこに行くつもりだった、今?」
抱き寄せて、瞳をのぞきこむ。
見つめられて溜息ひとつ吐くと、雪白の貌は泣きそうに微笑んだ。
「俺の部屋に戻ろうとしただけ…俺も周太を護りたい、でも、すこし切なくなってね…あんなに悩んでるのが、羨まし…」
言葉途切れて、瞳から涙こぼれた。
こぼれた涙に続く言葉の想いが解かってしまう、微笑んで英二はキスで涙をぬぐった。
「光一に何かあっても、俺は悩むよ?だから俺、ご両親の墓参りの日から、ずっと考え込んでるけど?」
「…そうなの?」
透明な目が大きくなって、英二を見つめてくれる。
こんな貌をしてくれると想いがまた育つ、その温もり感じながら英二は白い左手首を掌に取った。
「そうだよ、光一のことだって心配で、気がかりだよ?だから俺、この時計も贈って約束をしたんだろ?」
想い告げながら、左手首の『MANASLU』を外していく。
そして腕を伸ばすと、ベッドサイドに置いた自分のクライマーウォッチに並べた。
「宝物、ここに置くからな?」
笑いかけて抱きよせて、瞳のぞきこむ。
のぞいた透明な無垢の瞳は幸せそうに微笑んで、遠慮がちに光一は抱きついてくれた。
「ありがと、…英二、」
素直な無邪気な笑顔はきれいで、この笑顔に心が傷む。
こんな貌をして笑う山っ子が周太と自分の為に、危険なトレースも厭わない。それが哀しくもなる。
ほんとうは高峰の荘厳に生きていくべき光一を、人間の交錯に付合わせてしまうことが辛い。
けれどもう光一は心を決めている、だから喜んで抱きとめていればいい。想い素直に英二は抱きしめ、笑いかけた。
「可愛いね、光一。愛してるよ、」
「ふ…可愛いだろ、俺って、」
すこし生意気な顔で笑って、素直に頬よせてくれる。
ふわり花の香が昇らされて、意識をあまく蕩かされる想いが迫り上げてしまう。
ちょっと困りそうかな?笑って英二は正直に告げた。
「光一、可愛すぎて俺、ちょっと自制心が危ないかも。『血の契』だけじゃない繋ぎ方、したくなりそうだけど?」
言葉にすこし離れて、無垢の瞳が見つめてくれる。
その瞳がすこし悪戯っ子に笑って、テノールの声は愉しげに宣言した。
「無理やり俺にえっちしたらね、俺、正直に周太に言っちゃうよ?きっと周太、本気で怒っちゃうけど、それでもイイわけ?」
それだけは勘弁してください。
そんな心の声に自分は恋の奴隷だと、また思い知らされる。
こんな殺し文句で自分は今後、この美しい山っ子にも振り回されるのかな?
そんな考えに自分にとって、あの婚約者はどれだけ特別なのか思い知らされながら英二は笑った。
「それは困るな、俺。でもさ、それでもイイって言ったら光一、どうするんだ?」
「困るね、そして泣くかね、」
即答に、ほんとうに泣くけど?と目でも言って光一は笑った。
その笑顔は気恥ずかしげに羞んで、可愛いなと思わされてしまう。
そしてまた募る愛しさに、英二は綺麗に微笑んだ。
「困らせても見たいし、泣顔も好きだけどさ。笑っている顔が一番好きだよ、」
「俺もね、おまえの笑顔は大好きだよ?あのひとの笑顔もね。だからさ、明日からまた周太、たくさん笑わせてよ」
素直に笑って光一は、周太の幸せを望んでくれる。
こういう無償の愛が光一は大らかに眩い、こんな相手だから『血の契』に繋ぎたい。
そして信じられる、このパートナーがいればきっと、周太を救うことが出来る。
「うん、いっぱい周太のこと、笑わせてくるな。光一も、たくさん笑ってろよ?」
綺麗に笑って英二は、約束をした。
青梅署診察室を朝陽のオレンジ色が染めていく。
生まれて間もない光と空気は、ゆったり白い部屋を染めて一日の始まりを告げる。
朝のセッティングが終わり、英二は流しで手を洗った。
「先生、コーヒー飲まれますよね?」
「はい、お願いします、」
穏やかなに微笑んで、吉村医師が答えてくれる。
その答えに笑って頷くと、制服の袖を戻しながら戸棚に歩み寄りマグカップを3つ出す。
それからドリップ式インスタントコーヒーをセットして、電気ポットからゆっくり湯を注いだ。
―こういうのも全部、周太に教えて貰ったんだ、俺は
ゆるやかに昇らす芳香の湯気に、愛しい俤が心に映る。
この俤に13時間後には逢える、昨日約束した「明日は帰る」の約束は今「今夜は帰る」になったから。
それが素直に嬉しい、そして覚悟を心に見つめてしまう。
『Le Fantome de l'Opera』
ページが抜け落ちた本「空白」に秘密が籠もる経年ふるい本。
この「空白」から周太は『Fantome』が鍵なのだと気付くだろう。
けれどそれが何を意味する鍵なのか、これは気づけない。そこに自分の希望はまだ、見いだせる。
―「50年の束縛」を隠す鍵を示す本、そして、あの本は
周太が買った紺青色の表装『Le Fantome de l'Opera』を廻る、記憶。
あの一冊が周太への想いの自覚と告白を惹きだしてくれた、その記憶が優しい。
まったく同じ『Le Fantome de l'Opera』それなのに、ふるい本と新しい本は、もたらした現実が反対方向を向いている。
まるで綱引きが正反対に引きあっていくように。
運命の2冊『Le Fantome de l'Opera』が導いてくれるのは?
(to be continued)
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第49話 夏閑act.3―side story「陽はまた昇る」
富士山から青梅署独身寮に戻ると、英二は周太にメールを送った。
無事に帰った事と明日の約束を告げる文面に、すぐ優しい返信が戻される。
いま時計は23時、あのファイルで周太は勉強をしていたのだろう。
―周太、どこか解かっているんだね…なにも知らなくても
救急法と法医学、それから1月の弾道調査の結果を基にした狙撃データファイル。
このデータは周太の記録そのままを使用している、だからデータ通りに周太が狙撃したなら的中成功率は高い。
あのデータの意味に周太は、必要な時が訪れたら気付くだろう。
けれど、
「…そんな時は、来なければいいのに…」
本音が言葉になって溜息とこぼれる。
あのデータが必要になる時、それは周太が馨のいた世界に立つ時。
あの「50年の束縛」は、まさに悪魔の契約。あの契約の為に馨も周太も司法の闇へと惹きこまれていく。
この現実が哀しい、悔しい、けれど逃げることも出来ない。
どうして自分の愛するひとは、この運命に立たされる?
この疑問が廻ってしまう、夕方に駅のベンチで泣いたように。
けれどもう泣いている暇はない、今、自分に出来ることをすればいい。
そんな想いに携帯を閉じて、洗面道具と着替えを持つと英二は浴室に向かった。
もう23時、廊下の照明はすこし落とされて暗い。
静かに歩いて脱衣場に着くと、脱衣籠が1人分使われていた。
誰が入っているのか予想通りだろうな?そんなことを考えながら服を脱ぎ支度して、がらり引戸を開いた。
「あれ、やっぱり一緒になっちゃったね、」
湯気の向こう、洗い場から透明なテノールが笑いかけてくれる。
声の主に笑いかけて英二は、遠慮なく隣に座りこんだ。
「出掛けて一緒に帰ってきたら、タイミングは同じになるよな、」
「だね、」
笑って頷きながら光一は、すこし体を斜め向うへ向けた。
そんな様子の意味が伝わって、英二は笑ってしまった。
「光一?やっぱり俺って、油断ならないエロ?」
「まあね、」
しれっと答えて雪白の腕は、さっさと体を洗っていく。
その横顔は濡れた黒髪と熱った薄紅の頬がまばゆい、向けられた背中の艶やかな桜いろ魅せられる。
とくん、鼓動ひとつ意識を叩かれて、英二は軽く頭をふった。
こんなふうには光一を見ることも以前は無かった、でも今は見てしまう。
こんなふうに見つめてしまう事も無かったから、光一の美しさにも気付かないでいた。
そして今夜はすこし心が昂ぶっている自覚がある、たぶん夕方に駅で泣いた所為だろう。
それを光一が見つけてくれた安堵感と、そのあと富士山まで連れ出してくれた嬉しさが体の芯に燻っている。
―ちょっと危ないな、俺
こんな自分を持て余す、けれどこんな時だから自信にもなってくれる。
あんなにも不安と焦燥と、恐怖に自分は泣いた。それでも艶っぽいことを考える余裕があるのなら、自分はまだ大丈夫。
そんな自信への信頼に笑って、英二はシャワーを「冷」にして頭から被った。
「うわっ、冷たいってば。マジ、おまえって水被るの好きだよね?俺まで水、被っちゃったんだけど、」
隣からテノールが笑いながら文句を言って、浴槽の方へ歩き出す。
その声に英二は、降りそそぐ冷水の中から笑って答えた。
「ごめん、これしないとダメなんだ、俺、」
ほんとうに自分は、こうでもしないとダメだろうな?
いつもながら肌を流れていく水の感触に、心と意識が針のよう細くなって鋭利になる。
そんな自分を見つめながら、頭の芯が冷えきるのを英二は待った。
―今日、なにか見落としたことは無いだろうか?
冷えていく意識のなかで一日のことを反芻する。
今日は金曜日。一日の授業と朝夕の日課、それから周太との会話、遠野教官の様子。
いつもどおり遠野教官は仏頂面で、それでも時折見せる笑顔は渋い温もりがあった。
―特に変わった様子は無かった、遠野教官は、
初任総合が始まってから、遠野教官の様子を観察し続けている。
いま遠野は周太を廻る「50年の束縛」に気付く危険がある、それを防ぎたいから。
遠野教官は初任総合の初日、英二を呼びだして周太の新宿署配属の謎を訊いてきた。
あのとき教えるつもりはないと意思表示をした、遠野も「お互い知る領分が違う」と言っていた。
けれど遠野は、この一週間ほど前に再び英二に質問をした。
―…宮田、『Fantome』の意味が解かるか?…捜一時代の同僚にも言われた、ファイルの閲覧に気を付けろ、とな
遠野教官は『ファイルFantome』の存在に気付いた。
このことが誘引していく影響はなんだ?予測される動きは何だろう?
そして危険性を強く感じてしまう。
遠野教官に見つけられたなら他の人間も『ファイルFantome』を発見する可能性がある。
それとも、遠野教官は「見つけられるように」誘導されたのだろうか?
そうだとしたら、何のために?
―…データ名が『F.K』とあるだけだ、それでも履歴書と経歴で誰なのか特定できる。この特定が正解だとしたら、これでは最初から
『これでは最初から』
そう遠野は言った、あの言葉で解かってしまう、遠野は『Fantome』の闇に気がついた。
このことが遠野教官にどんな影響がある?周太にどんな影響になって顕れる?
―まだ確かなことは解からない、けれど可能性の推測なら出来る…
可能性として考えられることは。
遠野教官を「50年の束縛」の鎖持つ人間に仕立てようという意図かも知れないこと。
遠野教官は警察学校教官で、前歴は捜査一課の敏腕刑事。この立場から考えられる遠野教官の利用価値は、高い。
警察学校教官なら、適性がある優秀な人間を着実にピックアップできる。
捜査一課に在籍したなら当然、同課所属のSITを熟知しているだろう。そしてSITが連携する部署のことも最低限は知っている。
なにより敏腕刑事を謳われた能力は、人間を見ることと現場感覚に優れている。
そういう人間は『Fantome』を操作する者たちにとって、仲間にしたいのではないだろうか?
新しい『Fantome』の候補者達を、周太の他にも見つけ出していく為に。
でも、そんなことに加担できる人間ではない、遠野教官は。
そういう人間だったら安西の事件の時、周太にあんな命令は出来ない。
あの事件の後に遠野教官は荒んだ時期がある、もし組織だけを尊重する人間なら、あんなふうに自棄になったりしない。
だから自分は遠野教官に釘を刺した。
「なにも知らないでいる、それだけが湯原を守ります」
あの台詞に対して、どう遠野教官が反応し、行動するか?
それで遠野教官の真意が量れる、そう考えている。そして祈りたい、遠野教官には関わらないでいて欲しい。
今の自分を作ってくれた1人には『Fantome』に関わってほしくない。
それにしても、と思う。
もし遠野教官が『Fantome』を知ったことは、「彼ら」の意図的な誘導だったとしたら?
それは「50年の束縛」の鎖持つ人間を増やす意図がある、そういう推測が出来る。
この推測は多分、正解だろう。なぜなら「法の正義」の番人は必要だと「彼ら」は考えるだろうから。
個人より、組織。それは全てが「法の正義」を守るため。
司法とは、法治国家とは、そういう側面がある。
このことを法学部で学んだ自分は知っている、法治国家と個人の幸福は時に矛盾する哀しみも生まれる。
これを認めることは法曹に携わるものとして、司法の警察官として、苦痛であり侮辱でもある。
それでも目を逸らすことはもう、出来ない。
―このこと以外に、今までに見落としたことはないだろうか…
今日までに、何か自分はミスをしていないか?
冷たい水のなか考えをめぐらしていく、そのなかに、ふっと意識に記憶と条件がふれた。
「しまった、」
鋭利なつぶやきに、英二は蛇口を閉じた。
―昨日、俺は何て話した?
木曜日、自分は大きなミスをした。
たぶん自分が今日、警察学校を出るまではミスの影響は欠片も出ていない。
でも、その後はどうだ?自分が警察学校を出て周太の傍から離れる、そうなったら影響が出る可能性は?
「今日は…金曜日は、部活があったのに、」
いつもは自分が一緒に部活に行く、必ず隣に座り、周太の会話をリアルタイムで知る。だから安全。
けれど今日は自分はいない、そうしたら周太は誰と部活で会話をする?
“遺体の傍に、文庫本が落ちていたんだ。その本は普通の状態だった”
“本と海の砂、どちらも想い出が纏わるから、真相の特定が出来たんだ”
“吉村先生に貸してもらって、光一と藤岡と回し読みしたよ”
木曜日、自分が事例研究の時間に、課外時間に、周太に話した言葉たち。
周太を「ページが抜け落ちた」本から遠ざける心算だった、けれど逆にヒントを与えてしまった?
“藤岡と回し読みした” この言葉に周太は、藤岡に「遺体の傍の文庫本」の感想を訊いてしまう。
もう呼吸するのと変わらない程に読書が習慣の周太なら、どんな本だったのか興味を当然持つ。
だから英二にも周太は「なんて本だったのかな、って思って」と訊いてきた、そんな周太が藤岡に聴かないわけが無い。
そして今日、金曜日は部活動の日だから、同じ華道部の藤岡と周太は必ず顔を合わせてしまう。
そうしたら藤岡は話してしまうだろう、あの文庫本が「ページが抜け落ちた」状態だったことを。
“その本は普通の状態だった” そう自分が言ったことが「嘘を吐いた」と解かってしまう。
“想い出が纏わるから、真相の特定が出来た” この台詞から「ページが抜け落ちた」部分に「真相」が存在すると示唆してしまった。
―迂闊だ、あまりにも…俺は、馬鹿だ、
木曜日、事例研究で話してしまった事が、全てのミスだ。
藤岡と周太が仲が良いことは知っているのに?藤岡から話を聴く想定は当然出来たのに?
そうしたら当然、藤岡はありのままを話すに決まっている。だって藤岡は「50年の束縛」も何も知らないのだから。
「…今ごろはもう、周太…気づいてる?」
つぶやきが、髪から体から滴る水と一緒に墜ちていく。
富士山からの帰り道、電話で話した時に変わった様子は無かっただろうか?
さっきのメールの文面も何も変わっていない、けれど気づかれている?
「どうしたのさ、顔、真っ青だよ?」
テノールの声に、英二は振向いた。
振向いた至近距離、濡れた黒髪を白い手で掻き上げながら、光一が見つめてくれる。
見つめてくれる真直ぐで無垢な瞳、この瞳をも自分はミスで裏切った。ひとつ息を呑んで英二は正直に告げた。
「俺は、ミスをした。周太に気付かれるかもしれない、『Fantome』のことを、」
告げた言葉に、無垢の瞳が大きく瞠らかれた。
凝っと英二を見つめ、そしてテノールの声は静かに微笑んだ。
「そっか。ま、とりあえず、おまえの部屋に戻ろっかね?話はそれからだ、」
言って光一は、シャワーをさっと浴びると脱衣場へと出て行った。
後姿を見送って、自分もさっと全身を洗うと浴室から出た。
静かな脱衣場で光一は黙々と着替えていく。
その頭上で光る蛍光灯の音が微かに聞える、自分の心音すら響くよう想えてしまう。
どこか過敏なほどに冴えた神経に、今の自分の緊張状態が解かって英二は微笑んだ。
―こんなに俺は、周太のことだと必死だな
ほんとうに必死で、余裕が無い。
こんなにも護りたいと願い、足掻いている自分がいる。こんな自分を一年前は考えられなかった。
たった一年、けれど自分は遠くへと来てしまったのだと、どこか自覚が心地いい。
こんなふうに張り詰めてしまう自分の必死さが、なにか嬉しい。
「じゃ、あとで部屋に行くからね、」
細い目を笑ませて、光一が先に出て行った。
遠ざかる足音を聴きながら着替え終えて、廊下に出る。
いつも見慣れた薄暗い廊下に、自分の影が長く伸びて揺らぐ。どこか現実感の消えた視界に、今の自分の心が見えてしまう。
こんな自分は、本当に周太が「異動」になった時、どんなふうになってしまうのだろう?
そんな思いと一緒に自室の扉を開けると、もう光一がベッドに座りこんでいた。
「お帰り、ア・ダ・ム?そんな泣きそうな顔してないで、こっちに来てよね、」
テノールの声が笑って、ぽん、と隣を叩いて呼んでくれる。
こんな受入れが今は命綱のザイルに想えて、嬉しい。
嬉しいまま素直に英二は笑った。
「うん、ありがとう、イヴ?」
「その名前で呼ばれるの、なんか照れるって言ってるのにね?おまえ、割とSだよね、」
そう言ってくれる頬が薄紅色なのは、どっちの熱りだろう?
そんなことを思いながら英二は洗面道具を片づけて、ルームライトを消した。
星明りに浮かぶ白いベッドの上、座りこんで片膝を抱くと壁に凭れかかる。
肩越しに隣を見、薄明に見つめる無垢の瞳へと英二は口を開いた。
「木曜日、事例研究の授業があったんだ。そこで俺は、ミスをした、」
話しだした自分の声は、思ったより落ち着いている。
すこし我ながら安心して、そのまま英二は話し始めた。
あわく窓から降る星と月が部屋を照らす。深更の静謐に座りこみ、自分の声が低く響いていく。
静かな緊張の澹、木曜日と金曜日を話し終えると、透明なテノールは静かに言った。
「…周太、『Le Fantome de l'Opera』に気づいたろうね?」
あわい闇とけるよう告げた声に、心が平手打ちされる。
ため息が唇こぼれて、英二は抱いた片膝に額をつけた。
「だよな…」
やっぱり気づかれてしまった。この推測に、じわり心が軋みあげていく。
こんなミスをした自分が赦せない、どうして余計な事を言ってしまったのだろう?
もし周太が知ってしまったら、馨と同じ轍を踏んでしまうのだろうか?
「でもさ?『Fantome』にまで気付くかは、解んないよね、」
透明なテノールの声に、英二は顔を上げた。
見つめた透明な目は温かに笑んで、光一は言ってくれた。
「Fantomeに謎がある、ってことに気付くとは思うよ?でも『Fantome』が何を指すかは、簡単には解からない筈だね、」
簡単には解からない。
確かにその通りだろう、すこしだけ英二は微笑んだ。
「そっか…『ファイルFantome』には、周太は辿りつけないよな?今すぐには、」
「だろ?今はまだ、解からないと思うよ、」
細い目を笑ませて光一は言ってくれる。
今はまだ、周太にはファイル閲覧権限はない。だから今すぐには解からない。
けれど「今」の後に訪れる時にはどうなるのか?ほろ苦い想いと共に言って、英二は微笑んだ。
「でも、異動したら気づく可能性があるよな…あの部署に行くんだったら、」
「そのときはね?でも多分、周太にはバレないように気遣うだろね、あいつらはさ、」
頷きながら透明な目は英二の目を見つめている。
視線を合わせたままで、静かに光一は言葉を続けた。
「あいつらからしたら『Fantome』が欲しいからね?もし周太が『異動』を拒絶した時のための、最後の手札に使いたいだろ?
だから周太自身には『Fantome』のことは隠してくると思う、だからこそ、周太が知らないでいることは有効でもあるよね?
で、もし、周太が今回の事で知ったとしてもね?きっと周太は黙っていると思う、おまえが周太には秘密にしてる、って気づいたなら」
気付いたなら、黙っている。
その言葉の意味に、ふっと目の奥で想いが熱に変わっていく。
「黙っていてくれるのかな、周太…気づいても『知らない』ことに、してくれるかな、」
「うん、きっとね、」
涙の紗に滲みだす視界で、底抜けに明るい目が温かに笑んだ。
「きっと周太、おまえのこと信じてるから言わないよね?…おまえが秘密にする理由があるって、信じるからさ。
だからね、おまえも黙っていればいいよ。周太が気づいたことを、おまえも知らないで居ればいい。互いに信じあっているから大丈夫、」
言ってくれる言葉が温かい、この言葉の通りだと頷いてしまえる。
言われた通り「互いに信じあっているから大丈夫」と、自分でも思ってきた。
けれど光一に言われると温かで、張り詰めた肩の力が抜けていく。幾分ゆるめられた緊張に英二は微笑んだ。
「そっか…ありがとう、」
「どういたしまして、だね、」
笑ってくれたテノールの声と温かな眼差しに、心和まされる。
ほっとため息吐いた視線の先、白い手の手首に英二は気がついた。
「光一、風呂あがっても嵌めてくれてるんだ、『MANASLU』」
「うん…宝物だからね、」
言われて、気恥ずかしげに秀麗な貌が微笑んでくれる。
その表情がどこか切なくて愛しくて、英二は隣の肩に腕を回した。
「光一、ずっと俺の傍にいてくれ。今も俺、おまえに救けられた…きっと俺一人だったら今、ダメだった。不安で、焦って、さ」
想い告げながら抱きよせて、腕に力を込めてしまう。
腕の中しなやかな体が温かい、温もりとふれる強靭で美しいラインに愛しさが募る。
この相手も大切な唯ひとり、そんな想いのまま抱きしめてベッドに倒れ込んだ。
「光一、」
名前を呼んで見つめて、そっと唇に唇をよせる。
見つめた無垢の瞳は見開いたままで、けれどキスは受容れられていく。
透明な眼差しに視線をからめ見つめて、唇と舌に花の香ふれて心ほどかれてしまう。
こんなふうにキスをする、けれど自分はもう1人を護ろうと懸けている。こんな自分は、ずるい、けれど山っ子が愛しい。
「光一、キスさせてくれて…ありがとう、」
そっと離れて笑いかける。
離れたばかりの薄紅の唇が、すこしだけ微笑んだ。
「どうして、ありがとう、なんて言ってくれるワケ?」
「なんか今、ほんとうは辛そうだったから、」
想ったままを言って、長い腕を伸ばすとブランケットを引き寄せる。
片腕で抱き寄せたままの光一ごとくるまって、英二は言葉を続けた。
「いま光一、目を開けたままだったろ?なんか途惑っている、そんな目だったからさ。本当は今、キスするの嫌だったのかな、って」
「嫌じゃない、ね…ごめんね」
そっと答えて腕から脱け出すと、光一は起きあがった。
けれど英二は腕を伸ばし、細みの体を引き寄せ懐に抱きこんだ。
「嫌じゃないなら、どこに行くつもりだった、今?」
抱き寄せて、瞳をのぞきこむ。
見つめられて溜息ひとつ吐くと、雪白の貌は泣きそうに微笑んだ。
「俺の部屋に戻ろうとしただけ…俺も周太を護りたい、でも、すこし切なくなってね…あんなに悩んでるのが、羨まし…」
言葉途切れて、瞳から涙こぼれた。
こぼれた涙に続く言葉の想いが解かってしまう、微笑んで英二はキスで涙をぬぐった。
「光一に何かあっても、俺は悩むよ?だから俺、ご両親の墓参りの日から、ずっと考え込んでるけど?」
「…そうなの?」
透明な目が大きくなって、英二を見つめてくれる。
こんな貌をしてくれると想いがまた育つ、その温もり感じながら英二は白い左手首を掌に取った。
「そうだよ、光一のことだって心配で、気がかりだよ?だから俺、この時計も贈って約束をしたんだろ?」
想い告げながら、左手首の『MANASLU』を外していく。
そして腕を伸ばすと、ベッドサイドに置いた自分のクライマーウォッチに並べた。
「宝物、ここに置くからな?」
笑いかけて抱きよせて、瞳のぞきこむ。
のぞいた透明な無垢の瞳は幸せそうに微笑んで、遠慮がちに光一は抱きついてくれた。
「ありがと、…英二、」
素直な無邪気な笑顔はきれいで、この笑顔に心が傷む。
こんな貌をして笑う山っ子が周太と自分の為に、危険なトレースも厭わない。それが哀しくもなる。
ほんとうは高峰の荘厳に生きていくべき光一を、人間の交錯に付合わせてしまうことが辛い。
けれどもう光一は心を決めている、だから喜んで抱きとめていればいい。想い素直に英二は抱きしめ、笑いかけた。
「可愛いね、光一。愛してるよ、」
「ふ…可愛いだろ、俺って、」
すこし生意気な顔で笑って、素直に頬よせてくれる。
ふわり花の香が昇らされて、意識をあまく蕩かされる想いが迫り上げてしまう。
ちょっと困りそうかな?笑って英二は正直に告げた。
「光一、可愛すぎて俺、ちょっと自制心が危ないかも。『血の契』だけじゃない繋ぎ方、したくなりそうだけど?」
言葉にすこし離れて、無垢の瞳が見つめてくれる。
その瞳がすこし悪戯っ子に笑って、テノールの声は愉しげに宣言した。
「無理やり俺にえっちしたらね、俺、正直に周太に言っちゃうよ?きっと周太、本気で怒っちゃうけど、それでもイイわけ?」
それだけは勘弁してください。
そんな心の声に自分は恋の奴隷だと、また思い知らされる。
こんな殺し文句で自分は今後、この美しい山っ子にも振り回されるのかな?
そんな考えに自分にとって、あの婚約者はどれだけ特別なのか思い知らされながら英二は笑った。
「それは困るな、俺。でもさ、それでもイイって言ったら光一、どうするんだ?」
「困るね、そして泣くかね、」
即答に、ほんとうに泣くけど?と目でも言って光一は笑った。
その笑顔は気恥ずかしげに羞んで、可愛いなと思わされてしまう。
そしてまた募る愛しさに、英二は綺麗に微笑んだ。
「困らせても見たいし、泣顔も好きだけどさ。笑っている顔が一番好きだよ、」
「俺もね、おまえの笑顔は大好きだよ?あのひとの笑顔もね。だからさ、明日からまた周太、たくさん笑わせてよ」
素直に笑って光一は、周太の幸せを望んでくれる。
こういう無償の愛が光一は大らかに眩い、こんな相手だから『血の契』に繋ぎたい。
そして信じられる、このパートナーがいればきっと、周太を救うことが出来る。
「うん、いっぱい周太のこと、笑わせてくるな。光一も、たくさん笑ってろよ?」
綺麗に笑って英二は、約束をした。
青梅署診察室を朝陽のオレンジ色が染めていく。
生まれて間もない光と空気は、ゆったり白い部屋を染めて一日の始まりを告げる。
朝のセッティングが終わり、英二は流しで手を洗った。
「先生、コーヒー飲まれますよね?」
「はい、お願いします、」
穏やかなに微笑んで、吉村医師が答えてくれる。
その答えに笑って頷くと、制服の袖を戻しながら戸棚に歩み寄りマグカップを3つ出す。
それからドリップ式インスタントコーヒーをセットして、電気ポットからゆっくり湯を注いだ。
―こういうのも全部、周太に教えて貰ったんだ、俺は
ゆるやかに昇らす芳香の湯気に、愛しい俤が心に映る。
この俤に13時間後には逢える、昨日約束した「明日は帰る」の約束は今「今夜は帰る」になったから。
それが素直に嬉しい、そして覚悟を心に見つめてしまう。
『Le Fantome de l'Opera』
ページが抜け落ちた本「空白」に秘密が籠もる経年ふるい本。
この「空白」から周太は『Fantome』が鍵なのだと気付くだろう。
けれどそれが何を意味する鍵なのか、これは気づけない。そこに自分の希望はまだ、見いだせる。
―「50年の束縛」を隠す鍵を示す本、そして、あの本は
周太が買った紺青色の表装『Le Fantome de l'Opera』を廻る、記憶。
あの一冊が周太への想いの自覚と告白を惹きだしてくれた、その記憶が優しい。
まったく同じ『Le Fantome de l'Opera』それなのに、ふるい本と新しい本は、もたらした現実が反対方向を向いている。
まるで綱引きが正反対に引きあっていくように。
運命の2冊『Le Fantome de l'Opera』が導いてくれるのは?
(to be continued)
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