Our cheerful faith, that all which we behold
第69話 山塊act.5-side story「陽はまた昇る」
メモを取る手帳の紙面、水蒸気の影ゆるやかに流れゆく。
霧籠める山の焚火に湿度はすぐ乾いてページが滲むことは無い。
それでも遮らる太陽と透らす雲は視界を塞ぎ、今、炎の燃え音だけが響く。
そして耳元イヤホンから明朗な声は笑い、時に考えこみ、過去の記憶を語ってゆく。
“警察庁のお偉いサンだったんだよ。本部長だかナンだかって言ってたがね、やっぱり警官ってナントナク身構えるのかもな?”
“その人が来る時はいつも馨さんが居ない時ばかりだったんだ。で、私が代りに茶汲みしてたんだよ、”
“デュラン博士は湯原先生の親友でライバル…時に限って馨さんがナンカしら忙しくって途中で離席しちゃうんだよ、それから例の警官サンが来る”
“デュラン博士と先生と3人だけの時はまだ良いんだけどさ、警官サンが来る度にナンカしら私は失敗したよ、受皿を忘れたりな?”
イヤホンの声を片方だけ聞きポイントごとペンを奔らせる。
記す暗号表記に手帳の空白は埋まってゆく、その単語たちは直に標せない。
もし誰かに見られても他人には解らない表記なら、今、自分が抱く意志は気づかれず済む。
そう考えてある綴り方は暗号とすら解からないだろう、そんなメモを書き留めながら録音は聲を伝える。
“先生が離席してもデュラン博士と俺と二人なら話しもたがな、警官サンがいると俺はドウも無口になってなあ…あの席だ、”
“そこなら書架の奥でここからは見えないんだよ、警官サンの視界から消えちまえば話しかけられることも無いだろ?気づかれんしな”
“二人だけでも話してるのが聴こえるんだがな、その警官サンがナンカ言うたんびに俺は、何故かイラッとしちまうんだよなあ?”
“警官サンは短く相槌を打つってカンジでな、デュラン博士が話させられてるって思ったもんだよ?それが気持ち悪かったのかな”
“先生のコトを特に話してるワケじゃなかったけどな、でもデュラン博士は様子がちょっと変わる気がしたもんだよ、なぜかな”
“変わったことは…うん、何故かな、警官サンと二人きりで話した後は決まって博士は、水をくれって頼んだよ、”
幾度も登場する二人に、意識は傾けられて思考は廻らす。
この二人にまつわる事実が呼び起こす真相、それを追いながら確信が深くなる。
そして自分との類似点にも気づかされて溜息を吐きながら英二はレコーダーを切り、笑いかけた。
「光一、おつかれさま、」
「おまえもオツカレさん、さて?」
テノールの声が笑ってペンを書き終えながら、悪戯っ子な目がこちらに笑う。
その眼差しに微笑んで英二はアンザイレンパートナーに質問した。
「水をくれって頼むのはさ、なんでだって思った?」
「緊張だね、過度のさ?」
さらり応えてくれる声を霧ゆるやかに透りぬけてゆく。
深閑の山懐は霧と森の静謐に止まって、二人だけ向かい合う前で明朗な声が言った。
「Alain-Gérard Durand、ソレがデュラン博士の本名なんだけどね、ちょっと不運な秀才として有名なんだよ?」
不運な秀才、そんな表現は馨の日記帳にも見ている。
それが記された日付と内容のまま想いだしながら英二は尋ねた。
「お父さんがフランス文学を好きだから光一もフランス語が読めるって言ってたけど、お父さんは大学で仏文科だった?」
「だよ、」
応えて微笑んで、けれど光一はそれ以上は口を噤んだ。
こんなふうに光一は時に両親の事情を言いたがらない、その想いは少しだけ4月に聴いている。
『おふくろの両親たちは葬式の日に言ったよ、雑種の子供なんか要らないってさ?俺のこと捨てたんだよね、』
光一の母、奏子は音楽一家に生まれた才能あるピアニストだった。
それでも山と出会い光一の父親と出逢って山ヤになった、そして死後も奏子の両親は勘当を解かない。
そんな事情を抱きながら光一は既に雅樹も喪っている、その哀しみに深追いを避けて英二は話しを続けた。
「馨さんの日記にも不運な秀才って表現が出てくるよ、4月に雲取山で話した晉さんの親友、パリ大学の同期で助教授どまりだった人だよ、」
「うん、その人に一致だね、」
短く応えて頷いてくれる、その瞳が生真面目に考え込む。
いつにない貌、そんな貌に驚かされそうな真中で光一は口を開いた。
「デュラン博士はね、世界的にも有名な仏文学者だよ。それなのに大学教授に何故か成っていないくってさ、奇妙だって話らしいよ?
オヤジにも聴いた事あるんだけどね、もしパリ第3大に拘らなきゃ他でチャンと教授になれた人なんだよ、でも何故か成らなかったワケ。
パリ第3に拘るのは仏文学者として仕方ないかもしれないけどさ、教授になれない逆恨みまでしたってコト一部では有名だったらしいね、」
Université de Paris パリ大学。
ボローニャ大学やオックスフォード大学と共に、ヨーロッパ最古の学府に挙げられる。
ノーベル賞受賞者も数多く、政治学、科学、物理学、神学など広い分野で優秀な学者を輩出してきた世界的学府。
そして晉が学び名誉教授となったパリ第3大学ソルボンヌ・ヌヴェールは、意義深く伝統あるソルボンヌ学寮の系譜に連なる。
そこには拘るだけの理由があっても仕方ないかもしれない、それでもデュランの異様な結末を知るだけに疑問は起きだす。
「その人が晉さんと無理心中するって、普通に考えたらあり得るって思う?」
世界的文学者、そう呼ばれるだけの実績はデュラン博士にもある。
それを顧みず母校の教授という名に執着した現実は「異様」だろう?
そんな疑問に仏文学を知る男は霧の中、静かに微笑んで首を振った。
「ないね、普通なら、」
普通なら無い、その答えに確信が冷たく肚に墜ちてしまう。
疑問符だらけの冷たい怒りは哀しく泣いている、そんな心裡へ馨の筆跡が映りこむ。
……
父との死を明日に控えた夜、彼の日記にはこう記してあった。
まず冒頭は、
『私の愛するサムライ、晉』
侍と、愛すると、父を記した彼の筆跡は鮮やかで落ち着いていた。
そんな呼び方で父を見つめてくれた人は、こんなふう書き遺した。
『あまりに友を見つめ、愛しすぎた、心を重ねすぎて学問までも重なった。もう晉は自分なのだ、彼は私のものだ、』
あの彼がそんなふうに父を見つめていたなんて、どうやったら信じられるだろう?
いつも温厚で物静かで、けれど陽気な心根が優しかった偉大な学者で、父の学友で親友。
そんな彼が父を愛してくれているとは知っていた、けれど、所有するような愛情だったなんて、
……
父の死を見送った馨の手記は最後、書きかけのままインク滲んで終わる。
そこに「彼」としか書かれていない男を馨の友人は過去ごと証言してくれた。
そして光一のくれた裏付けに結論は顕れてしまう、その現実を英二は言葉にした。
「あの男と話した後はいつもデュラン博士は水を飲んでる、それだけ口の中が乾くのは緊張の所為だ、それだけ圧迫感を感じてる。
いつも博士が『話させられてる』って田嶋教授が感じたのは誘導尋問と似ている会話だからだ、だったら圧迫感で緊張するのも当然だ、
あの男が何か言うたび田嶋教授が『何故か』苛立つのも当然だよ、意識操作っぽい聴取は精神削られるから様子が少し変わるのも納得できる、」
馨の友人が立会っていた30年前の現場、その証言から解いてゆく過去の意図。
そんな言葉一つずつは霧のなか融けて秘密に籠る、それでも見えてくる現実を英二は言葉にした。
「あまりに友を見つめ愛しすぎた、心を重ねすぎて学問までも重なった、もう晉は自分だ。そうデュラン博士は最後の日記に書き遺してる。
この意味はなんだろうって俺も考えてたんだけど、あの男が面会するたび少しずつ、博士の意識に吹き込んでいったんなら解かる気がする、」
年月をかけた意識操作。
そんな事実が真相なら、闇は深すぎる。
あの男ひとり個人の闇、そして法の正義に生まれた闇の陥穽。
どこまで深いのか解らない正解の行方、それでも考えられる結論に英二は微笑んだ。
「デュラン博士と晉さんは無理心中じゃない、他殺だ、」
(to be continued)
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第69話 山塊act.5-side story「陽はまた昇る」
メモを取る手帳の紙面、水蒸気の影ゆるやかに流れゆく。
霧籠める山の焚火に湿度はすぐ乾いてページが滲むことは無い。
それでも遮らる太陽と透らす雲は視界を塞ぎ、今、炎の燃え音だけが響く。
そして耳元イヤホンから明朗な声は笑い、時に考えこみ、過去の記憶を語ってゆく。
“警察庁のお偉いサンだったんだよ。本部長だかナンだかって言ってたがね、やっぱり警官ってナントナク身構えるのかもな?”
“その人が来る時はいつも馨さんが居ない時ばかりだったんだ。で、私が代りに茶汲みしてたんだよ、”
“デュラン博士は湯原先生の親友でライバル…時に限って馨さんがナンカしら忙しくって途中で離席しちゃうんだよ、それから例の警官サンが来る”
“デュラン博士と先生と3人だけの時はまだ良いんだけどさ、警官サンが来る度にナンカしら私は失敗したよ、受皿を忘れたりな?”
イヤホンの声を片方だけ聞きポイントごとペンを奔らせる。
記す暗号表記に手帳の空白は埋まってゆく、その単語たちは直に標せない。
もし誰かに見られても他人には解らない表記なら、今、自分が抱く意志は気づかれず済む。
そう考えてある綴り方は暗号とすら解からないだろう、そんなメモを書き留めながら録音は聲を伝える。
“先生が離席してもデュラン博士と俺と二人なら話しもたがな、警官サンがいると俺はドウも無口になってなあ…あの席だ、”
“そこなら書架の奥でここからは見えないんだよ、警官サンの視界から消えちまえば話しかけられることも無いだろ?気づかれんしな”
“二人だけでも話してるのが聴こえるんだがな、その警官サンがナンカ言うたんびに俺は、何故かイラッとしちまうんだよなあ?”
“警官サンは短く相槌を打つってカンジでな、デュラン博士が話させられてるって思ったもんだよ?それが気持ち悪かったのかな”
“先生のコトを特に話してるワケじゃなかったけどな、でもデュラン博士は様子がちょっと変わる気がしたもんだよ、なぜかな”
“変わったことは…うん、何故かな、警官サンと二人きりで話した後は決まって博士は、水をくれって頼んだよ、”
幾度も登場する二人に、意識は傾けられて思考は廻らす。
この二人にまつわる事実が呼び起こす真相、それを追いながら確信が深くなる。
そして自分との類似点にも気づかされて溜息を吐きながら英二はレコーダーを切り、笑いかけた。
「光一、おつかれさま、」
「おまえもオツカレさん、さて?」
テノールの声が笑ってペンを書き終えながら、悪戯っ子な目がこちらに笑う。
その眼差しに微笑んで英二はアンザイレンパートナーに質問した。
「水をくれって頼むのはさ、なんでだって思った?」
「緊張だね、過度のさ?」
さらり応えてくれる声を霧ゆるやかに透りぬけてゆく。
深閑の山懐は霧と森の静謐に止まって、二人だけ向かい合う前で明朗な声が言った。
「Alain-Gérard Durand、ソレがデュラン博士の本名なんだけどね、ちょっと不運な秀才として有名なんだよ?」
不運な秀才、そんな表現は馨の日記帳にも見ている。
それが記された日付と内容のまま想いだしながら英二は尋ねた。
「お父さんがフランス文学を好きだから光一もフランス語が読めるって言ってたけど、お父さんは大学で仏文科だった?」
「だよ、」
応えて微笑んで、けれど光一はそれ以上は口を噤んだ。
こんなふうに光一は時に両親の事情を言いたがらない、その想いは少しだけ4月に聴いている。
『おふくろの両親たちは葬式の日に言ったよ、雑種の子供なんか要らないってさ?俺のこと捨てたんだよね、』
光一の母、奏子は音楽一家に生まれた才能あるピアニストだった。
それでも山と出会い光一の父親と出逢って山ヤになった、そして死後も奏子の両親は勘当を解かない。
そんな事情を抱きながら光一は既に雅樹も喪っている、その哀しみに深追いを避けて英二は話しを続けた。
「馨さんの日記にも不運な秀才って表現が出てくるよ、4月に雲取山で話した晉さんの親友、パリ大学の同期で助教授どまりだった人だよ、」
「うん、その人に一致だね、」
短く応えて頷いてくれる、その瞳が生真面目に考え込む。
いつにない貌、そんな貌に驚かされそうな真中で光一は口を開いた。
「デュラン博士はね、世界的にも有名な仏文学者だよ。それなのに大学教授に何故か成っていないくってさ、奇妙だって話らしいよ?
オヤジにも聴いた事あるんだけどね、もしパリ第3大に拘らなきゃ他でチャンと教授になれた人なんだよ、でも何故か成らなかったワケ。
パリ第3に拘るのは仏文学者として仕方ないかもしれないけどさ、教授になれない逆恨みまでしたってコト一部では有名だったらしいね、」
Université de Paris パリ大学。
ボローニャ大学やオックスフォード大学と共に、ヨーロッパ最古の学府に挙げられる。
ノーベル賞受賞者も数多く、政治学、科学、物理学、神学など広い分野で優秀な学者を輩出してきた世界的学府。
そして晉が学び名誉教授となったパリ第3大学ソルボンヌ・ヌヴェールは、意義深く伝統あるソルボンヌ学寮の系譜に連なる。
そこには拘るだけの理由があっても仕方ないかもしれない、それでもデュランの異様な結末を知るだけに疑問は起きだす。
「その人が晉さんと無理心中するって、普通に考えたらあり得るって思う?」
世界的文学者、そう呼ばれるだけの実績はデュラン博士にもある。
それを顧みず母校の教授という名に執着した現実は「異様」だろう?
そんな疑問に仏文学を知る男は霧の中、静かに微笑んで首を振った。
「ないね、普通なら、」
普通なら無い、その答えに確信が冷たく肚に墜ちてしまう。
疑問符だらけの冷たい怒りは哀しく泣いている、そんな心裡へ馨の筆跡が映りこむ。
……
父との死を明日に控えた夜、彼の日記にはこう記してあった。
まず冒頭は、
『私の愛するサムライ、晉』
侍と、愛すると、父を記した彼の筆跡は鮮やかで落ち着いていた。
そんな呼び方で父を見つめてくれた人は、こんなふう書き遺した。
『あまりに友を見つめ、愛しすぎた、心を重ねすぎて学問までも重なった。もう晉は自分なのだ、彼は私のものだ、』
あの彼がそんなふうに父を見つめていたなんて、どうやったら信じられるだろう?
いつも温厚で物静かで、けれど陽気な心根が優しかった偉大な学者で、父の学友で親友。
そんな彼が父を愛してくれているとは知っていた、けれど、所有するような愛情だったなんて、
……
父の死を見送った馨の手記は最後、書きかけのままインク滲んで終わる。
そこに「彼」としか書かれていない男を馨の友人は過去ごと証言してくれた。
そして光一のくれた裏付けに結論は顕れてしまう、その現実を英二は言葉にした。
「あの男と話した後はいつもデュラン博士は水を飲んでる、それだけ口の中が乾くのは緊張の所為だ、それだけ圧迫感を感じてる。
いつも博士が『話させられてる』って田嶋教授が感じたのは誘導尋問と似ている会話だからだ、だったら圧迫感で緊張するのも当然だ、
あの男が何か言うたび田嶋教授が『何故か』苛立つのも当然だよ、意識操作っぽい聴取は精神削られるから様子が少し変わるのも納得できる、」
馨の友人が立会っていた30年前の現場、その証言から解いてゆく過去の意図。
そんな言葉一つずつは霧のなか融けて秘密に籠る、それでも見えてくる現実を英二は言葉にした。
「あまりに友を見つめ愛しすぎた、心を重ねすぎて学問までも重なった、もう晉は自分だ。そうデュラン博士は最後の日記に書き遺してる。
この意味はなんだろうって俺も考えてたんだけど、あの男が面会するたび少しずつ、博士の意識に吹き込んでいったんなら解かる気がする、」
年月をかけた意識操作。
そんな事実が真相なら、闇は深すぎる。
あの男ひとり個人の闇、そして法の正義に生まれた闇の陥穽。
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