萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第53話 夏至act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-08-31 19:39:24 | 陽はまた昇るside story
呼び聲、明るませて



第53話 夏至act.5―side story「陽はまた昇る」

空が近い。

脚立から見上げる梢の向こう、明るい青が広がっている。
翳す木洩陽は光と影に交錯する、風透ける緑まぶしくて英二は目を細めた。
涼やかに吹く風に甘酸っぱい香が瑞々しい、芳香の果実へと長い指を伸ばすとやわらかく掴んだ。

かさっ…

葉擦れの音に、まるい実は掌へと滑りこむ。
あわい黄と赤みを帯びた果実は、あまやかな香が優しい。
こんなふうに果樹の実を摘むことは、この家に来るまで知らなかった。

―こういうの、なんか良いな

掌の果実は豊潤を昇らせながら、やわらかな感触を肌にくれる。
この実を使って周太は菓子や酒を造ると言っていた、そんな素朴な習慣がなにか愛しい。
こうした習慣を、斗貴子も楽しんでいたのだろうか?

湯原 晉  出生地 神奈川縣橘樹郡川崎町
妻 斗貴子 出生地 東京府東京市世田谷区  

父  榊原 幸匡
母  榊原 とみ
続柄 長女

さっき見た、周太の祖父を記録した除籍謄本が脳裏に浮かぶ。
おそらく「榊原幸匡」は自分の祖母の叔父、そして斗貴子は祖母の従姉だろう。
さっきから考え廻らす中で「東大に行った従姉がいる」と祖母が話してくれた記憶がある、だから確信できる。
そして斗貴子が在学していた頃、晉はソルボンヌから東大に戻り仏文科の教授として着任している。

―お祖父さんと斗貴子さん、15歳違いなのは教え子だからだ

あの時代に女性で大学進学者は少ない、それも東京大学に進学するような女性は稀だった。
たぶん自分の推測は正解だろう、今、電話を一本かけて祖母に確認すれば「正解」だと言われるだろう。
それなら自分は湯原家と無関係ではなくなる、法定親族では無くても血縁は変わらない、それは周太の望む存在に当る。

―…俺、本当は寂しかったんだ。お母さんと2人きりで寂しくて…だから知りたかったんだ、家と家族のこと

戸籍証明を見ながら告げてくれた、周太の「家族や親族がほしい」願い。
あの言葉は周太だけの寂しさを言っているのではない、周太は母のことを気遣って言っていた。
これから夏になって秋になる、その間の2度の異動で周太は危険な部署に配属されるだろう。
そうすれば周太の母は独りになる、そのことを周太は思って家族や親族がほしい。
だから本当は今すぐ教えてあげたい、自分こそ周太の血縁者だと告げたい。

―けれど、それは今は、まだ出来ない…知らない方が良い、

まだ今は、周太は「親族がいない」ことにする方が安全を護る。
きっと「自分がいなくなったら母は独りになる」と思わせた方が、周太自身の生存への意思は強い。
なにより真昼に聴いた、安本の情報から考えて親族の存在を知らすことは危険だろうから。

―…今朝、射撃指導員の会合が本庁で…新宿署のやつに訊かれた、湯原に親戚は居ないのかとね。これで2度目だ…
 湯原の命日に…あのベンチで…『湯原さんには息子さんが何人いるんですか』ってな。こんなこと新宿署長が訊くのは変だろう?

彼らは「亡霊」を探そうとしている、14年前に死んだ『Fantome』と似た男に怯えだした。
この「亡霊探し」を言ってくる者は畸形連鎖に関わるものになる、この炙りだしを止めたくない。
そして何よりも、この精神的ゆさぶりを壊したくはない。

―怯えればいい、正体を曝け出せ、そして…罪の意識を自覚したら良い

心に意図を見つめながら、梅の梢に手を伸ばす。
長い指が摘み取る果実はやさしい、けれど、このまま食べたら梅の実は淡い毒になる。
この毒のように少しずつ、畸形連鎖を腐敗させる傷の1つに「亡霊」はまだ使いたい。
14年前に死んだ『Fatnome』と似た男を「疑惑」という名の傷にしたい。

いま馨の息子が父と同じ道を歩み始めた、そのとき馨と似た男が現われたなら?
きっと馨と似た親族が復讐に現れたと考えるだろう、けれど馨には一人息子と妻しかいない。
もし他人の空似なら馨の存在した場所に現われる理由が無い、それならば『Fanome』と似た男は何の目的で現れたのか?
存在するはずの無い「馨の為に復讐をする男」が現われた、その理由不明は疑惑と混乱を醸していくだろう。
そうした疑惑と混乱に、きっと内部の懐疑が起きる。

法治の矛盾『Fantome』の鎖を知る仲間が裏切り、亡霊を送りこんでくる?

そんな懐疑が内側から食い荒らして崩れていく、そこに付け入るチャンスが与えられるだろう。
その崩壊と懐疑の涯には、裏切りの誤認で犠牲があるかもしれない。けれど、それは自分の知った事ではない。
そうして自壊してくれたら手間が省けて良い、存在する筈のない『Fantome』の復讐者、亡霊の幻に彷徨えばいい。

だから「湯原馨の血縁は一人息子と妻だけ」にしておきたい、自分が馨の血縁だと知らせたくはない。
それは英二自身の行動の自由を約束する、だから全てが終わる日まで告げることは出来ない。
それでも、この事実確認をしておきたい。それに出来るなら斗貴子のことを教えてあげたい。
たとえ親族と名乗ることは出来なくても、真実の一部を教えることは可能だから。

―葉山に行こう、早いうちに周太を連れて

祖母に会いに行く。祖母には事情を一部だけ話し、血縁関係は秘密のまま周太と会わせたい。
あの祖母なら余計なことは聴かずに、英二の求めに応じて話してくれるだろう。
そして祖母にも周太にも「斗貴子」への想いをすこし叶えてあげたい。

「英二、いちばん高い実は、ひとつ残しておいてね?…木守りだから、」

樹下からの声に、意識が戻された。
見下ろした向う、黒目がちの瞳が微笑んで見上げてくれる。
その瞳に明るい幸せが楽しげに笑って、木洩陽が肌を透かして美しい。

―きれいだ、

ほのかな風ゆれる黒髪が、やわらかに靡いて白く額を見せる。
あの額にキスしたいな?笑って英二は、まるい実に手を伸ばしながら答えた。

「木守り?」
「いちばん空に近い実はね、神さまへのお供物で木守りって言うんだ…そうすると、また沢山の実を付けてくれるの、」

木の神さまを信じている、そんな無垢な想いは周太らしい。
こういう純粋さを大切にしてほしい、護っていきたい。そんな祈りと笑いかけた。

「そういえば、夏みかんの時も1つ残したよな?あれも木守りなんだ、」
「ん、そう。同じだよ…りんごとか他の木も、同じようにするんだ、」

なんてことはない、他愛のない会話。
けれど、こんな時間こそ穏かな幸せが嬉しい。
このまま時が止まって、やさしい風の庭にふたり居られたら良いのに?
そんな叶わぬ願いをつい抱いてしまう、こんな自分の諦め悪さに微笑んだとき古い木の軋む音がした。

「周、ただいま。梅の実を採ってたの?」

梢の向こうから、やさしい声が聴こえてくる。
この声の主に今、幾つか話したい。その話題への緊張がゆっくり昇ってくる。
彼女は何て言ってくれるだろうか?きっと受けとめてくれると思う、けれど彼女にだけは罪悪感を抱いてしまう。

―いまの俺は、校則も、法律すら怖がっていないのに?

こんな自分でも、この世で唯ひとり頭が絶対にあがらない相手がいる。
そんな唯ひとり怖い相手と唯ひとり恋する相手の、楽しげな会話が聴こえてきた。

「おかえりなさい、お母さん…出来たら今日、すこし梅酒とか漬けようと思って、」
「あら、良いわね。甘露煮も作るのだったら、ゼリーよせにして欲しいな、」

愛する二人の声を聴きながら、英二は梢から書斎の窓を見た。
目視で東屋までの距離と角度を測っていく、その視野に山で距離感を掴む目視と登山図の比較感覚が働きだす。

―高さ4m、距離は25m圏内…拳銃の射程距離だ、

あの窓から東屋にいる人間を正確に狙撃できるのか?
拳銃の弾道と飛距離から考えて可能かを確認してみたかった、そこへ脚立に登れたのは幸運だった。
ある程度の高さを以て見ると角度など鳥瞰的に捉えやすい、あとは書斎から見て確認すれば今回のデータ収集が終る。

『書斎から東屋への狙撃を計画的に考案することは可能か?』

それを知りたい、もし可能なら50年前の事件は「意図的に惹き起された罠」と推論が成立する。
この推論には距離と角度に、あと1つの情報が揃えば裏付けが出来るだろう。
そして、もし推論が正解なら「あの男」の罪が、また1つ確定される。

殺人の教唆、それから殺人へ追い込む罠。
この2つの罪が50年の時を超えて、今、暴かれ出していく。
その証拠は少ないだろう、けれど追詰めるカードを並べ曝してやりたい。

―赦さない、どんなに時が経とうとも、時効だとしても

どちらの罪も、もう50年前では時効成立となる。それでも自分は赦さない。
たとえ法律で赦されても自分は赦さない、犯した罪を償わせてやりたい、愛する人達を苦しませた報いを投げつけたい。
その報いはどんなふうにするべきか?その答えも今、少しずつ考えは纏まっている。

―俺は、残酷だな

自分の思念へ自嘲が微笑んだ、その頬を梅の香がやさしい掌のよう撫でていく。
ゆるやかな風の馥郁はどこか優しい佳人を想わせる、この風の掌は彼女だろうか?

―斗貴子さん、あなたは赦せますか?あの男を…あなたの宝物を利用する者を、

吹きぬける風に笑いかける、その向こう古い写真の俤が微笑んだ。
彼女の雰囲気と馨は似ている、特に聡明な切長い瞳は母子だと思わせられた。
もし祖母の顕子と斗貴子が従姉妹同士で似ていれば、馨と英二が似ていることは当然だろう。
自分の目と父は似て、父と祖母の顕子は似ているのだから。そう考え廻らせながら脚立から降りたとき、やさしい声が呼んでくれた。

「ありがとう、周。英二くん、」

声にふり向いた先、明るい黒目がちの瞳が笑いかけてくれる。
この瞳には自分は全く敵わない、こんな全面降伏してしまう相手が嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「おかえりなさい、お母さん、」
「ただいま、英二くん、」

黒目がちの瞳が笑ってくれる。
その瞳は愛する人そっくりで、より闊達な光が明るい。
この瞳と山茶花の下に誓った約束は裏切れない、だから懺悔と許諾を受けとりに来た。

―どうか赦して下さい、そして共犯者でいさせて下さい、周太の誕生日の時の言葉のまま

心の裡で願いを告げて、英二は周太の母に微笑んだ。



かたん、

階上、扉の閉じる音が響く。
その音を合図に英二は、静かにステンドグラスの扉を開いた。
音も無く扉を閉じてホールを斜めに横切っていく、鋭利になる聴覚に微かな話し声が聞こえてくる。
いま母子は2階北西の部屋で話し始めた、だから1階南西に位置する仏間の音には気付かないだろう。
それでも英二はゆっくり和室の扉を開くと、音も無く静かに閉じた。

南面の障子戸から、午後の光は透かして影を畳に落とす。
その障子を全て開け放つと、テラスいっぱいの洋窓から畳へ影絵をゆらした。
ふるいガラス窓のやわらかな光は、テラスと和室を照らして光の梯子を伸ばしていく。
その先の仏壇へと踵返すと端坐して、英二は掌を合わせた。

「すこし、お騒がせします。どうか赦して下さい、」

合掌で笑いかけ、英二はミリタリーパンツのポケットから手袋を出した。
素早く両手に嵌めて経机を脇に寄せる、そのまま仏壇下の引戸へと片手を懸けた。

かたっ…

小さな音と開いていく手許から、ゆるく香の匂いが陽射しへ昇りだす。
引戸の奥へ射しこむ陽射しに目を透かし、英二は右掌を中へと入れた。

「…ん、」

注意深く引き出した大判の封筒は、予想した厚みを持っている。
この厚みは祖父の葬式を想い出さす、この記憶どおりだと良い。そんな想い封筒を開いて中身を引き出した。

「あった、」

馨の葬儀に使われた芳名帳。

これを今回は撮影謄写したくて帰ってきた。
微笑んで英二は卓上にページを広げ、ポケットからコンパクトデジタルカメラを出した。
レンズを向け、見開きごとに撮影していく。そのページには真昼に聴いたばかりの名前が幾つも並んでいく。

―安本さんの記憶力、さすが聴取の名人だ

昼食の席、光一の電話で周太を離席させた20分間。
あの間に安本から欲しかった情報を引き出した、そのうちの1つである弔問客リストは主要人物への記憶が明確だった。
あの短時間に安本は当時の役職と現職、その間の重要になるポストについても話してくれた。
あの話方はきっと、英二が何をしようとしているのかを大まかに気づいている。
それでも黙って英二の求め通りに情報を与えてくれた。

―…友達のことを俺は少し調べてるよ。子供の進路が作られたように異様で気になる。
 あの夜から俺は友達との約束が全てだ。昇任試験も受けず前線に残ったのも…こんな馬鹿には警告など解からんよ

きっと安本は周太と馨をとりまく闇に気づいた、遠野教官も気づいたように。
ふたりとも周太の「新宿署卒配」と「卒配期間の特練選抜」そして「卒配期間の術科大会出場」に違和感を持った。
この3つの異様さは全て「拳銃」に関わっている、特に「新宿署」に卒配されたことがあざと過ぎる。
新宿署はかつて馨が卒配され、そして最後に射撃指導を行った後に、狙撃され殉職した場所だから。
そして新宿署には馨に関わった人間が、何人も現時点で配置されている。

馨と周太、そして拳銃。この繋がりと上層部の意図は何だ?

その疑問を抱かれても仕方ない、その裏付けが今レンズを向ける書面からも昇りだす。
さっき安本に教えられたばかりの弔問客と所属の、大半がある1点に集中していく。

警備部警備第一課
捜査一課特殊犯捜査第1係、特殊犯捜査第2係
第六機動隊銃器対策部隊、第七機動隊銃器対策レンジャー部隊、第八機動隊銃器対策部隊

―どれもが、「銃」だ

銃火器のプロフェッショナル集団、その組織名が列挙されていく。
こんなにも銃火器に囲まれての葬儀だったことが、馨を取巻いた状況を思い知らされる。
そして彼らを統べる立場にいたのは「あの男」、当時80歳を超えていた1人の老人だった。

―…最後は神奈川県警の本部長だった…射撃大会で何度か見てるんだ。全国大会と警視庁の大会と、両方でよく臨席していた人だ
 優勝常連者の湯原を知っていたのは不思議は無い…通夜に来たのか不思議だった…周太くんに話しかけるのかも不思議で印象的だった

最後は、神奈川県警本部長だった男。

あの春の夜、男は馨の通夜に訪れた。その痕跡は今、レンズ向うの芳名帳に綴られている。
この男の持っていた「鎖」は、今も誰かが組織内で握りしめ、周太のことを見張っているだろう。
この芳名帳に記された名前たちから選んだろうか?それとも、この家と同じよう血縁に鎖持つ手も継いだ?
いずれにしても畸形の連鎖を生み出した「根源」が誰なのかは変わらない。
この家に繋がれた純粋な情熱を、醜怪に枉げた血塗れの手を壊したい。

「…赦さない、あなたのことは、」

微笑んで英二は、カメラをOFFにした。
撮り終えた4冊を封筒に元通り入れ、仏壇下へと戻し入れる。
静かに引戸を閉じて経机の位置を整えると、今度は床の間の前に片膝をついた。
その膝元に切られた正方形に、取りだしたメジャーを当てると1辺を計り手帳に記録する。
書き終えて手袋を外し、メジャー達とミリタリーパンツのポケットに納めると、英二は床の間を振向いた。

光ふる床の間に、紅萼紫陽花が静かに咲いている。
家に帰って着替えて、ふたり庭を散歩しながら、この赤い花を摘んだ。
花を映した黒目がちの瞳は穏かで、ふりそそぐ木洩陽の緑ゆれる髪は爽やかに香しかった。
なにげない光景、けれど幸せなひと時が優しくて、ずっと愛しいままに隣を見つめていたかった。
この願いのまま祈るよう唇から声は、静かに零れ微笑んだ。

「周太、花と木を見つめて生きてよ?…ほんとうに好きな世界で生きていてほしい、」

いま周太は、父の世界を見つめて向合っている。
それと同時に植物学の世界に夢を見始めている、警察学校にも専門書を持ちこむほどに。
この2月に再開した樹医から贈られた、青い表紙の学術書は今、周太の大切な宝物になっている。
いま通っている公開講座も楽しみにして、通学した日の電話は声のトーンも明るんで喜びが温かい。
そんなふうに笑ってくれる電話が本当は嬉しくて、その世界に生きてくれたらといつも願っている。

「でも周太、君は止めないね…お父さんと自分の誇りを懸けて、」

静かな呟きに、英二は深紅の花へと微笑んだ。
この花を斗貴子も見ていたのだろうか?馨も花を活けただろうか?
考え廻らしながら立ち上がり、テラスの障子戸を引き戻す。静かな木擦れの音に閉じられて、白い紙に木蔭がゆれる。
ゆらめく影絵の明滅がひるがえる、すこし風が出てきたらしい。この梅雨時ならば、風に雨雲は呼ばれるだろう。

―今夜は、雨か、

それでも夕月は見えるかもしれない、そんな予想をしながら扉を開いて音も無く廊下に出た。
そのままリビングへ入って、書棚から1冊取りだすと英二はソファに腰を下した。

めくる頁にはドイツ語が並んでいく。
もうセピア色が入りかけた古い紙、そこに綴られていく単語を拾い読んでみる。
何げなく手にした本、けれど読みとるアルファベットの意味に、心が傷みだした。

Eine Kanone、Unterseeboot、Handwaffe

並べられる軍事用語に、ため息がこぼれてしまう。
この本はきっと敦のものだった、それを単語たちが示して切ない。
このページを捲り懸命に学んだ痕跡が、ほら、いま指先に触れる微かな指痕に見えている。

―なぜ?

なぜ、こうならなくてはいけなかった?
なぜ努力の報いが凶弾なのだろう、どうして運命はこの家を銃火に燃やし尽くす?
そんな疑問がページから昇って息が詰まる、大きく呼吸して英二は本を閉じると書棚へ戻した。
そのとき階上で扉が開き、母子の声が階段を降りてきた。

「ケーキね、3種類あるんだ…オレンジのと、ブルーベリーのチョコレートケーキ、レアチーズ…どれが良い?」
「お母さんには、チョコレートのつもりで買ったでしょう?」
「ん、あたり…」

楽しげな会話が聞えて、ゆっくり扉が開かれた。
そして周太の母は微笑んで、英二に声をかけてくれた。

「お待ちどうさま、英二くん。テラスで話しましょうか?」
「はい、」

笑って廊下へと向かう視界に、彼女の白い手が映りこむ。
その手は大切そうに穴が開いた手帳を胸に抱いていた。

あの手帳について彼女は、話してくれるのだろうか?

そんな考え見つめながらホールをまた横切って、南西の部屋に入っていく。
障子戸ゆらめく梢の翳を開いて、それぞれラタンの安楽椅子に腰かけると彼女は、笑ってくれた。

「英二くんの話は、周との学校生活のこと?」

ほら、やっぱり彼女はお見通しだ。
やっぱり敵わない、素直に微笑んで英二は潔く頷いた。

「はい。お母さんにだけは謝りたくて、今日は帰ってきました。学校でも俺は、夜も周太を離せません、」

言った言葉に、快活な黒目がちの瞳が微笑んだ。
明るい愉しげな瞳が見つめてくれる、その瞳へと英二は率直に事実を告げた。

「警察学校では恋愛禁止の規則があります。だから俺は、初任科の時は周太に何も言えませんでした。でも、今は我慢しません。
もうじき俺と周太は離れることになります、だから今、一緒にいる時間は一番大切なことに使います。触れられる限り触れています。
この大切な時間を俺は離しません、何より警察の規則に邪魔されたくはないんです。こんなの子供っぽい意地かもしれないけれど、」

小さくため息吐いて、目の前の瞳を見つめる。
どうぞ話を続けて?そんなふう見つめ返してくれる瞳に英二は正直に微笑んだ。

「お母さん、俺は今、警察組織を憎んでいます。お父さんを追いこんだこと、周太を利用しようとすることが赦せません。
そんな組織の規則に、全ては従いたくありません。こんなの警察官として失格だろうと思います、でもプライドが折れません。
たとえ法の正義と言われても、ひとりの人間を不幸にして護る正義なんて俺は信じられません。俺は自分の信じる道に生きたいです。
だから今も、俺は学校のベッドでも周太を抱いています。後悔なんてしません、けれど周太を悩ませています。だから謝りに来ました」

こんな身勝手な自分を、彼女は何て想うだろう?
そう見つめた先で、黒目がちの瞳は穏やかに微笑んだ。

「いつも周は、微笑んで眠ってる?」
「はい、」

短い答えに英二は正直に頷いた。
そんな英二に黒目がちの瞳は愉しげに笑って、穏やかな声は言ってくれた。

「ありがとう、あの子を幸せな瞬間に攫ってくれて、」

言葉が英二に微笑んで、快活な瞳が見つめてくれる。
ゆるやかな木洩陽ふるなか微笑んで、彼女は続けてくれた。

「私も警察の規則は大嫌い。英二くんと同じ気持ちだったわ、周の父親と一緒の時間はいつも、」

微笑んだ声、けれど告げる想いは静かに激しい。
この静穏な怒りは自分と「同じ」だ、まるで合わせ鏡のよう向き合う想いに、彼女は微笑んだ。

「今も、心から警察の組織を憎んでるの。こんなの警察官の妻として母として、失格だろうけど。でも大嫌い、私の宝物を壊すから。
生真面目で誠実すぎる人を、いつも規則で縛って私から攫ってしまう。そして、最期は命まで奪ったわ。もう逢えなくされてしまった。
だから警察の全ては信じていないの、だって、いちばん大切なものを私から奪って、今度は周まで連れて行くわ。だから大嫌いなの、」

穏やかな微笑んだ声、けれど黒目がちの瞳ひとすじ涙がこぼれた。
窓の光に頬の軌跡が輝く、光の跡を見せながら彼女は愉しげに微笑んだ。

「英二くん、やっぱり私とあなたは共犯者ね?」
「はい、」

やっぱり彼女には敵わない、そして改めて彼女を好きだと想ってしまう。
こんなふうに笑って本音をぶちまけて「共犯者」と言われたら、もう絶対に裏切れない。
その想いのまま英二は正直な告白をした。

「お母さん。俺は周太と離れることが怖くて、俺…周太と心中しようとしました。眠っている周太の首に手を掛けました。
本当は俺、こんなに卑怯で弱虫です。周太に嫌われたくないから頑張ってるだけ、周太がいなくなると思うと簡単に崩れます。
お母さんの大切な周太を勝手に独占めして、死のうとしました。お母さんとの約束を破って、お母さんより先に周太を…死なせようとして」

声が熱くなって、喉にひっかかる。
それでも一息に告げて英二は、周太の母を真直ぐ見つめた。
もう怒鳴られても、引っ叩かれても仕方ない。覚悟と見つめた先で、けれど彼女は可笑しそうに笑いだした。

「困ったわね、英二くん?ほんとに私と英二くん、同じなのね?そっくりだわ、」
「…え、」

どういう意味だろう?
解からなくて見つめている先、彼女はより意外な言葉で微笑んだ。

「お願い、今、懺悔させてね?」

― 懺悔?

意外な言葉に呆気にとられてしまう。
驚いたまま見つめている先で黒目がちの瞳は微笑んで、彼女は教えてくれた。

「私も本当は、あの人を殺して一緒に死のうとしました。周がお腹にいる時よ、だから私の方が罪が重いわ、」

そんなことを、この人が?

この明るく強い女性が、そんな真似をするのだろうか?
予想外の懺悔に佇んでいる英二に、周太の母は笑いかけた。

「周の誕生日に独り言で言ったでしょう?あの人の仕事が何か気づいていた、って。それに彼が苦しんでいる事も知っていたわ。
だからね、周をお腹に授かって結婚して、いちばん幸せな瞬間のまま一緒に死んでしまえたら、あの人を救えるかもって考えたの。
そして私をいちばん救えると思ったわ、愛している人と愛している人の子供を抱いて死ねたら、もう離れなくて済む。そう思ってね、」

―俺と同じだ、

心に納得と、なにか温かい想いがこみあげていく。
彼女は両親を早く亡くし天涯孤独だった、そんな彼女にとって出逢った馨との幸福はどんなに救いだったろう?
ようやく掴んだ幸せと愛情に命懸けても「離れたくない」と願う、それを責めることが出来るとしたら幸福に傲慢な人間だ。
きっと彼女は自分以上に温もりと哀しみを抱いている、この理解と見つめる英二に穏やかな声は話してくれた。

「睡眠薬を買いに行ったのよ、私。あのひと、眠る前にホットミルクを飲む癖があったの。それに入れようと思って。
それで夜、ホットミルクを作って、入れようと思って蓋をあけようとしたらね、お腹をトンって周がノックしてくれたの。
すごく優しいノックで、手が止まったわ。そうしたらまたトンッって周が叩いてくれてね、それが初めて周が動いた時だった、」

生命を絶つと決意した、そのとき命の鼓動が呼応する。

それは母子にとって初めての対話だったろう。
家族の想いを懸けて、生命を廻らす分岐点に佇んだ瞬間に、母子は初めて心を通わせた。
その瞬間を語る黒目がちの瞳は、懐かしい幸福の瞬間を見つめている。まばゆいよう微笑んで彼女は続けた。

「やさしい温かいノックで、周は私のことを止めてくれたの。それで涙が出てきて、止まらなくなっちゃって。
キッチンで泣いていたら、あのひとが来てくれたの。すぐ薬瓶に気がついてね、中身を全部トイレに流しちゃったの。
そして抱きしめて言ってくれたわ、どうか生きて幸せになって下さい、絶対に生きて子供を生んで、幸せに育ててほしい、って」

見つめる先、ゆるやかに瞳は水を漲らす。
ゆっくり涙ひとつこぼれて、彼女は綺麗に笑ってくれた。

「あのとき約束をくれたから、だから私はあのひとが亡くなっても、生きて周太を育ててきたの。だから、解かるわ?
今の英二くんの気持ちも周の気持ちも、きっと私には解ってる。だから謝らないで良いの、生きて幸せになる決心も同じでしょう?」

ほら、やっぱり解ってくれている、このひとだけは敵わない。
こんなふうに全て赦して受け留めてくれる、この存在があるから自分は立っていられる。
この強く深い懐を抱く人へ、英二はきれいに笑いかけた。

「同じですね?俺たち、やっぱり共犯者ですね、お母さん、」

こんな共感は、本当は無い方が幸せだろう。
けれど、ここに立たされてしまったならば、共犯者がいたら救われる。
愛する人を否応なく腕から奪われる、裂かれる苦しみと憎しみと、哀しみの狭間に立たされたなら。





(to be continued)

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