萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第51話 風待epilogue―side story「陽はまた昇る」

2012-07-28 23:57:41 | 陽はまた昇るside story
待っている、君の時間を



第51話 風待epilogue―side story「陽はまた昇る」

朝、英二は吉村医師と留置所に向かった。
勾留されたばかりの男を診察した吉村は、警察医診察室に戻ると教えてくれた。

「右手は、月状骨と舟状骨が砕けています。それと極度の栄養失調に、精神的失調が見られますね、」

この砕かれた2つの骨は手根骨の一部分で、手の動きを司る骨たちの根幹に位置している。
月状骨は橈骨、舟状骨は尺骨と連結して腕と手を結ぶ。だから、この2つを砕かれては指も動くことが出来ない。
この診断結果を予想はしていた、けれど専門家から聴かされた「確定」に溜息がこぼれた。

「右手はその部分だと、腱にも損傷が?」
「はい。腱の切断が見られます、骨片に切られたのかもしれませんが。おそらく、麻痺が残る可能性は高いでしょうね、」

コンパクトに説明をして、カルテから目をあげてくれる。
穏やかな目で英二を見、そして少し寂しげに微笑んだ。

「国村くん、防衛の為に特殊警棒で打ったと言っていましたね?けれど、この撃ち方は……彼は、よほど肚を立てたのでしょうね、」

語間の空白に、吉村医師が呑みこんだ言葉を見てしまう。
この音にならない言葉へと、ほろ苦い想いと一緒に英二は微笑んだ。

「はい、ピッケルを凶器にしたからだと思います、」

月状骨と舟状骨、これを砕いて手首の腱を切断されたら手は動かない。それを狙って光一は打ち砕いたのだろう。
よく光一は英二の部屋に来ると救急法関連のファイルを開く、それには骨格標本図も載せて書込みも多く綴りこんだ。
あれを熟知したのなら剣道実力者の光一にとって、狙い撃つことは容易い。

“馬鹿野郎っ、ピッケルで殴るんじゃないっ!”

あのときの怒声と一閃した警棒の軌跡が、鋭利に蘇える。
あの声と台詞と、月光閃いた尖端に光一の意思が見えてしまう。

―もうピッケルが持てないように、光一は、解っていて…

最高の山ヤの魂を持つ、そう言われる通りに山っ子は「山」を穢す者を赦さない。
深く敬愛する山の肌に血を流すことを、山っ子は厳しいままに忌む。
同胞である山ヤが傷むことを哀しみ、山の道具を大切にする。
だからこそ、この禁忌を破り穢す者を、赦さない。

無礼者は「山」に踏みこませない

その意思のもとに光一は、犯人の利き手を奪った。
司法警察官の立場、そして正当防衛という名の合法的攻撃。
この「法による正義」を利用して山っ子は、山の掟の許に制裁を下した。

そのことが山ヤの医師である吉村には、きっと解かっている。けれど言わない。
吉村もひとりの山ヤとして、山っ子を愛した雅樹の父として、心から大切に想っているから。
それは後藤副隊長も同じだろう、昨夜に水松山頂に駆けつけた後藤は、そんな顔をしていたから。
けれど、後藤も何も言わないで藤岡の腕を見、無事を笑顔で喜んでいた。
そして光一に向き合うと深い目は微笑んで、肩をひとつ叩いた。

あのとき後藤の心に去来した想いは、なんだったろう?
大切な山ヤの友人が遺した山っ子を、岳父として見守ってきた後藤は何を想い、何を哀しんだだろう?
そんな想い廻らす向いから、吉村医師の穏やかな笑顔が問いかけてくれた。

「彼の犯行動機は、経済的な理由からでしたね?」
「はい、リストラが原因です、」

昨夜の事情聴取、その内容を哀しいと思った。
この報告をするためにも今、ここに座っている。英二は任務へと口を開いた。

「年齢的にも再就職は難しくて、貯金も尽きた為に、山で生活をしようと考えたそうです。けれど思う様に出来なくて。
それでキャンプ場の客から食料などを盗むようになりました。でもキャンプ場の警戒が厳しくなって、盗みも出来なくなりました。
なんとか木の実などで食繋いだそうですが、空腹に耐えかねて。そんな或る日、単独行のハイカーと行き会いました。それが最初の被害者です、」

この不況の時、50代の彼には再就職の口は少ない。
そんな現実のなか迷い込んだ犯罪が傷ましい、この傷ましさに溜息吐いて吉村医師は教えてくれた。

「自殺者も最後の場所に山を選びますが、これも古い伝統です。古い言葉に『奥津城』とありますが、これは山深い墓場の事なんです。
そこは死者が眠る場所であり、生きながら世を捨てた人の場所でもあります。こんなふうに山は、昔から人間にとって最後の居場所でした、」

最後の居場所。
この言葉は物悲しい、けれど、なにか温かい。そんな想いに英二は微笑んだ。

「最後の居場所って、なんか『山』らしいですね?どんな者も深い懐に抱いてくれる、そんな大らかさが優しくて、」
「はい、私もそう思います、」

きれいなロマンスグレーの頭を頷かせて、吉村医師が笑ってくれる。
そして穏やかな笑顔のままに、医師は言った。

「人の現実で生き難くなった人間の、最後の逃げ場。そんな想いは私も同じです、私も雅樹が死んだ現実が生き難かったから。
そしてね?山は死者が眠る場所だから、きっと雅樹も好きな奥多摩の山に眠っている。そう思ったから、ここで生きると決めたんです。
奥多摩の山で生きたなら、いつか雅樹の俤と会えるかもしれない。そう思ってね、私は故郷の山に還ってきたんです。そして、君に会えました、」

穏やかな笑顔の切長い目から、ひとすじ光がこぼれだす。
その光を医師の長い指は拭って、そして綺麗な笑顔で笑ってくれた。

「前にも話しましたね?初めて君に会ったとき、雅樹だと思ったと。あの瞬間のことを、今でも私は信じているんです。
あの瞬間は、本当に雅樹が君の姿を借りて私に会いに来たのだと。そう本気で信じています、君には迷惑だと思うけれど、すまない、」

率直な言葉と一緒に、吉村医師は頭を下げた。
この姿も言葉も切なくて、温かくて尊くて、熱が瞳の深くに生まれだす。
その熱を静かに飲みこんで、英二は穏やかな静謐のまま綺麗に微笑んだ。

「いいえ、迷惑だと思いません。きっと、本当にそうだったかもしれないと、俺も思います。だって先生、不思議でしょう?
あのとき俺は生まれて初めて、人の死を見たんです。それなのに俺は、落着いて彼女に向き合うことが出来ました。食事も摂れました。
本来なら俺には、あんなふうに出来なかったと思います。だから先生、あのとき雅樹さんが俺を支えてくれたからだって、思いませんか?」

自分は世田谷の住宅街で「きれい」な物ばかり見て育った。
まだ自分は近しい人の死も知らず、人間の根源的な昏い部分を少しも知らず、あの現場に立った。
そんな自分がなぜ、あんなに冷静でいられたのか?そのことが現場経験を重ねるごと、不思議になっていく。
この不思議は「雅樹」が答えなのかもしれない?そう素直に想ったままを口にした英二に、吉村は笑ってくれた。

「うん、そうだね?…ありがとう、宮田くん、」

笑ってくれた医師の目は、明るい。
この明るさに微笑んだ英二に、吉村医師は愉しげに続けてくれた。

「でも、可笑しいでしょう?私は医師で科学者で、こうしたことは非科学的現象だと言うべき立場かもしれないのにね?
けれど、医師として生きるほど思うんです。この医療の現場で出会う生命と死の姿に、私は多くの不思議を見せて貰ってきました。
本当に生命には、科学の範疇を越えた不思議な事がたくさんある。そういう事にこそ、真実の姿があるのかもしれないと思うんです、」

そういうことは自分も感じる、山に、それから周太と光一に。
この想い微笑んで正直に英二は頷いた。

「俺も、同じように思います、」
「そうですか?そう君に言われると、嬉しいですね、」

嬉しそうに笑って吉村医師は、手にしていたカルテを閉じた。
デスクの抽斗を開きながら、ふと英二を振向いて微笑んだ。

「そういえば、被疑者の顔ですが。瀬尾くんの似顔絵とソックリで、驚きました、」
「はい、俺も驚きました。現場でも皆、びっくりして、」
「そうですよね?後藤さんも感心していましたよ、」

話しながらバーチカルファイルへとカルテを仕舞い込む。
そして抽斗を閉めたとき、軽やかなノックの音が響いて扉が開いた。

「失礼します、おっ、宮田もう来てたんだ?」

扉が開いて、人の好い笑顔が診察室に入ってきた。
ワイシャツにスーツのスラックスを身に着けた藤岡は、ネクタイもきちんと締めている。
ネクタイを整って締めるほど左手は無事に動いている、それが解かって嬉しい。
嬉しい想いに笑った英二の向かいから、吉村医師も藤岡に笑いかけた。

「藤岡くん、経過はいかがですか?」
「はい、痛みも昨夜より楽です。診察お願いします、」

2人の遣り取りを見ながら、英二は流し台へと立ってコーヒーを淹れ始めた。
マグカップにセットしたドリップ式の、フィルターを透る湯が昇らす香が心地いい。
ゆるやかに寛いでいく心、そこに映りこんだ昨夜の記憶から雪白の貌が振り返る。
そして月光を映した透明な目が、真直ぐに英二を見つめた。

あの瞬間、光一の貌は「白魔」だった。

今冬1月にみた冬富士の雪崩、そして3月に呑まれた鋸尾根の雪崩。
出遭う生命を呑みこむ雪山の、「白魔」と呼ばれる冷厳の無垢な惨酷。
あの姿と光一は、よく似ていた。

美しい秀麗な貌は、透徹に冷たかった。
月明かりに雪白の肌が透けて、生身の温度が無い姿に見えた。
冷厳を孕んだ微笑は純粋な怒りに嗤い、透明な目の眼差しは氷雪の冷酷のまま無垢だった。

あのピッケルの鋭利な刃先に着いた血痕は、今までの被害者たちの血。
そして昨夜に鮮やかだった赤色は藤岡の血、それが光一の無垢を「白魔」へと変えた。
そうして白魔になった山っ子は、無垢なままに純粋な惨酷と微笑んだ。

―…ブレードんトコ、赤いモンが着いてるねえ?コレって何かなあ?アンタのこと叩いたら答えが解かるかなあ…

もし、藤岡の左腕が軽傷ではなかったら。あの言葉通りに光一は「叩いた」だろう。
きっと犯人は左手も打ち砕かれた、友人が負った傷みの責を、生涯償うために。
もう2度と山に来られないように、誰も傷つけないように。
ピッケルどころか全ての物を、掴めなくなるように。

“山っ子は、山の番人”

そんな言葉が心に映る。
その番人から恋され、愛される自分の役目は何だろう?
そんな考えが水松山の夜から、ずっと廻って心に玉響していく。

あの無垢に峻厳な山っ子を、高峰を望むよう山ヤは愛する。
けれど、あの冷厳の眼差しに畏怖を想い、共に立とうとする者は滅多にいない。
そんな稀なる存在が雅樹だった、そして今、英二にその存在となる事が求められている。

どこまでも真直ぐ山っ子を見つめ、愛し支え続けて、共に最高峰を登っていく。
お互いの生涯をアンザイレンザイルに繋ぎあい、信じあうまま向き合って。
そんなふうに永遠を共に生きることを、もう、自分は約束した。
あの4月の夜、奥多摩最高峰の天辺に『血の契』で誓って。

それでも昨夜に見た「白魔」の姿に、すこし心凍った自分がいる。
どこまでも無垢、それゆえに優しさも惨酷も大らかで、容赦ないまま表裏する。
どこまでも透明な心には、喜びも愛も恋も、哀しみも怒りも憎悪も、純粋なまま輝いて。
その輝きが透明な瞳の無垢なる美しさ、その美の意味を本当は見つめるたび気づいていた。
そして昨夜、男の手が打ち砕かれた瞬間に現実として見つめた。

美しい無垢ゆえの、慈悲の惨酷。

それも光一の真実の貌、この貌を永遠に見つめ続ける覚悟はあるのか?
それを永遠に受けとめ続けるだけの、器と心を自分に備えていけるのか?
そんな想いに心凍った瞬間の記憶に、光一のクライミングネームを想い出す。

『K2』

このクライミングネームの意味を光一は、イニシャルK・Kと「危険+際物」なのだと笑っていた。
そして最初に登頂した8,000m峰がK2峰だからだと教えてくれた、それが光一の宿命と本性を現すよう想えてならない。
K2峰は別名『非情の山』、この名に昨夜の姿が重なってしまうから。

K2峰は世界最高峰エベレストより登頂成功者が少ない、そして遭難者の数も当然多く、世界一登ることが難しいと言われる。
そんな実態からK2峰は、チャールズ・ハウストンとロバート・ベイツが共著した『非情の山』がそのまま異称となった。
この名前こそ山の峻厳と冷徹を現して相応しく、それが光一のクライミングネームにされたことは宿命かもしれない。

どこまでも透明な無垢は美しい、この美は曇りない輝きに充ちている。
この明るい輝きは感情の大らかな透徹、それは古い物語に読んだ、荒ぶる神を想い出さす。
そんな存在を自分の運命に繋ぎとめることを、ただの人間である自分に赦されるのか?
そんな途惑いが廻らされ、見つめる瞬間が昨夜からリフレインする。

けれどもう、本当はとっくに自分は決めている。
もう自分は『血の契』に山っ子の血を呑んだ、だからもう、決っている。
なによりもう、心から山っ子を愛している真実と想いが、肚の深く座ってしまった。

―…約束をキスで結んでよ?生涯のアンザイレンパートナーとして寄添って、永遠に『血の契』でいてくれるなら

そう言って昨夜も光一は、英二との永遠を願ってくれた。
あの無垢な願いを裏切ることも、忘れることも自分には出来ない。
たとえ自分の想いは恋に無くとも、この愛する想いは偽れないのだから。

こんなに考え続けるなんて、どこか恋に似ているかもしれない?
そうも想うだろう、美しい山っ子を山ヤとして恋うる想いも、あるのかもしれない。
けれど自分の恋愛は、優しいオレンジの香があまい、穏やかに懐かしい人の隣にある。
どこまでも安らいだ、静かな優しい温もりは変わることなく懐かしくて、還りたいと願ってしまう。
こんなふうに、山っ子への想いと婚約者への想いの差は、「安らぎ」なのかもしれない。

いま、あのひとに逢いたい。
いますぐ恋し愛するひとに逢って、この今の想いごと寛がせ欲しい。
そんな想いに今、香たつコーヒーの湯気に恋人の記憶が映りこんでしまう。

本当は今日は家に帰って、恋しい婚約者との時間が待っているはずだった。
けれど今日は帰ることは出来ない、受傷した藤岡を独り学校寮に置いて行くことは、山ヤとして男として出来ないから。
それでも逢いたい気持ちは本当で、ほら、もう心の自分は泣きそうになっている。



飛田給の駅に着いたのは、17時だった。
藤岡のザックを肩にかけ、自分の鞄を持って歩く道は明るい木洩陽が揺らいでいく。
ゆっくり話しながら歩いて、すぐ校門を通ると普段と違う雰囲気に迎えられた。

「なんか、人が少なくって静かだよなあ?」

人の好い笑顔はいつもどおり明るくて、ほっと安堵が心に笑う。
これなら大丈夫だろうな、そんな安心と寮の入口を潜って階段を昇っていく。
そして藤岡の部屋の前でザックを渡し別れると、自室の扉を開いた。

…きぃっ

静かに披かれる扉の向こう、明るい陽射しが窓を透る。
がらんと見える白い部屋は広くて、どこか素っ気ないほど余所よそしい。
あるべきものが欠けた寂しさ、その傷みが忸怩と心を噛んで虚ろになっていく。
この欠け落ちたピースは今頃、何をしているのだろう?

「…逢いたいな、」

ひとりごとが静寂に零れて、陽射しに砕ける。
スーツのジャケットを脱いでハンガーに懸けると、ネクタイを外しながら窓際に佇んだ。
見上げる空はまだ青く明るくて、17時過ぎという時刻を感じさせはしない。
そんな太陽の時の長さから、もう、夏が来ることが実感に迫りくる。
それが、どうしても哀しい。

―夏が来て、秋が来て、そうしたら「いつか」が来る?

そんな季節の廻りの向こうから、迫る運命の瞬間へ心軋みあげる。
もう何度も覚悟した、もう幾度も泣いて、出来る限りの防御線を考えて。
そんな繰返しを続けている日々に、すこし可能性という名の希望も見えている。
それでも、なお、竦んだ恐怖と不安は去ってくれない。そんな怯えが水曜の夜、この掌を恋し愛するひとの首に懸けさせた。

「…弱いな、」

溜息に微笑んで、ネクタイを持った掌を見つめる。
もしかしたら今夜、家に帰らずに済んだことは良かったのかもしれない。
また怯えに囚われ駆られて、この掌を愛するひとの首に掛けたら?そんな不安が怖い。
だから今こうして引き離されて、孤独を抱いて眠る今夜を迎えることも「罰」なのかもしれない。

周太からも光一からも離れて、独りきり眠る夜。
こんな孤独の夜は、もう、どれくらいぶりなのだろう?
以前は独りが普通で当たり前だった、けれど今は切ない想いが傷みだす。
まだ、夜を迎えてもいないのに?けれど窓に見える黄昏の気配へと、もう、孤独が滲みだす。

そんな想いの底から窓の空を見上げて、壁に寄り掛かる。
ほろ苦い傷みの浸みだしに、もう止めて久しい煙草の香が懐かしくなった。
そんな欲求にまた情けなくなって、こんな弱さに自分で呆れた涯の、苦い笑いが口許を歪ませる。

「…ほんと、俺ってダメだな?…ひとりだと、ダメ男だ、」

いま山ヤである自分にとって、呼吸器官を傷める煙草は縁遠くしたい存在。
それなのに吸いたくなるなんて、自棄にすぎるだろうに?
我ながら可笑しくて微笑んだ時、ノックの音が響いた。

こん、こん…

すこし遠慮がちな叩き方に、心が耳を疑う。
この叩き方をする人は、今頃は美しい庭の森にいるだろう?
だからこの音は、自分の心が作りだした幻の音。そんな諦めに俯いた向うから、また音は心をノックしてくれた。

こん、こん…

「…あ、」

また扉を叩いてくれる、俤の慕わしい音。
もう、幻でも構わない、あの扉を開いて幻でも抱きしめてしまえばいい。
そんな想いにネクタイをデスクに放り投げて、鍵を開くと扉を開けた。

「英二、やっぱり戻ってた…昨夜は、本当にお疲れさま、」

黒目がちの瞳が微笑んで、穏やかな声が笑いかける。
見慣れたジャージ姿の小柄な体は、するり横をすり抜けて部屋に入ってしまう。
そしてこちらを振向いて、やわらかな黒髪ゆらし周太が微笑んだ。

「どうしたの?英二…扉閉めて、こっちに来て?」

これは幻?

途惑いのまま、言われた通りに扉を閉じて、鍵を掛ける。
これで振り向いたらもう、消えて居ないのかもしれない?
そんな想いにスローモーションのよう振向いて、けれど周太は消えなかった。

「…どうして周太が、ここにいるんだ?」

驚きのまま疑問がこぼれて落ちる。
疑問を見つめながら、愛しい姿を見つめて歩み寄っていく。
もし、視線を逸らしたら消えてしまうかもしれない、それが怖くて瞬きすらしたくない。
そんな途切らせない視界の真中で、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「外泊申請を今朝、外出許可に切替えたんだ。だから大学に行って、美代さんと内山とお茶してから、戻ってきたよ、」
「どうして?お母さん、待っていたんだろ?」

問いかけながらも腕を伸ばして、小柄な肩を抱き寄せる。
抱きしめた肩は骨格が華奢で、いつものよう温かで、穏やかで爽やかな香が頬撫でた。
この恋しい香の真中から見上げて、微笑んで、周太は応えてくれた。

「言ってくれたでしょ?土曜日には帰ってくる、って…だから、待っていたかった、英二のこと、」

ゆるやかなトーンの落着いた、聴き慣れた愛しい声。
この声が今、この腕のなかで現実に応えてくれた。この現実に微笑んで英二は問いかけた。

「約束の為に、待っていてくれたの?俺が、川崎に帰れなくなったから、」

どうかYesを訊かせて欲しい。
そんな想いに見つめた黒目がちの瞳は、純粋なまま見つめてくれる。
優しい眼差し見つめて、そして穏やかな声が幸せに微笑んだ。

「ん、約束してくれたから、待ってた。だって、俺の隣が英二の帰る場所なのでしょう?だから、待ってたよ?
ここだと、ごはん作ってあげられないけど、でも一緒には食べられるし…いっしょにおふろはいってねむることならできるし」

最後の言葉が恥ずかしげなトーンになっていく、そんな「いつもどおり」が嬉しい。
なによりも水曜の夜があった後なのに、それでも周太は真直ぐ隣に来てくれた。
この与えられる今の瞬間に抱きしめて、恋しいまま素直に英二は笑いかけた。

「うん、俺の帰る場所は周太だよ?俺、ほんとうに逢いたかったんだ、だから今、すげえ幸せだよ、」
「ほんと?幸せなの、英二?」

抱きしめた腕の中、嬉しそうに見上げて温かな手を背中に回してくれる。
掌から伝わる温もりがワイシャツを透かして優しくて、幸せなまま英二は綺麗に笑った。

「幸せだよ。泣きそうに俺、周太に逢いたかった…ずっと一緒にいてよ、」

綺麗な笑顔で幸せ告げて、微笑んでくれた唇へと英二はキスをした。
あまいオレンジの香のキスは、穏やかに優しくて、ただ愛しい。
そして、なにか懐かしくて幸せで、慕わしい。

ほら?やっぱりそうだ。幸せは、君の隣でしか見つめられない、ずっと君に還りたい。





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