言葉よりも、時として
第60話 酷暑 act.3―side story「陽はまた昇る」
夕食の席、原は食堂に現れなかった。
「やっぱり今日の、キツかったよな、」
箸を進める向かい、丼かかえた人好い笑顔は哀しげに優しい。
きっと藤岡は昨秋の自身を想い、原を思い遣っているのだろう。そんな同期に英二は頷いた。
「だと思うよ。でも原さん、現場でも引き上げポイントの選択ちゃんとしてたろ?御岳でも冷静に勤務してたし、」
「うん、顔は蒼かったけど普段どおりだったよな。元レンジャーってすごいな、」
素直な感心と笑って、藤岡はハンバーグのトマト煮込みを丼に乗せた。
英二も皿に箸つけながら、この献立は原にとって不運だと思ってしまう。
そんな思案に吐息と微笑んだ向かいから、味噌汁を飲みながら藤岡が訊いてくれた。
「ほんとは発見した時、ちょっとアレだったんだろ?宮田がきちんとしてくれてあったから、俺たちもご遺族も良かったけど、」
言われた通りだ、けれど何て答えて良いのか考えてしまう。
遭難者と原と、ふたりを想いながら英二は、困ったまま微笑んだ。
「滑落は場所によって、厳しいから、」
「だよなあ?滑落って一瞬でヤバい、」
困ったよう笑いながらも藤岡は、ポテトサラダに箸つけている。
昨秋、最初の行政見分に立ち会った藤岡は食事が摂れなくなった。
あれから9ヶ月経った今、現場の話をしながら元気に食事を摂れている。
こんなふうに自分たちは慣れながら強くなっていくのだろう、それでも「馴れ」る事はしたくない。
―遺族の方には「最初」なんだ、それを忘れたくない、
忘れたくない、ずっと。
この先も自分は救助に駈け、傷病者や遺体と向合うのだろう。
そのたびに今日のよう生死の狭間に立ち、時として残酷な終焉を見つめる。
それは痛みがある、けれど馴れてしまえば痛覚は止んで楽かもしれないとも思う、それでも馴れを選ばない。
―馴れたら命の冒涜になる。それを吉村先生は後悔されたんだ、16年前に、
そう、今日もあらためて思う。
16年前に吉村医師は次男の雅樹を亡くした、それが今の道を選ばせている。
その哀切を知る自分は決して「馴れ」たくない、そんな想い微笑んで空の丼を持ち、英二は立ちあがった。
見慣れた部屋の扉、けれどノックに立つ気配は違う。
そして開かれたドアからは、新しい住人が怪訝に顔を出した。
昨日より柔らかい仏頂面、けれど蒼ざめた顔色に英二は穏やかなまま微笑んだ。
「ちょっと屋上に行きませんか?奥多摩の星と月を覚えて頂きたいんです、夜間捜索のとき必要なので、」
「…ああ、」
頷いて踵返すと原は、鍵を手に廊下へ出た。
こんなふう業務のことは素直に対応してくれる、その真摯が嬉しい。
ふたり並んで廊下を歩き自販機へ着くと、2本の缶ビールを買った英二に意外そうな声が尋ねた。
「あんたが酒?」
「はい、呑兵衛なんです。一本つきあって下さいね、それとも嫌いですか?」
笑顔で応えながら英二は、1本を原に手渡した。
冷えた缶を手に浅黒い顔が首傾げ、けれど少し微笑んだ。
「嫌いじゃない、」
「じゃあ良かった、」
笑って冷たい缶を提げながら、屋上の階段を上がっていく。
ぐるり高い柵に囲まれたスペース、それでも仰げば夜空は銀砂をちりばめる。
夏の星は冬より輝度は低く今夜は雲の翳も多い、けれど月も星も明確な空に英二は口を開いた。
「いま20時半の空です、今日の出は20時12分、方位は87.5度、月中南時は1時43分です。このデータで道迷いの位置確認も出来ます、」
「遭難者に月がどう見えるのか、って訊くんだな?」
すぐ原も応答してくれる、これなら精神的ダメージは判断力に響いてはいない。
それだけタフな男なのだろう、そんな同僚に英二は笑って頷いた。
「そうです、迷う方は地図が読めないことが多いですが、月が見える位置なら誰でも解かります。でも、月が無い夜もありますけどね、」
遭難する時、常に天候に恵まれる保障など欠片も無い。
むしろ天気が悪い方が最悪の状況は起こる、そんな現実を原も当然知っているだろう。
それでも最善を尽くせる知識は1つでも多い方が良い、その考えに8月上旬の夜を話していく。
遠く山から吹く風がぬるい夜気に涼しい、その風にプルリング引いてアルコールが香った。
「ゴチな、」
ぼそっと言って原は缶に口付けて、一口飲むと少し笑った。
笑うと愛嬌があるくせに寡黙で不器用に高いプライド、そんな空気がどこか懐かしい。
こういう雰囲気を自分は見た事があるな?そう考えながらビールをふくんで英二は笑った。
「そっか、」
そっか、昔の周太と似ているんだ?
そう気がついて笑ってしまう、出逢った頃の周太はこんな感じだった。
まだ1年も前ではない過去の光景、そこに佇む周太は寡黙な堅苦しい鎧に籠っている。
あのころが別人のよう今の周太は素直に穏やかで、優しい笑顔は中性的な透明感に凛とした無垢がまぶしい。
もう今の周太に馴染んでしまった自分が幸せで可笑しくて、逢いたい寂しさと混じって笑ってしまう。
そんな横でビール缶を片手に、浅黒い貌が怪訝そうに英二を見、ぼそっと訊いてきた。
「笑い上戸かよ?」
「わりと、」
さらっと答えて笑いながら、冷たい缶に口付ける。
掌のアルミ缶は水滴こぼして指を濡らす、その心地良さに今の季節が解かる。
もう今は夏、そして2ヶ月後には卒業配置から一年が経って、周太は二度めの異動を迎えるだろう。
―その頃までに周太との時間、どれだけ与えられるんだろう?
あと2ヶ月経ったら、手の届かない世界に周太は行ってしまう。
そこでも援ける手段が欲しくて異動を願い出て今、ここで後任者と酒を呑んでいる。
この時間の向こうにある「明日」その先に願う時間は来るだろうか?そんな思案の隣から、ふっと声が零れた。
「涼しいな、こっちは、」
ぼそり言って山風に目を細めさす、その表情が昨日よりやわらかい。
青梅署のある河辺は標高181m、第七機動隊舎のある調布より130mほど高地になる。
一般的に乾燥空気では100mで1度下がるが、標高3,000m以下では湿度が高いため平均1,000mで約5度しか変化がない。
だから調布と河辺では1度も差がないだろう、それでも湿度と風で体感温度は異なる。このことに英二は微笑んだ。
「山の風と多摩川がありますから、調布よりは涼しいでしょうね?」
「ああ、違うな、」
素直に頷いてビールを傾ける、その横顔は星空を見上げ微かに笑う。
蒼く幾分かやつれたような横顔、けれど昨日より穏やかなトーンが言った。
「俺は所轄の救助隊はここが初めてだけど、七機とは色々違うな、」
第七機動隊山岳救助レンジャーと所轄の相違、そこを自分も聴いてみたい。
そう想うまま、素直に英二は問を投げかけた。
「どんなところが違うんですか?」
「たとえば、あんただ、」
ぽん、と放りだすよう応えた口の端が上げられる。
どこか可笑しそうな表情に英二も微笑むと、原はこちらを向き言った。
「機動隊の基本は訓練だ、座学や交番の応援もあるがな。登山道のチェックは当然ないし、警察医を手伝う物好きもいない、」
物好き、言われて見ればその通りだ。
警察官である自分が医師の助手をする、そんな現状に英二は笑った。
「そうですね、俺も自分で不思議な時があります、」
「ふん?」
短い相槌をうった顔の精悍な目が、挑むよう笑っている。
またビールをひとくち啜りこみ、原は訊いてくれた。
「なんのキッカケで手伝ってるんだ?」
「初めての死体見分が、きっかけです、」
そのままを答えて英二は微笑んだ。
あの10ヶ月前を懐かしみながら、ビールで唇を湿すと口を開いた。
「縊死自殺された方でした。正直なとこ俺、気持ち悪かったです。でも吉村先生が『今日の方は良いお顔です』って教えてくれました、」
「良い顔?」
怪訝な声が尋ねて、浅黒い顔が首傾げこむ。
その貌へと頷いて、英二は記憶の想いを言葉に変えた。
「同じ縊死自殺でも定型的縊死だと苦しまず亡くなるんです。首を絞めた跡の状態と吉川線、足が地面に着いていない事で判断出来ます。
深い皮膚の溝が左右同じに顎の下側を通って、耳たぶ下から首の後へある場合は一気に脳の血流が止められ、すぐ無意識になっています。
だから苦しみも無くて表情も良くなるんです。こういう法医学の知識を先生は話してくれました、お蔭で頭が冷静になれて落着けたんです、」
これが初めて吉村医師と話した時だった、そしてテキストに書かれない大切なことを教えてくれた。
そのことを山岳レスキューとして原にも訊いてほしい、そう願うままに言葉を続けた。
「それでも気持ち悪いって俺、思ってたんです。だから先生は気持悪く無いのかって訊いたら、最初は気持ち悪かったって言ってくれて。
それが気を楽にしてくれました、それから先生は教えてくれたんです。何人も見るうちに亡くなった人の気持ちが少し解かるようになったって。
死に方を選んだ人の気持ちが解かって、ご遺体を同情の気持ちで見られるようになった時には、気持ち悪さは無くなった。そう教えてくれました、」
青梅署ロビーのベンチに座り、ふたり缶コーヒーを飲みながら話してくれた。
あのベンチの意味を自分はもう知っている、だから吉村のあの日の気持ちが今は解かる。
―先生、あのとき雅樹さんを想って、俺に話してくれたんですよね?12歳の雅樹さんを俺に見くれて、
12歳のとき雅樹は、本仁田山の森で縊死遺体を発見した。
そのとき警察医不在の為に検案を吉村医師が行い、そのあとベンチで息子とコーヒーを飲んだ。
それが雅樹の医学に生きる始まりだった、そして同じよう自分も救命救急と法医学の現場は、あのベンチから始まっている。
この「同じ」は切なくて誇らしくて、けれど自責も同時に傷んでしまう。そんな想いのままに今も記憶を見、英二は微笑んだ。
「その翌日、ご遺族から亡くなった方の伝言を伺ったんです、」
「伝言?」
短い問いに、浅黒い顔は怪訝の眉顰めさす。
きちんと聴いてくれている、そんな貌へと英二は頷いた。
「私を見つけることは辛い思いをさせるけれど、見つけてもらえなくては夫の隣に葬ってもらえない。迷惑は本当に申し訳ありません。
けれど見つけて頂いて心からの感謝を申し上げます。そう遺書に書いてあったそうです、ご主人を病気で亡くされた40代の方でした。
伝言を聴いて線香あげに行きました、そのとき俺、ご遺体のお顔を綺麗だって思ったんです。そして遺体の意味に気がつかせて貰いました、」
書き遺された彼女の想いは、発見者への感謝が優しかった。
そんな姿に尊厳を自分は見つめた、この想い素直に英二は言葉へ紡いだ。
「ご遺体は物じゃない、人の心が残せる最後の言葉だと気づきました。命が消えても心の跡は残って、そこに尊厳が見えるんです、」
人の尊厳、それは心と祈りだと自分は想う。
この尊厳を見つめて人間を知り、自分を知りたいと自分は願う。
それが「目的」とは関係なく警察医助手を務める意志、それを英二は口にした。
「俺は現場に立って10ヶ月です、その間に幾人ものご遺体と会いました。どの方も何かを教えてくれます、それに向きあいたいんです。
だから吉村先生のお手伝いをさせて頂いてます、その合間に先生から救急法や法医学のことを教えてもらうのも、俺には大切なんですよ、」
もしも「目的」が無かったとしても自分は、吉村医師との時間が大切だ。
この10ヶ月間で吉村と向合った生と死、遺体たちの言葉、そして「雅樹」が自分を変えてくれた。
その全てが愛しいとすら想っている、だから「いつか」が訪れて全て終わっても吉村医師の手伝いは続けたい。
そう未来へ想い綺麗に笑った英二に、浅黒い顔は穏やかに微笑んだ。
「遭難者の奥さん、包帯を喜んでたよ、」
まだ顔色は蒼い、けれど精悍な目の底は明るんでいる。
きっと原は何かを突き抜けた、そんな様子が嬉しくて英二は笑った。
「そうですか、ありがとうございます、」
「ああ、」
相変わらず素っ気ない口調、けれど夜空の下どこか明るい。
もう原は大丈夫だろう、この判断に英二は翌朝の提案をした。
「明日は4時半出発でお願いします、大丹波から棒ノ嶺と高水三山を行きましょう、」
「キツクないか?」
ぼそっとした原の言葉に、英二は軽く首傾げ微笑んだ。
何がキツイのだろう?そう目で訊いた先で浅黒い顔は口を開いた。
「そのコース3時間くらいかかるよな、俺は明日週休だけどさ、あんた出勤だろ?署に戻る時間がなくなる、」
「大丈夫です、そのまま俺は御岳駐在に出勤しますから。なので原さん、申し訳ないですけど電車で署に戻って頂けますか?」
原が言う通り、明日は出勤の自分は青梅署へ戻る暇はない。
けれどこのスケジュールなら充分いけるだろう、そう笑った英二に原は呆れたよう訊いてくれた。
「俺は良いけど、あんたがキツクないかってこと、」
もしかして自分のことを気遣ってくれてる?
そう気がついて驚かされる、そんな予想外に見た先で原は気まずげに言ってくれた。
「本当はあんた、今日が週休だったんだろ?なのに今日も出勤してる、遠征訓練の後ずっと休んでいないって岩崎さんが言ってた。
引継ぎのために休んでないんだろ、それであんたが体壊したら俺は責任、やっぱり感じるだろ?そういうの嫌だから気をつけろってこと、」
決して優しいトーンでは無い言葉、けれど気遣いは温かい。
寡黙で仏頂面のプライド高い男、それが原の素顔で自然体なのだろう。
こういう不器用な男っぽさは今どき珍しい、同じ男として良いなと素直に想える。
この1ヶ月で色々と話してみたい、そう考えながら英二は綺麗に笑った。
「1ヶ月しかありません、毎日登っても30コースしか引継げないです。休んだら勿体無い、俺は大丈夫です。頑丈に出来てるんで、」
「ふん、器用なだけじゃないんだ、」
また可愛くない言い回しをする、それも原にとったら悪気は無いだろう。
けれど、これでは原は損することも多いだろうな?そう推察に笑って英二は、幾分か気軽に応えた。
「原さんは山のこと器用ですけど、恋愛は不器用でしょう?」
言われて振り返った原の、精悍な目が大きくなっている。
たぶん原にとって不意打ちだった、そんな雰囲気が可笑しくて笑った英二に浅黒い顔も笑ってくれた。
「あんたは器用だろうな、青梅署でバレンタインの記録とか作ったんだろ?」
「藤岡、そんなことまで話したんですか?」
たぶん今朝の食堂で、自分が席を立った後にでも言ったのだろうな?
そう推定しながらビールの缶に口付ける、けれど原は呆れ半分に教えてくれた。
「警視庁山岳会で有名だぞ、天才イケメンの完璧男ってさ、」
なに、その評判?
そう思った途端に発泡性の一滴が、英二の喉を直撃した。
そのまま大きく気管支が迫り上げて、盛大に金色の泡が屋上にぶちまけられた。
「ごふっ、ごほんっ!原さっ、すみませごほほっ、」
またやってしまった、どうしよう?
困りながら噎せていく、その横で精悍な目が愛嬌に変って大笑いした。
「ふはっ、あははっ!あんた噂と違うな?ははっ、」
「は?ごほっほんっ、なに、ぐほっ」
なにが違うんですか?
そう聴き返したくて、噎せながらも隣の笑い顔を見る。
そんな英二に原は可笑しそうに言ってくれた。
「噂だけじゃ解らんってこと、ははっ、」
それは、どちらの意味だろう?
自分への噂が予想外に展開されている、それは解かった。
けれど、原にとって実態と噂の差は功罪どちらの意味だろう?
それを確かめたくて気管支をなんとか治め、英二は訊いてみた。
「実物と話して、がっかりしました?」
「いや、」
いつもの短い応えに原は、口許を上げてシニカルに笑う。
そのまま缶ビールに口付けて一息に干すと、精悍な目は英二に微笑んだ。
「完璧な奴より、あがいてる男の方が話しが出来る、」
放りだすようなトーン、けれど親近感が昨日より温かい。
その言われた言葉も男として嬉しい、こういう評価を言える原こそ「話が出来る」男だろう。
寡黙なプライドの男は努力も強い、そんな男と一緒に仕事をするチャンスは自分をまた1つ大きな男に変えていく。
こういう出会いが男として愉しい、そう思うまま英二は同僚に笑った。
「あがくのは得意です、諦めの悪い性格なんで、」
「ふん?」
ちょっと浅黒い顔は笑って、武骨な掌が缶を片手に潰した。
日焼けした手は山への努力があざやかでいる、そんな手に英二はまた疑問を見た。
どうして原は、遠征訓練のチャンスを放棄したのだろう?
(to be continued)
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第60話 酷暑 act.3―side story「陽はまた昇る」
夕食の席、原は食堂に現れなかった。
「やっぱり今日の、キツかったよな、」
箸を進める向かい、丼かかえた人好い笑顔は哀しげに優しい。
きっと藤岡は昨秋の自身を想い、原を思い遣っているのだろう。そんな同期に英二は頷いた。
「だと思うよ。でも原さん、現場でも引き上げポイントの選択ちゃんとしてたろ?御岳でも冷静に勤務してたし、」
「うん、顔は蒼かったけど普段どおりだったよな。元レンジャーってすごいな、」
素直な感心と笑って、藤岡はハンバーグのトマト煮込みを丼に乗せた。
英二も皿に箸つけながら、この献立は原にとって不運だと思ってしまう。
そんな思案に吐息と微笑んだ向かいから、味噌汁を飲みながら藤岡が訊いてくれた。
「ほんとは発見した時、ちょっとアレだったんだろ?宮田がきちんとしてくれてあったから、俺たちもご遺族も良かったけど、」
言われた通りだ、けれど何て答えて良いのか考えてしまう。
遭難者と原と、ふたりを想いながら英二は、困ったまま微笑んだ。
「滑落は場所によって、厳しいから、」
「だよなあ?滑落って一瞬でヤバい、」
困ったよう笑いながらも藤岡は、ポテトサラダに箸つけている。
昨秋、最初の行政見分に立ち会った藤岡は食事が摂れなくなった。
あれから9ヶ月経った今、現場の話をしながら元気に食事を摂れている。
こんなふうに自分たちは慣れながら強くなっていくのだろう、それでも「馴れ」る事はしたくない。
―遺族の方には「最初」なんだ、それを忘れたくない、
忘れたくない、ずっと。
この先も自分は救助に駈け、傷病者や遺体と向合うのだろう。
そのたびに今日のよう生死の狭間に立ち、時として残酷な終焉を見つめる。
それは痛みがある、けれど馴れてしまえば痛覚は止んで楽かもしれないとも思う、それでも馴れを選ばない。
―馴れたら命の冒涜になる。それを吉村先生は後悔されたんだ、16年前に、
そう、今日もあらためて思う。
16年前に吉村医師は次男の雅樹を亡くした、それが今の道を選ばせている。
その哀切を知る自分は決して「馴れ」たくない、そんな想い微笑んで空の丼を持ち、英二は立ちあがった。
見慣れた部屋の扉、けれどノックに立つ気配は違う。
そして開かれたドアからは、新しい住人が怪訝に顔を出した。
昨日より柔らかい仏頂面、けれど蒼ざめた顔色に英二は穏やかなまま微笑んだ。
「ちょっと屋上に行きませんか?奥多摩の星と月を覚えて頂きたいんです、夜間捜索のとき必要なので、」
「…ああ、」
頷いて踵返すと原は、鍵を手に廊下へ出た。
こんなふう業務のことは素直に対応してくれる、その真摯が嬉しい。
ふたり並んで廊下を歩き自販機へ着くと、2本の缶ビールを買った英二に意外そうな声が尋ねた。
「あんたが酒?」
「はい、呑兵衛なんです。一本つきあって下さいね、それとも嫌いですか?」
笑顔で応えながら英二は、1本を原に手渡した。
冷えた缶を手に浅黒い顔が首傾げ、けれど少し微笑んだ。
「嫌いじゃない、」
「じゃあ良かった、」
笑って冷たい缶を提げながら、屋上の階段を上がっていく。
ぐるり高い柵に囲まれたスペース、それでも仰げば夜空は銀砂をちりばめる。
夏の星は冬より輝度は低く今夜は雲の翳も多い、けれど月も星も明確な空に英二は口を開いた。
「いま20時半の空です、今日の出は20時12分、方位は87.5度、月中南時は1時43分です。このデータで道迷いの位置確認も出来ます、」
「遭難者に月がどう見えるのか、って訊くんだな?」
すぐ原も応答してくれる、これなら精神的ダメージは判断力に響いてはいない。
それだけタフな男なのだろう、そんな同僚に英二は笑って頷いた。
「そうです、迷う方は地図が読めないことが多いですが、月が見える位置なら誰でも解かります。でも、月が無い夜もありますけどね、」
遭難する時、常に天候に恵まれる保障など欠片も無い。
むしろ天気が悪い方が最悪の状況は起こる、そんな現実を原も当然知っているだろう。
それでも最善を尽くせる知識は1つでも多い方が良い、その考えに8月上旬の夜を話していく。
遠く山から吹く風がぬるい夜気に涼しい、その風にプルリング引いてアルコールが香った。
「ゴチな、」
ぼそっと言って原は缶に口付けて、一口飲むと少し笑った。
笑うと愛嬌があるくせに寡黙で不器用に高いプライド、そんな空気がどこか懐かしい。
こういう雰囲気を自分は見た事があるな?そう考えながらビールをふくんで英二は笑った。
「そっか、」
そっか、昔の周太と似ているんだ?
そう気がついて笑ってしまう、出逢った頃の周太はこんな感じだった。
まだ1年も前ではない過去の光景、そこに佇む周太は寡黙な堅苦しい鎧に籠っている。
あのころが別人のよう今の周太は素直に穏やかで、優しい笑顔は中性的な透明感に凛とした無垢がまぶしい。
もう今の周太に馴染んでしまった自分が幸せで可笑しくて、逢いたい寂しさと混じって笑ってしまう。
そんな横でビール缶を片手に、浅黒い貌が怪訝そうに英二を見、ぼそっと訊いてきた。
「笑い上戸かよ?」
「わりと、」
さらっと答えて笑いながら、冷たい缶に口付ける。
掌のアルミ缶は水滴こぼして指を濡らす、その心地良さに今の季節が解かる。
もう今は夏、そして2ヶ月後には卒業配置から一年が経って、周太は二度めの異動を迎えるだろう。
―その頃までに周太との時間、どれだけ与えられるんだろう?
あと2ヶ月経ったら、手の届かない世界に周太は行ってしまう。
そこでも援ける手段が欲しくて異動を願い出て今、ここで後任者と酒を呑んでいる。
この時間の向こうにある「明日」その先に願う時間は来るだろうか?そんな思案の隣から、ふっと声が零れた。
「涼しいな、こっちは、」
ぼそり言って山風に目を細めさす、その表情が昨日よりやわらかい。
青梅署のある河辺は標高181m、第七機動隊舎のある調布より130mほど高地になる。
一般的に乾燥空気では100mで1度下がるが、標高3,000m以下では湿度が高いため平均1,000mで約5度しか変化がない。
だから調布と河辺では1度も差がないだろう、それでも湿度と風で体感温度は異なる。このことに英二は微笑んだ。
「山の風と多摩川がありますから、調布よりは涼しいでしょうね?」
「ああ、違うな、」
素直に頷いてビールを傾ける、その横顔は星空を見上げ微かに笑う。
蒼く幾分かやつれたような横顔、けれど昨日より穏やかなトーンが言った。
「俺は所轄の救助隊はここが初めてだけど、七機とは色々違うな、」
第七機動隊山岳救助レンジャーと所轄の相違、そこを自分も聴いてみたい。
そう想うまま、素直に英二は問を投げかけた。
「どんなところが違うんですか?」
「たとえば、あんただ、」
ぽん、と放りだすよう応えた口の端が上げられる。
どこか可笑しそうな表情に英二も微笑むと、原はこちらを向き言った。
「機動隊の基本は訓練だ、座学や交番の応援もあるがな。登山道のチェックは当然ないし、警察医を手伝う物好きもいない、」
物好き、言われて見ればその通りだ。
警察官である自分が医師の助手をする、そんな現状に英二は笑った。
「そうですね、俺も自分で不思議な時があります、」
「ふん?」
短い相槌をうった顔の精悍な目が、挑むよう笑っている。
またビールをひとくち啜りこみ、原は訊いてくれた。
「なんのキッカケで手伝ってるんだ?」
「初めての死体見分が、きっかけです、」
そのままを答えて英二は微笑んだ。
あの10ヶ月前を懐かしみながら、ビールで唇を湿すと口を開いた。
「縊死自殺された方でした。正直なとこ俺、気持ち悪かったです。でも吉村先生が『今日の方は良いお顔です』って教えてくれました、」
「良い顔?」
怪訝な声が尋ねて、浅黒い顔が首傾げこむ。
その貌へと頷いて、英二は記憶の想いを言葉に変えた。
「同じ縊死自殺でも定型的縊死だと苦しまず亡くなるんです。首を絞めた跡の状態と吉川線、足が地面に着いていない事で判断出来ます。
深い皮膚の溝が左右同じに顎の下側を通って、耳たぶ下から首の後へある場合は一気に脳の血流が止められ、すぐ無意識になっています。
だから苦しみも無くて表情も良くなるんです。こういう法医学の知識を先生は話してくれました、お蔭で頭が冷静になれて落着けたんです、」
これが初めて吉村医師と話した時だった、そしてテキストに書かれない大切なことを教えてくれた。
そのことを山岳レスキューとして原にも訊いてほしい、そう願うままに言葉を続けた。
「それでも気持ち悪いって俺、思ってたんです。だから先生は気持悪く無いのかって訊いたら、最初は気持ち悪かったって言ってくれて。
それが気を楽にしてくれました、それから先生は教えてくれたんです。何人も見るうちに亡くなった人の気持ちが少し解かるようになったって。
死に方を選んだ人の気持ちが解かって、ご遺体を同情の気持ちで見られるようになった時には、気持ち悪さは無くなった。そう教えてくれました、」
青梅署ロビーのベンチに座り、ふたり缶コーヒーを飲みながら話してくれた。
あのベンチの意味を自分はもう知っている、だから吉村のあの日の気持ちが今は解かる。
―先生、あのとき雅樹さんを想って、俺に話してくれたんですよね?12歳の雅樹さんを俺に見くれて、
12歳のとき雅樹は、本仁田山の森で縊死遺体を発見した。
そのとき警察医不在の為に検案を吉村医師が行い、そのあとベンチで息子とコーヒーを飲んだ。
それが雅樹の医学に生きる始まりだった、そして同じよう自分も救命救急と法医学の現場は、あのベンチから始まっている。
この「同じ」は切なくて誇らしくて、けれど自責も同時に傷んでしまう。そんな想いのままに今も記憶を見、英二は微笑んだ。
「その翌日、ご遺族から亡くなった方の伝言を伺ったんです、」
「伝言?」
短い問いに、浅黒い顔は怪訝の眉顰めさす。
きちんと聴いてくれている、そんな貌へと英二は頷いた。
「私を見つけることは辛い思いをさせるけれど、見つけてもらえなくては夫の隣に葬ってもらえない。迷惑は本当に申し訳ありません。
けれど見つけて頂いて心からの感謝を申し上げます。そう遺書に書いてあったそうです、ご主人を病気で亡くされた40代の方でした。
伝言を聴いて線香あげに行きました、そのとき俺、ご遺体のお顔を綺麗だって思ったんです。そして遺体の意味に気がつかせて貰いました、」
書き遺された彼女の想いは、発見者への感謝が優しかった。
そんな姿に尊厳を自分は見つめた、この想い素直に英二は言葉へ紡いだ。
「ご遺体は物じゃない、人の心が残せる最後の言葉だと気づきました。命が消えても心の跡は残って、そこに尊厳が見えるんです、」
人の尊厳、それは心と祈りだと自分は想う。
この尊厳を見つめて人間を知り、自分を知りたいと自分は願う。
それが「目的」とは関係なく警察医助手を務める意志、それを英二は口にした。
「俺は現場に立って10ヶ月です、その間に幾人ものご遺体と会いました。どの方も何かを教えてくれます、それに向きあいたいんです。
だから吉村先生のお手伝いをさせて頂いてます、その合間に先生から救急法や法医学のことを教えてもらうのも、俺には大切なんですよ、」
もしも「目的」が無かったとしても自分は、吉村医師との時間が大切だ。
この10ヶ月間で吉村と向合った生と死、遺体たちの言葉、そして「雅樹」が自分を変えてくれた。
その全てが愛しいとすら想っている、だから「いつか」が訪れて全て終わっても吉村医師の手伝いは続けたい。
そう未来へ想い綺麗に笑った英二に、浅黒い顔は穏やかに微笑んだ。
「遭難者の奥さん、包帯を喜んでたよ、」
まだ顔色は蒼い、けれど精悍な目の底は明るんでいる。
きっと原は何かを突き抜けた、そんな様子が嬉しくて英二は笑った。
「そうですか、ありがとうございます、」
「ああ、」
相変わらず素っ気ない口調、けれど夜空の下どこか明るい。
もう原は大丈夫だろう、この判断に英二は翌朝の提案をした。
「明日は4時半出発でお願いします、大丹波から棒ノ嶺と高水三山を行きましょう、」
「キツクないか?」
ぼそっとした原の言葉に、英二は軽く首傾げ微笑んだ。
何がキツイのだろう?そう目で訊いた先で浅黒い顔は口を開いた。
「そのコース3時間くらいかかるよな、俺は明日週休だけどさ、あんた出勤だろ?署に戻る時間がなくなる、」
「大丈夫です、そのまま俺は御岳駐在に出勤しますから。なので原さん、申し訳ないですけど電車で署に戻って頂けますか?」
原が言う通り、明日は出勤の自分は青梅署へ戻る暇はない。
けれどこのスケジュールなら充分いけるだろう、そう笑った英二に原は呆れたよう訊いてくれた。
「俺は良いけど、あんたがキツクないかってこと、」
もしかして自分のことを気遣ってくれてる?
そう気がついて驚かされる、そんな予想外に見た先で原は気まずげに言ってくれた。
「本当はあんた、今日が週休だったんだろ?なのに今日も出勤してる、遠征訓練の後ずっと休んでいないって岩崎さんが言ってた。
引継ぎのために休んでないんだろ、それであんたが体壊したら俺は責任、やっぱり感じるだろ?そういうの嫌だから気をつけろってこと、」
決して優しいトーンでは無い言葉、けれど気遣いは温かい。
寡黙で仏頂面のプライド高い男、それが原の素顔で自然体なのだろう。
こういう不器用な男っぽさは今どき珍しい、同じ男として良いなと素直に想える。
この1ヶ月で色々と話してみたい、そう考えながら英二は綺麗に笑った。
「1ヶ月しかありません、毎日登っても30コースしか引継げないです。休んだら勿体無い、俺は大丈夫です。頑丈に出来てるんで、」
「ふん、器用なだけじゃないんだ、」
また可愛くない言い回しをする、それも原にとったら悪気は無いだろう。
けれど、これでは原は損することも多いだろうな?そう推察に笑って英二は、幾分か気軽に応えた。
「原さんは山のこと器用ですけど、恋愛は不器用でしょう?」
言われて振り返った原の、精悍な目が大きくなっている。
たぶん原にとって不意打ちだった、そんな雰囲気が可笑しくて笑った英二に浅黒い顔も笑ってくれた。
「あんたは器用だろうな、青梅署でバレンタインの記録とか作ったんだろ?」
「藤岡、そんなことまで話したんですか?」
たぶん今朝の食堂で、自分が席を立った後にでも言ったのだろうな?
そう推定しながらビールの缶に口付ける、けれど原は呆れ半分に教えてくれた。
「警視庁山岳会で有名だぞ、天才イケメンの完璧男ってさ、」
なに、その評判?
そう思った途端に発泡性の一滴が、英二の喉を直撃した。
そのまま大きく気管支が迫り上げて、盛大に金色の泡が屋上にぶちまけられた。
「ごふっ、ごほんっ!原さっ、すみませごほほっ、」
またやってしまった、どうしよう?
困りながら噎せていく、その横で精悍な目が愛嬌に変って大笑いした。
「ふはっ、あははっ!あんた噂と違うな?ははっ、」
「は?ごほっほんっ、なに、ぐほっ」
なにが違うんですか?
そう聴き返したくて、噎せながらも隣の笑い顔を見る。
そんな英二に原は可笑しそうに言ってくれた。
「噂だけじゃ解らんってこと、ははっ、」
それは、どちらの意味だろう?
自分への噂が予想外に展開されている、それは解かった。
けれど、原にとって実態と噂の差は功罪どちらの意味だろう?
それを確かめたくて気管支をなんとか治め、英二は訊いてみた。
「実物と話して、がっかりしました?」
「いや、」
いつもの短い応えに原は、口許を上げてシニカルに笑う。
そのまま缶ビールに口付けて一息に干すと、精悍な目は英二に微笑んだ。
「完璧な奴より、あがいてる男の方が話しが出来る、」
放りだすようなトーン、けれど親近感が昨日より温かい。
その言われた言葉も男として嬉しい、こういう評価を言える原こそ「話が出来る」男だろう。
寡黙なプライドの男は努力も強い、そんな男と一緒に仕事をするチャンスは自分をまた1つ大きな男に変えていく。
こういう出会いが男として愉しい、そう思うまま英二は同僚に笑った。
「あがくのは得意です、諦めの悪い性格なんで、」
「ふん?」
ちょっと浅黒い顔は笑って、武骨な掌が缶を片手に潰した。
日焼けした手は山への努力があざやかでいる、そんな手に英二はまた疑問を見た。
どうして原は、遠征訓練のチャンスを放棄したのだろう?
(to be continued)
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