And let the misty mountain-winds be free
第69話 山塊act.3-side story「陽はまた昇る」
Our cheerful faith, that all which we behold
Is full of blessings. Therefore let the moon
Shine on thee in thy solitary walk;
And let the misty mountain-winds be free
僕らの信じるところ、僕らの目に映る全ては
大いなる祝福に充ちている。だからこそ月よ
独り歩く貴方の頭上を明るく輝いてくれ、
そして霧深い山風も自由に駈けてくれ
幼い頃の記憶の一節が今、登りゆく道を籠めて白く染めあげる。
降り続く雨は梢ゆらして雫きらめかす、その水たちは幹を辿り根へと吸われゆく。
制帽の鍔ごしの頭上は繁れる葉の向こう、空の薄墨色すこし見せて樹々は枝を豊かに交し合う。
こうした豊穣の森で雨は梢に受けとめられて直接地面に降ることは無い、それでも雨は霧となってウェアを染み透す。
And let the misty mountain-winds be free
そして霧深い山風も自由に駈けてくれ
懐かしい異国の詞が山霧となって傍らをすりぬけ、天へ昇って雲になる。
一歩ごと標高を上げる山肌は水の粒子を燻らせゆく、その冷気が頬そっと撫でながら空に融ける。
この詩を初めて聴いたとき自分は山霧の体感温度は知らなくて、けれど今は肌五感から詞を理解出来る。
この詩を生んだ異国から還って来た一人の女性、彼女が詠み聴かせてくれたアルトヴォイスは記憶から謳う。
―…Let the moon Shine on thee in thy solitary walk、英二さん、曇っている時も空に月は輝くのですよ?
懐かしい記憶の声と笑顔は祖父母の家の庭に佇む、けれど世田谷にあった家はもう人手に渡った。
今は葉山の海で祖母と彼女は二人、空中庭園のようなマンションで犬と猫と幸せに暮らしている。
あの場所は自分にとっても楽園で、だからこそ尚更に老婦人たちの幸せを壊したくない、けれど。
「英二、この証言ってさ、オマエの祖母さんにチェックしてもらうって出来る?」
テノールの声が雨と足音を透かして問いかける。
その提案は正論だろう、けれど自分なりの考えに英二は微笑んだ。
「そのつもりだよ、今度の休みに葉山まで行けたら良いなって考えてた、」
「独りで?」
さらり訊いてくれた言葉が、ふっと鼓動を貫き刺す。
言われた言葉に七月の海は呼ばれてしまう、この今も考えていた楽園の幸福が喉を絞める。
祖母と菫の空中庭園、木洩陽のカウチソファで抱きしめた温もりと笑顔、そして落陽きらめく黄金の海。
『英二、来年の夏は北岳に連れて行って?…北岳草を俺も見てみたいんだ、お願い、約束して?』
七月の海で笑ってくれた約束は、今も、あのひとは憶えてくれている?
そんな問いを俤に微笑んで英二はアンザイレンパートナーに笑いかけた。
「周太と行きたいけど連絡出来ないから無理だろ、一方的な約束はしたけんだけどさ、」
9月30日のこと、忘れていたわけじゃないよ?
そう七月の海で周太は微笑んでくれた、だから約束したかった。
けれど携帯電話すら繋がらない今は何の約束が出来るだろう?
そんな想い溜息こぼれた頬を、霧からの指に小突かれた。
「ほら、いちいち凹むんじゃないよ?サッキ黒木にも言われたばっかなのに、ねえ?」
ねえ?
そんな語尾変化に振り向いた隣、霧のなか底抜けに明るい目が笑ってくれる。
いつもの快活は真直ぐ英二を見つめて、率直に言ってくれた。
「悩む前に考えとくべき事があるね、祖父さんの拳銃のコトを周太に訊かれたら、ナンテ答える?」
“Mon pistolet” 私の拳銃
晉の遺作へ明確に記されるフランス語、あの意味を周太が気づかない筈はない。
それを周太はいつ確かめようとするのか?そのことへの回答に英二は口を開いた。
「周太があの場所を掘るかもしれないって事か、一週間の休暇の時に、」
晉の拳銃がどこに埋められているのか?
それを周太が気づくことは時間の問題だろう、そして確認する。
そのチャンスはSAT入隊前の特別休暇期間だろう、この想定に透明な瞳は微笑んだ。
「だね、模範解答は必須だろ?」
短い答えに微笑んで光一は空を見上げた。
雨降る森に風は無い、その分だけ大気の移動はゆっくり起きてゆく。
こんな天候では起こりやすい気象状況ぐるり見まわして、山っ子は楽しげに笑った。
「今夜は霧だね、コレなら一般ハイカーも少ないし密談日和ってトコだね、」
「ああ、」
並んで歩きながら頷いた隣、あわい紗が遮って流れてゆく。
また霧が濃くなった、そんな気配に英二は上官へ具申した。
「この霧だと無闇な行動は危険です、多分この山塊は全てが雲に入ってると思います。ビバークを指示しますか?」
「14時になったら指示だそっかね、で、オマエまた公式モードになっちゃうワケ?」
可笑しそうに透明な瞳が笑ってくれる。
いつもながら明るい眼差しに英二も笑って率直に答えた。
「任務に関わることを話す時は敬語に慣れた方が、咄嗟の失敗はしませんから、」
今は第七機動隊山岳レンジャーに所属して、光一は第2小隊長の立場と責務がある。
その補佐役として自分は配属されて、けれど任官2年目の年数に公式的には未だ平隊員に過ぎない。
だから上官と部下の立場を明確にすべきところはした方が都合良い、そんな考えに光一は笑ってくれた。
「なるほどね、オマエが堅物くんだってコト思い出したよ?ナンカここんとこ忘れてたね、」
ここんとこ忘れていた、そんなふう言われて自覚に笑ってしまう。
自戒と自嘲を見つめながら英二は素直にパートナーへ微笑んだ。
「アイガーが終わってから俺、ちょっと変になってるって自分で思うよ?あの夜に囚われ過ぎてる、ごめん、」
アイガー北壁を制覇した夜、光一を抱いてから自分はバランスを崩している。
その理由を考えながら無線を出した隣、光一が笑ってくれた。
「オマエさ、ホントその件で俺のことは気にしないでよね?ただ周太は英二に対して苦しんでるけどさ、」
「やっぱりそうだよな、」
溜息こぼれた肩を、ゆるやかに霧が流れて登山道を駆けてゆく。
谷から這い上る靄は白く樹林帯を染めあげて視界がもう隔てられだす。
「…なんか、今の俺みたいだな、」
ぽつん、独りごと零れて霧に想いは融けてゆく。
あわい水の紗幕はふれても何も触れない、ただ通り抜けて遠くどこかへ消えてゆく。
触れそうで触れず、けれど視界は遮られてある筈のものすら見失う、そして望みは掴めない。
そんなふうに自分は七月の終わり、アイガー北壁の夜から今日まで多くを見過ごしてしまった。
『美代さんはね、俺に自信と夢をくれた人なんだよ?自分と同じって言ってくれたから自信持てたの、』
一週間前の夜に周太が言ったことは周太の本音だろう。
いつも美代は周太と共に考えて行動できる、それは本心から互いに楽しみ支え合う。
だから気づかされる、自分は周太から多くを受けとってきたけれど贈ることは出来ている?
―本当は俺、周太から色んなものを奪ってるのかもしれない、晉さんや馨さんのことも、
『 La chronique de la maison 』
晉が遺した50年前の記録は罪と罰の連鎖反応、その真相を晉が伝えたい相手は誰なのか?
馨が遺した日記帳も真相の記録は綴られてある、それを馨は何のために書き残したのか?
―周太を護るために二人とも書き残した、だけど俺は隠して、それでも周太は…
馨の日記帳は世界に一組しかない、だから隠し持っている自分以外が読むことは出来ない。
けれど晉の小説は部数が少なくとも複数存在して、その一冊、馨が贈られた一冊は周太の許に戻った。
こんな廻りに想ってしまう、自分が周太を援けようとしていることは本当に望まれた為すべきことなのだろうか?
自分は周太にとって、本当に必要な存在だろうか?
―俺が居なくても周太は真相と向き合える力がある、なにより美代さんとのことも、
もし自分に出逢わなければ、周太はもっと早く真相を超えたかもしれない。
もし自分が恋愛の告白をしなければ、周太は美代と結婚して家庭を持つ幸福を掴めた。
そんなふう廻ってしまう仮定に疑問は起きて信じた全ては霞んで、遠く見えなくなってしまう。
今日まで信じて懸けてきた全ては本当に正しいのだろうか?そんな想いに懐かしい声は優しく微笑む。
―…Let the moon Shine on thee in thy solitary walk、英二さん、曇っている時も空に月は輝くのですよ?
「光一、今も月って空にあるのかな、」
ざくりざくり、湿った道を踏みしめながら問いかけた隣も共に登ってゆく。
その一歩を止めてアンザイレンパートナーはからり笑ってくれた。
「今日の月は南中10時半で入りが17時前だからね、ちょうどアノ辺に出てんじゃない?ほら、」
ほら、
そう呼びかけて登山グローブが指さす向こう、霧ゆるやかに流れゆく。
その狭間に交わす梢の彼方、あわく白い影が瞬間を顕れてまたそっと雲隠れた。
「ね、ちゃんと出てるだろ?太陽もアノ辺にあんの見えるね、」
底抜けに明るい目が笑って教えてくれる。
その笑顔に肩の力ほっと抜かれて英二は背を正した。
「ああ、太陽の影も見えるな、雨も止みそうだし14時ですね、」
敬語に変えて行きながら無線のスイッチを入れ、第2小隊全てに繋ぐ。
時折かすかな雑音は未だ雨の激しいポイントなのだろう、その場所にも無事を想い英二は指示を出した。
「宮田です、国村小隊長よりビバーク指示が出ました、雲が晴れるのは深夜過ぎと思われます、各自ポイントが決まり次第、報告願います、」
声かけた向こう、了解の声が応えて無線の切れる音が続いてゆく。
その最後一本から低く落着いた声が応答した。
「黒木です、今、獅子口小屋跡です。このままビバークに入ります、」
「獅子口小屋跡ですね、大雨による緩みに気を付けてください、」
あのポイントなら水場がある、その代り雨で滑りやすくなる。
そんなデータから答えた向こう他の無線が途絶えてすぐ、低い声が言ってくれた。
「さっきよりマシな声だが、大丈夫か?」
いつもの少し素っ気ないトーン、けれど山ヤとしての配慮は率直に温かい。
こういう話し方は短期間でもパートナーだった男と似ていて、懐かしいまま素直に英二は笑った。
「大丈夫です、黒木さんに言われて一発気合い入れましたから、」
「気合い?」
問い返して一瞬、すこしの間が考えこむ。
そのまま可笑しそうな空気が生まれて黒木は笑ってくれた。
「意外と骨っぽいな、期待させてくれよ?」
意外と、そう言われることは珍しくない。
それは自分の貌の所為だと解っている、それが昔から嫌いだった。
けれど今は何だか誇らしくて、楽しいまま素直に英二は笑いかけた。
「ありがとうございます、」
「ははっ、変な礼だな、じゃ、」
少し笑った黒木の声を残して、無線は切れた。
深い霧のなかスイッチを切り元に仕舞う隣、底抜けに明るい目が愉しげに笑ってくれる。
なんだか元気になった?そんなふう問いかけてくれる視線に微笑んで英二は報告を口にした。
「いま黒木さんと岡田さんのチームが獅子口小屋跡でビバークに入りました、他は随時連絡が来ます、」
「了解、俺たちもポイントに行こっかね、」
軽やかに笑って光一は霧の中ゆっくり歩きだした。
その隣について踏んだ山土は軟らかに水含みだす、その足元に注意しながら見上げた梢の先、霧から太陽と月は白い。
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」】
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第69話 山塊act.3-side story「陽はまた昇る」
Our cheerful faith, that all which we behold
Is full of blessings. Therefore let the moon
Shine on thee in thy solitary walk;
And let the misty mountain-winds be free
僕らの信じるところ、僕らの目に映る全ては
大いなる祝福に充ちている。だからこそ月よ
独り歩く貴方の頭上を明るく輝いてくれ、
そして霧深い山風も自由に駈けてくれ
幼い頃の記憶の一節が今、登りゆく道を籠めて白く染めあげる。
降り続く雨は梢ゆらして雫きらめかす、その水たちは幹を辿り根へと吸われゆく。
制帽の鍔ごしの頭上は繁れる葉の向こう、空の薄墨色すこし見せて樹々は枝を豊かに交し合う。
こうした豊穣の森で雨は梢に受けとめられて直接地面に降ることは無い、それでも雨は霧となってウェアを染み透す。
And let the misty mountain-winds be free
そして霧深い山風も自由に駈けてくれ
懐かしい異国の詞が山霧となって傍らをすりぬけ、天へ昇って雲になる。
一歩ごと標高を上げる山肌は水の粒子を燻らせゆく、その冷気が頬そっと撫でながら空に融ける。
この詩を初めて聴いたとき自分は山霧の体感温度は知らなくて、けれど今は肌五感から詞を理解出来る。
この詩を生んだ異国から還って来た一人の女性、彼女が詠み聴かせてくれたアルトヴォイスは記憶から謳う。
―…Let the moon Shine on thee in thy solitary walk、英二さん、曇っている時も空に月は輝くのですよ?
懐かしい記憶の声と笑顔は祖父母の家の庭に佇む、けれど世田谷にあった家はもう人手に渡った。
今は葉山の海で祖母と彼女は二人、空中庭園のようなマンションで犬と猫と幸せに暮らしている。
あの場所は自分にとっても楽園で、だからこそ尚更に老婦人たちの幸せを壊したくない、けれど。
「英二、この証言ってさ、オマエの祖母さんにチェックしてもらうって出来る?」
テノールの声が雨と足音を透かして問いかける。
その提案は正論だろう、けれど自分なりの考えに英二は微笑んだ。
「そのつもりだよ、今度の休みに葉山まで行けたら良いなって考えてた、」
「独りで?」
さらり訊いてくれた言葉が、ふっと鼓動を貫き刺す。
言われた言葉に七月の海は呼ばれてしまう、この今も考えていた楽園の幸福が喉を絞める。
祖母と菫の空中庭園、木洩陽のカウチソファで抱きしめた温もりと笑顔、そして落陽きらめく黄金の海。
『英二、来年の夏は北岳に連れて行って?…北岳草を俺も見てみたいんだ、お願い、約束して?』
七月の海で笑ってくれた約束は、今も、あのひとは憶えてくれている?
そんな問いを俤に微笑んで英二はアンザイレンパートナーに笑いかけた。
「周太と行きたいけど連絡出来ないから無理だろ、一方的な約束はしたけんだけどさ、」
9月30日のこと、忘れていたわけじゃないよ?
そう七月の海で周太は微笑んでくれた、だから約束したかった。
けれど携帯電話すら繋がらない今は何の約束が出来るだろう?
そんな想い溜息こぼれた頬を、霧からの指に小突かれた。
「ほら、いちいち凹むんじゃないよ?サッキ黒木にも言われたばっかなのに、ねえ?」
ねえ?
そんな語尾変化に振り向いた隣、霧のなか底抜けに明るい目が笑ってくれる。
いつもの快活は真直ぐ英二を見つめて、率直に言ってくれた。
「悩む前に考えとくべき事があるね、祖父さんの拳銃のコトを周太に訊かれたら、ナンテ答える?」
“Mon pistolet” 私の拳銃
晉の遺作へ明確に記されるフランス語、あの意味を周太が気づかない筈はない。
それを周太はいつ確かめようとするのか?そのことへの回答に英二は口を開いた。
「周太があの場所を掘るかもしれないって事か、一週間の休暇の時に、」
晉の拳銃がどこに埋められているのか?
それを周太が気づくことは時間の問題だろう、そして確認する。
そのチャンスはSAT入隊前の特別休暇期間だろう、この想定に透明な瞳は微笑んだ。
「だね、模範解答は必須だろ?」
短い答えに微笑んで光一は空を見上げた。
雨降る森に風は無い、その分だけ大気の移動はゆっくり起きてゆく。
こんな天候では起こりやすい気象状況ぐるり見まわして、山っ子は楽しげに笑った。
「今夜は霧だね、コレなら一般ハイカーも少ないし密談日和ってトコだね、」
「ああ、」
並んで歩きながら頷いた隣、あわい紗が遮って流れてゆく。
また霧が濃くなった、そんな気配に英二は上官へ具申した。
「この霧だと無闇な行動は危険です、多分この山塊は全てが雲に入ってると思います。ビバークを指示しますか?」
「14時になったら指示だそっかね、で、オマエまた公式モードになっちゃうワケ?」
可笑しそうに透明な瞳が笑ってくれる。
いつもながら明るい眼差しに英二も笑って率直に答えた。
「任務に関わることを話す時は敬語に慣れた方が、咄嗟の失敗はしませんから、」
今は第七機動隊山岳レンジャーに所属して、光一は第2小隊長の立場と責務がある。
その補佐役として自分は配属されて、けれど任官2年目の年数に公式的には未だ平隊員に過ぎない。
だから上官と部下の立場を明確にすべきところはした方が都合良い、そんな考えに光一は笑ってくれた。
「なるほどね、オマエが堅物くんだってコト思い出したよ?ナンカここんとこ忘れてたね、」
ここんとこ忘れていた、そんなふう言われて自覚に笑ってしまう。
自戒と自嘲を見つめながら英二は素直にパートナーへ微笑んだ。
「アイガーが終わってから俺、ちょっと変になってるって自分で思うよ?あの夜に囚われ過ぎてる、ごめん、」
アイガー北壁を制覇した夜、光一を抱いてから自分はバランスを崩している。
その理由を考えながら無線を出した隣、光一が笑ってくれた。
「オマエさ、ホントその件で俺のことは気にしないでよね?ただ周太は英二に対して苦しんでるけどさ、」
「やっぱりそうだよな、」
溜息こぼれた肩を、ゆるやかに霧が流れて登山道を駆けてゆく。
谷から這い上る靄は白く樹林帯を染めあげて視界がもう隔てられだす。
「…なんか、今の俺みたいだな、」
ぽつん、独りごと零れて霧に想いは融けてゆく。
あわい水の紗幕はふれても何も触れない、ただ通り抜けて遠くどこかへ消えてゆく。
触れそうで触れず、けれど視界は遮られてある筈のものすら見失う、そして望みは掴めない。
そんなふうに自分は七月の終わり、アイガー北壁の夜から今日まで多くを見過ごしてしまった。
『美代さんはね、俺に自信と夢をくれた人なんだよ?自分と同じって言ってくれたから自信持てたの、』
一週間前の夜に周太が言ったことは周太の本音だろう。
いつも美代は周太と共に考えて行動できる、それは本心から互いに楽しみ支え合う。
だから気づかされる、自分は周太から多くを受けとってきたけれど贈ることは出来ている?
―本当は俺、周太から色んなものを奪ってるのかもしれない、晉さんや馨さんのことも、
『 La chronique de la maison 』
晉が遺した50年前の記録は罪と罰の連鎖反応、その真相を晉が伝えたい相手は誰なのか?
馨が遺した日記帳も真相の記録は綴られてある、それを馨は何のために書き残したのか?
―周太を護るために二人とも書き残した、だけど俺は隠して、それでも周太は…
馨の日記帳は世界に一組しかない、だから隠し持っている自分以外が読むことは出来ない。
けれど晉の小説は部数が少なくとも複数存在して、その一冊、馨が贈られた一冊は周太の許に戻った。
こんな廻りに想ってしまう、自分が周太を援けようとしていることは本当に望まれた為すべきことなのだろうか?
自分は周太にとって、本当に必要な存在だろうか?
―俺が居なくても周太は真相と向き合える力がある、なにより美代さんとのことも、
もし自分に出逢わなければ、周太はもっと早く真相を超えたかもしれない。
もし自分が恋愛の告白をしなければ、周太は美代と結婚して家庭を持つ幸福を掴めた。
そんなふう廻ってしまう仮定に疑問は起きて信じた全ては霞んで、遠く見えなくなってしまう。
今日まで信じて懸けてきた全ては本当に正しいのだろうか?そんな想いに懐かしい声は優しく微笑む。
―…Let the moon Shine on thee in thy solitary walk、英二さん、曇っている時も空に月は輝くのですよ?
「光一、今も月って空にあるのかな、」
ざくりざくり、湿った道を踏みしめながら問いかけた隣も共に登ってゆく。
その一歩を止めてアンザイレンパートナーはからり笑ってくれた。
「今日の月は南中10時半で入りが17時前だからね、ちょうどアノ辺に出てんじゃない?ほら、」
ほら、
そう呼びかけて登山グローブが指さす向こう、霧ゆるやかに流れゆく。
その狭間に交わす梢の彼方、あわく白い影が瞬間を顕れてまたそっと雲隠れた。
「ね、ちゃんと出てるだろ?太陽もアノ辺にあんの見えるね、」
底抜けに明るい目が笑って教えてくれる。
その笑顔に肩の力ほっと抜かれて英二は背を正した。
「ああ、太陽の影も見えるな、雨も止みそうだし14時ですね、」
敬語に変えて行きながら無線のスイッチを入れ、第2小隊全てに繋ぐ。
時折かすかな雑音は未だ雨の激しいポイントなのだろう、その場所にも無事を想い英二は指示を出した。
「宮田です、国村小隊長よりビバーク指示が出ました、雲が晴れるのは深夜過ぎと思われます、各自ポイントが決まり次第、報告願います、」
声かけた向こう、了解の声が応えて無線の切れる音が続いてゆく。
その最後一本から低く落着いた声が応答した。
「黒木です、今、獅子口小屋跡です。このままビバークに入ります、」
「獅子口小屋跡ですね、大雨による緩みに気を付けてください、」
あのポイントなら水場がある、その代り雨で滑りやすくなる。
そんなデータから答えた向こう他の無線が途絶えてすぐ、低い声が言ってくれた。
「さっきよりマシな声だが、大丈夫か?」
いつもの少し素っ気ないトーン、けれど山ヤとしての配慮は率直に温かい。
こういう話し方は短期間でもパートナーだった男と似ていて、懐かしいまま素直に英二は笑った。
「大丈夫です、黒木さんに言われて一発気合い入れましたから、」
「気合い?」
問い返して一瞬、すこしの間が考えこむ。
そのまま可笑しそうな空気が生まれて黒木は笑ってくれた。
「意外と骨っぽいな、期待させてくれよ?」
意外と、そう言われることは珍しくない。
それは自分の貌の所為だと解っている、それが昔から嫌いだった。
けれど今は何だか誇らしくて、楽しいまま素直に英二は笑いかけた。
「ありがとうございます、」
「ははっ、変な礼だな、じゃ、」
少し笑った黒木の声を残して、無線は切れた。
深い霧のなかスイッチを切り元に仕舞う隣、底抜けに明るい目が愉しげに笑ってくれる。
なんだか元気になった?そんなふう問いかけてくれる視線に微笑んで英二は報告を口にした。
「いま黒木さんと岡田さんのチームが獅子口小屋跡でビバークに入りました、他は随時連絡が来ます、」
「了解、俺たちもポイントに行こっかね、」
軽やかに笑って光一は霧の中ゆっくり歩きだした。
その隣について踏んだ山土は軟らかに水含みだす、その足元に注意しながら見上げた梢の先、霧から太陽と月は白い。
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