契約、
第86話 花残 act.4 side story「陽はまた昇る」
君に頼みがあるから。
この男がそう告げるなら、どんな意図だろう?
この官僚が自分に「頼む」推論と英二は微笑んだ。
「地域部長が私に頼まれるとは、救命救急の専門学校と昇進の研修が重なるための休日返上ですか?」
この程度を「頼む」など地域部長が直々に言わないだろう?
だからこそ問いかけた執務室、かすかな香に冷静な眼ざし笑った。
「そうだな、宮田君は4月から専門学校も始まるな?昇進はかえって迷惑だろうか、」
穏やかで、そのくせ冷静な口調が返してくれる。
―こういう男だから昇進できるんだな、ノンキャリアでも?
国家公務員一種、その合格者が官僚になる。
そんな普通のレールにいない男へ微笑んだ。
「いいえ、素直に感謝します、」
「そうか、」
微笑んで、冷静な眼ざし穏やかに頷く。
何も動揺していない、そんな声が訊いた。
「宮田君は技能検定、逮捕術は中級で拳銃は上級だったかな?」
技能検定の取得を山岳救助隊員に訊く、それなら救急法が普通だろう?
その問われた項目に意図たどりながら肯いた。
「はい、」
「そうか、…」
半白の髪おだやかに頷いて冷静な瞳が自分を見る。
静かで鋭い視線ただ見返した先、上司は唇ひらいた。
「断ってくれてもかまわない、これは公私混同とも職権乱用とも言える頼みだ、」
意外だ、この男からこんな単語?
“公私混同とも職権乱用とも”
どちらの言葉も縁遠い、それくらい冷静で着実な勤務姿勢。
そういう男だから今の地位に昇れたと知っている。
それでも「頼む」なら何を?その答え微笑んだ。
「官房審議官の公私混同と、地域部長の職権乱用ということですか?」
自分の前にあった来訪者、総務省官房審議官に就く男の来意。
それが警察官僚の男にこんな発言させるなら?
『輪倉さんが礼に来たよ、宮田君のことを訊いていった、』
『宮田君、2階級特進おめでとう、』
『警察への世論は決して良くはない、イケメンの英雄を退職させたらコトだろう?』
この男がさっき告げたこと、その発言たちに「頼み」が見える。
だから自分は「特進」するのだろう?推論に冷静な瞳が微笑んだ。
「もう答え解っているようだな、輪倉さんが来た理由も、」
「どうでしょう?拳銃と逮捕術の級を確かめた理由がわからないですから、」
応え微笑み返した呼吸、かすかに渋く甘い。
この匂いどこか知っている?あわい感覚に訊かれた。
「七機の山岳レンジャーで射撃上級なのは、宮田君か浦部君だけだな?」
「はい、国村さんが退職したので、」
答えた先、冷静な瞳が自分を見る。
今の言葉すこし気にさせたろうか?けれど官僚は続けた。
「輪倉さんが事件の事情を話したのが浦部君なら彼も呼んだかもしれない、それでも宮田君を呼んだよ?」
穏やかなくせ静かに響く声、空気かすかに渋く甘い。
独特の芳香どこか知っているようで、意識かかるまま言われた。
「冤罪を着せられた男と、そのために罪を犯した男をエベレストに登らせたいと思うのは夢だろうか?」
長野の雪山、山小屋に起きた籠城事件。
被疑者は登山ガイド、ターゲットはその登山客だった官僚、動機は強盗殺人事件被告人の冤罪解明と釈放。
被疑者と人質と被告人、けれど関係はそれだけじゃない。
『渡部君とは高校時代からの友人なんだ、同じ山岳部で飯盒ひとつ食った仲だ、』
『余命は長くて1年だ、約束は今この時を逃せば叶わない。だから渡部は今回の事件を起こしました、』
人質だった官僚の告白は籠城事件の全容を語る。
けれど「全容」本人も気づいていないだろう?そこにある時間制限から答えた。
「渡部さんは癌で余命1年だそうですね、時間がありません。」
エベレスト登頂、それは時間と体力が要求される。
だから彼は焦って事件を起こした、ザイルパートナーと登るために。
『渡部は冤罪だと信じて、いつか共に登ろうと彼の釈放を待とうとしていた。でも癌が見つかってな、』
輪倉が話してくれたこと、あれは事実だろう。
そうして定められた命の期限を「利用」されて事件は惹き起こされた。
こんなふうに何人いくつ命は利用されたのだろう?見つめる時間に静かな声が言った。
「強盗殺人の被告人は証拠不十分で釈放が決まった、でも籠城事件に執行猶予が認められるかは解らない、」
釈放と執行猶予。
そうしてまた命の時間すれ違う?
―冤罪が動機だとしても籠城事件は事実だ、起訴は免れない、執行猶予も瀬戸際で当然だけど、
もう起きてしまった事件は消せない、それでも利用はできる。
この目の前の男にも「世論の評価」は利益だ?そんな相互利潤に微笑んだ。
「冤罪が原因で起きた籠城事件です、警察のミスを謝罪して検察の責任も追及したらいかがですか?警察に対する世論の評価が上がりますよ、」
世論の評価、それが自分を退職させず昇進させる。
そういう自分に言われたら痛い皮肉だろう?
けれど静かな眼で上司は言った。
「堀内さんを宮田君が動かすことはできるか?」
これが「公私混同」と「職権乱用」だな?
相手の意図と依頼につい可笑しくて微笑んだ。
「それが私を呼んだ本当の理由ですか?」
まだ3年目の警察官を呼びだす、その意図に笑いたくなる。
この男もこんな依頼するんだな?ものめずらしさに篤実な声が言った。
「気を悪くしたならすまない、でも宮田君自身が予想していたろう?」
「どうでしょうか?」
ただ微笑んで本音ごと笑い呑みくだす。
こんな展開くらい解っている、だから選んだ名で呼ばれた。
「鷲田君が警視庁を受験したとき、宮田次長検事のお孫さんだと話題になったよ。司法試験を首席合格している君が何故だろうとね?」
呼び名が変わる、事実を語られる。
以前は「鷲田」を知らなかったろう、けれど今は知った眼に微笑んだ。
「そういう私だから、湯原君の同期に選んだのですか?」
警察学校の同期、そこに君がいた理由。
ただの偶然ならそれでいい、けれど違う現実が口ひらいた。
「友人になってくれたらと思ったのは事実だ、あんな孤独は哀しすぎる、」
冷静な声、でも温もり燈す。
―この人なりに苦しんでいるんだな、馨さんのこと、
湯原馨と同期だった、それもこの官僚の事実。
そこにある感情の行方ながめながら本題に戻した。
「渡部さんの病状について、主治医からカルテの提出はさせていますか?」
それくらい手配済みだろう?
予想に問いかけた先、警察官僚は頷いた。
「もちろんだ、医務官にも診てもらっている、」
「そのカルテと冤罪とで、情状酌量を検察に訴えたらいかがですか?警察の謝罪が前提ですが、」
まず警察が誤りを自認する、そうしなくては検察に要請できない。
それ以上に難しい条件を口にした。
「ただそれ以前に、執行猶予になってもエベレストは難しいのではありませんか?逃亡するなら絶好の場所です、なにより国外へ出せますか?」
犯した罪は事実、そこに情状酌量があっても国外への移動は難しい。
それも八千峰の世界にクライマーを放つなら?その危険性に官僚もため息ついた。
「そうだな…警察官が付添ったとしても無理か、」
無理、それは蒔田も承知していただろう。
それでも訊かざるを得ない後悔があるのだろうか?
―馨さんのこと重ねるのか、単なる山ヤの連帯感か、
想いたどる窓の外、空が青い。
もう春が近くなる、そんな時節に言葉を続けた。
「エベレストは、世界の最高峰は難しいですが、最高峰の登頂なら可能ではありませんか?」
余命一年、その願い叶えてあげたいとも思う。
けれど限られた条件に警察官僚が顔上げた。
「富士か、」
「はい、冬富士は入山も規制されますから、」
今3月末、まだ間に合う。
あの世界に立つこと、その憧憬に山ヤが微笑んだ。
「たしかに積雪期の富士なら可能だな、宮田君が監視役とガイドを兼ねてくれるか?」
「はい、ただ警察がそこまで介入することを世論がどう見るか、問題ありませんか?」
警察官が被告人に寄りそう、それを許されるだろうか?
けれど勝算なにもないわけでもない、その解答に上司が言った。
「ニュースで見ても一般市民は被疑者の顔など忘れるものだ、野次馬も冬富士までは追えないしな。上には冤罪の償いだと話を通すよ、」
できる限りを尽くしたい。
そんな意志が自分を見つめてくる。
こういう男だから後藤も信頼するのだろう?そんな納得に尋ねた。
「私からも提案をいいですか?」
「聴かせてくれ、」
向きあおう、そう静かな眼が告げてくる。
冷静で穏やか、その底ふかい篤実へ微笑んだ。
「冤罪の被害者がエベレストを目指すとき、サポートを私に命じることはできますか?」
いつか彼は目指すだろう、約束のために。
『約束は今この時を逃せば叶わない。だから渡部は今回の事件を起こしました、』
山の約束が山ヤにどれだけ大切か、今はよく解る。
もし自分が同じ立場だったなら?見つめる想いに冷静な声が訊いた。
「警察がそこまで一市民をサポートすることを、不公平だと世論は非難するんじゃないか?」
「無実の罪をかぶせられたことは、不公平と言わないんですか?」
ほら自分の唇が動く、ためこんだ疑問のかけら零れる。
「冤罪もまた犯罪被害です、違いますか?」
あえて直截な言葉、その先に警察官僚の視線が止まる。
こんな機会を待っていたのかもしれない、めぐり来た問いを投げかけた。
「日本では刑事事件の被害者を救済することは実質ほぼありません、それが正しいと法の番人としてお考えですか?」
刑事事件の被害者に対して、ドイツでは事件前の生活をほぼ補う保障がなされる。
日本でも犯罪により受けた損害を、被害者は加害者に対して民事上の不法行為として損害賠償を請求しうる。
けれど現実は加害者が無資力なケースが大半で結局のところ賠償金は支払われない、そして被害者は泣き寝入りを強いられる。
「宮田君が検察庁に入らないでいる理由は、それか?」
静かな声が問いかけてくる、その眼ざし深い。
見つめてくれる篤実にただ微笑んだ。
「冤罪は警察のミスです、その償いを体張ってする警官がいても悪くないと思いませんか?」
体を張る、こんな発想を自分がしている。
こんなこと3年前は考えていない、それでも立つ今この場所が言った。
「宮田君の意見としては、冬富士とエベレストはセットということか、」
「はい、」
微笑んで肯いて、視線の真中も瞳が肯く。
元から同じ意見だったろう?そんな眼がほっと息吐いた。
「やぁれ、やれ…あいかわらず君はおっかないなあ?」
半白の頭かるく振って窓の陽に銀色ひかる。
大きな手さらり髪かきあげて、山ヤの警察官は笑った。
「警察の謝罪と検察のプライドの交換か、検察庁のツテも君には無意味なんだな?」
篤実な眼が朗らかに笑ってくる。
これが素顔だろうか、そんな男に微笑んだ。
「無駄な借りは足枷です、違いますか?」
「そうだなあ、」
素直に頷いて銀色の髪かきあげる。
このままネクタイまで緩めそうだな?予想に穏やかな声が言った。
「で、俺の借りはエベレストで返せるのか?」
問いかけながらネクタイ緩めて、篤実な眼ほっと息吐く。
予想どおりについ可笑しくて少し笑った。
「おまかせします、」
「また怖い返事だな、やれやれ、」
ネクタイ緩めた笑顔また息ついて、執務デスクに腰おろす。
官僚としては行儀悪いな?そんな感想に訊かれた。
「償いを体張ってする警官がいても悪くないか、鷲田君は10年後も同じこと言うかい?」
呼び名を変えて問いかける。
その意図まっすぐ見つめて、ただ笑った。
「先のことは警察官なら解りません、とりあえず7時間後は呑んで笑うつもりです、」
先のことなんて解らない。
そんな現場に自分は立っている、それが自分で望んだ今だ。
この1秒後も召集されたら遭難現場に向かう、その先が生か死かなんて誰に解るだろう?
それでも解る未来予想に官僚も笑った。
「あの佐伯か、今日から七機だったな?」
「はい、」
肯いて最近の記憶にアルコールが香る。
酒と星空と雪の記憶ながめた先、山ヤの眼にやり笑った。
「アイツ山岳会でも凄腕だがな、まあ頑張れ?」
※校正中
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英二24歳3月末
第86話 花残 act.4 side story「陽はまた昇る」
君に頼みがあるから。
この男がそう告げるなら、どんな意図だろう?
この官僚が自分に「頼む」推論と英二は微笑んだ。
「地域部長が私に頼まれるとは、救命救急の専門学校と昇進の研修が重なるための休日返上ですか?」
この程度を「頼む」など地域部長が直々に言わないだろう?
だからこそ問いかけた執務室、かすかな香に冷静な眼ざし笑った。
「そうだな、宮田君は4月から専門学校も始まるな?昇進はかえって迷惑だろうか、」
穏やかで、そのくせ冷静な口調が返してくれる。
―こういう男だから昇進できるんだな、ノンキャリアでも?
国家公務員一種、その合格者が官僚になる。
そんな普通のレールにいない男へ微笑んだ。
「いいえ、素直に感謝します、」
「そうか、」
微笑んで、冷静な眼ざし穏やかに頷く。
何も動揺していない、そんな声が訊いた。
「宮田君は技能検定、逮捕術は中級で拳銃は上級だったかな?」
技能検定の取得を山岳救助隊員に訊く、それなら救急法が普通だろう?
その問われた項目に意図たどりながら肯いた。
「はい、」
「そうか、…」
半白の髪おだやかに頷いて冷静な瞳が自分を見る。
静かで鋭い視線ただ見返した先、上司は唇ひらいた。
「断ってくれてもかまわない、これは公私混同とも職権乱用とも言える頼みだ、」
意外だ、この男からこんな単語?
“公私混同とも職権乱用とも”
どちらの言葉も縁遠い、それくらい冷静で着実な勤務姿勢。
そういう男だから今の地位に昇れたと知っている。
それでも「頼む」なら何を?その答え微笑んだ。
「官房審議官の公私混同と、地域部長の職権乱用ということですか?」
自分の前にあった来訪者、総務省官房審議官に就く男の来意。
それが警察官僚の男にこんな発言させるなら?
『輪倉さんが礼に来たよ、宮田君のことを訊いていった、』
『宮田君、2階級特進おめでとう、』
『警察への世論は決して良くはない、イケメンの英雄を退職させたらコトだろう?』
この男がさっき告げたこと、その発言たちに「頼み」が見える。
だから自分は「特進」するのだろう?推論に冷静な瞳が微笑んだ。
「もう答え解っているようだな、輪倉さんが来た理由も、」
「どうでしょう?拳銃と逮捕術の級を確かめた理由がわからないですから、」
応え微笑み返した呼吸、かすかに渋く甘い。
この匂いどこか知っている?あわい感覚に訊かれた。
「七機の山岳レンジャーで射撃上級なのは、宮田君か浦部君だけだな?」
「はい、国村さんが退職したので、」
答えた先、冷静な瞳が自分を見る。
今の言葉すこし気にさせたろうか?けれど官僚は続けた。
「輪倉さんが事件の事情を話したのが浦部君なら彼も呼んだかもしれない、それでも宮田君を呼んだよ?」
穏やかなくせ静かに響く声、空気かすかに渋く甘い。
独特の芳香どこか知っているようで、意識かかるまま言われた。
「冤罪を着せられた男と、そのために罪を犯した男をエベレストに登らせたいと思うのは夢だろうか?」
長野の雪山、山小屋に起きた籠城事件。
被疑者は登山ガイド、ターゲットはその登山客だった官僚、動機は強盗殺人事件被告人の冤罪解明と釈放。
被疑者と人質と被告人、けれど関係はそれだけじゃない。
『渡部君とは高校時代からの友人なんだ、同じ山岳部で飯盒ひとつ食った仲だ、』
『余命は長くて1年だ、約束は今この時を逃せば叶わない。だから渡部は今回の事件を起こしました、』
人質だった官僚の告白は籠城事件の全容を語る。
けれど「全容」本人も気づいていないだろう?そこにある時間制限から答えた。
「渡部さんは癌で余命1年だそうですね、時間がありません。」
エベレスト登頂、それは時間と体力が要求される。
だから彼は焦って事件を起こした、ザイルパートナーと登るために。
『渡部は冤罪だと信じて、いつか共に登ろうと彼の釈放を待とうとしていた。でも癌が見つかってな、』
輪倉が話してくれたこと、あれは事実だろう。
そうして定められた命の期限を「利用」されて事件は惹き起こされた。
こんなふうに何人いくつ命は利用されたのだろう?見つめる時間に静かな声が言った。
「強盗殺人の被告人は証拠不十分で釈放が決まった、でも籠城事件に執行猶予が認められるかは解らない、」
釈放と執行猶予。
そうしてまた命の時間すれ違う?
―冤罪が動機だとしても籠城事件は事実だ、起訴は免れない、執行猶予も瀬戸際で当然だけど、
もう起きてしまった事件は消せない、それでも利用はできる。
この目の前の男にも「世論の評価」は利益だ?そんな相互利潤に微笑んだ。
「冤罪が原因で起きた籠城事件です、警察のミスを謝罪して検察の責任も追及したらいかがですか?警察に対する世論の評価が上がりますよ、」
世論の評価、それが自分を退職させず昇進させる。
そういう自分に言われたら痛い皮肉だろう?
けれど静かな眼で上司は言った。
「堀内さんを宮田君が動かすことはできるか?」
これが「公私混同」と「職権乱用」だな?
相手の意図と依頼につい可笑しくて微笑んだ。
「それが私を呼んだ本当の理由ですか?」
まだ3年目の警察官を呼びだす、その意図に笑いたくなる。
この男もこんな依頼するんだな?ものめずらしさに篤実な声が言った。
「気を悪くしたならすまない、でも宮田君自身が予想していたろう?」
「どうでしょうか?」
ただ微笑んで本音ごと笑い呑みくだす。
こんな展開くらい解っている、だから選んだ名で呼ばれた。
「鷲田君が警視庁を受験したとき、宮田次長検事のお孫さんだと話題になったよ。司法試験を首席合格している君が何故だろうとね?」
呼び名が変わる、事実を語られる。
以前は「鷲田」を知らなかったろう、けれど今は知った眼に微笑んだ。
「そういう私だから、湯原君の同期に選んだのですか?」
警察学校の同期、そこに君がいた理由。
ただの偶然ならそれでいい、けれど違う現実が口ひらいた。
「友人になってくれたらと思ったのは事実だ、あんな孤独は哀しすぎる、」
冷静な声、でも温もり燈す。
―この人なりに苦しんでいるんだな、馨さんのこと、
湯原馨と同期だった、それもこの官僚の事実。
そこにある感情の行方ながめながら本題に戻した。
「渡部さんの病状について、主治医からカルテの提出はさせていますか?」
それくらい手配済みだろう?
予想に問いかけた先、警察官僚は頷いた。
「もちろんだ、医務官にも診てもらっている、」
「そのカルテと冤罪とで、情状酌量を検察に訴えたらいかがですか?警察の謝罪が前提ですが、」
まず警察が誤りを自認する、そうしなくては検察に要請できない。
それ以上に難しい条件を口にした。
「ただそれ以前に、執行猶予になってもエベレストは難しいのではありませんか?逃亡するなら絶好の場所です、なにより国外へ出せますか?」
犯した罪は事実、そこに情状酌量があっても国外への移動は難しい。
それも八千峰の世界にクライマーを放つなら?その危険性に官僚もため息ついた。
「そうだな…警察官が付添ったとしても無理か、」
無理、それは蒔田も承知していただろう。
それでも訊かざるを得ない後悔があるのだろうか?
―馨さんのこと重ねるのか、単なる山ヤの連帯感か、
想いたどる窓の外、空が青い。
もう春が近くなる、そんな時節に言葉を続けた。
「エベレストは、世界の最高峰は難しいですが、最高峰の登頂なら可能ではありませんか?」
余命一年、その願い叶えてあげたいとも思う。
けれど限られた条件に警察官僚が顔上げた。
「富士か、」
「はい、冬富士は入山も規制されますから、」
今3月末、まだ間に合う。
あの世界に立つこと、その憧憬に山ヤが微笑んだ。
「たしかに積雪期の富士なら可能だな、宮田君が監視役とガイドを兼ねてくれるか?」
「はい、ただ警察がそこまで介入することを世論がどう見るか、問題ありませんか?」
警察官が被告人に寄りそう、それを許されるだろうか?
けれど勝算なにもないわけでもない、その解答に上司が言った。
「ニュースで見ても一般市民は被疑者の顔など忘れるものだ、野次馬も冬富士までは追えないしな。上には冤罪の償いだと話を通すよ、」
できる限りを尽くしたい。
そんな意志が自分を見つめてくる。
こういう男だから後藤も信頼するのだろう?そんな納得に尋ねた。
「私からも提案をいいですか?」
「聴かせてくれ、」
向きあおう、そう静かな眼が告げてくる。
冷静で穏やか、その底ふかい篤実へ微笑んだ。
「冤罪の被害者がエベレストを目指すとき、サポートを私に命じることはできますか?」
いつか彼は目指すだろう、約束のために。
『約束は今この時を逃せば叶わない。だから渡部は今回の事件を起こしました、』
山の約束が山ヤにどれだけ大切か、今はよく解る。
もし自分が同じ立場だったなら?見つめる想いに冷静な声が訊いた。
「警察がそこまで一市民をサポートすることを、不公平だと世論は非難するんじゃないか?」
「無実の罪をかぶせられたことは、不公平と言わないんですか?」
ほら自分の唇が動く、ためこんだ疑問のかけら零れる。
「冤罪もまた犯罪被害です、違いますか?」
あえて直截な言葉、その先に警察官僚の視線が止まる。
こんな機会を待っていたのかもしれない、めぐり来た問いを投げかけた。
「日本では刑事事件の被害者を救済することは実質ほぼありません、それが正しいと法の番人としてお考えですか?」
刑事事件の被害者に対して、ドイツでは事件前の生活をほぼ補う保障がなされる。
日本でも犯罪により受けた損害を、被害者は加害者に対して民事上の不法行為として損害賠償を請求しうる。
けれど現実は加害者が無資力なケースが大半で結局のところ賠償金は支払われない、そして被害者は泣き寝入りを強いられる。
「宮田君が検察庁に入らないでいる理由は、それか?」
静かな声が問いかけてくる、その眼ざし深い。
見つめてくれる篤実にただ微笑んだ。
「冤罪は警察のミスです、その償いを体張ってする警官がいても悪くないと思いませんか?」
体を張る、こんな発想を自分がしている。
こんなこと3年前は考えていない、それでも立つ今この場所が言った。
「宮田君の意見としては、冬富士とエベレストはセットということか、」
「はい、」
微笑んで肯いて、視線の真中も瞳が肯く。
元から同じ意見だったろう?そんな眼がほっと息吐いた。
「やぁれ、やれ…あいかわらず君はおっかないなあ?」
半白の頭かるく振って窓の陽に銀色ひかる。
大きな手さらり髪かきあげて、山ヤの警察官は笑った。
「警察の謝罪と検察のプライドの交換か、検察庁のツテも君には無意味なんだな?」
篤実な眼が朗らかに笑ってくる。
これが素顔だろうか、そんな男に微笑んだ。
「無駄な借りは足枷です、違いますか?」
「そうだなあ、」
素直に頷いて銀色の髪かきあげる。
このままネクタイまで緩めそうだな?予想に穏やかな声が言った。
「で、俺の借りはエベレストで返せるのか?」
問いかけながらネクタイ緩めて、篤実な眼ほっと息吐く。
予想どおりについ可笑しくて少し笑った。
「おまかせします、」
「また怖い返事だな、やれやれ、」
ネクタイ緩めた笑顔また息ついて、執務デスクに腰おろす。
官僚としては行儀悪いな?そんな感想に訊かれた。
「償いを体張ってする警官がいても悪くないか、鷲田君は10年後も同じこと言うかい?」
呼び名を変えて問いかける。
その意図まっすぐ見つめて、ただ笑った。
「先のことは警察官なら解りません、とりあえず7時間後は呑んで笑うつもりです、」
先のことなんて解らない。
そんな現場に自分は立っている、それが自分で望んだ今だ。
この1秒後も召集されたら遭難現場に向かう、その先が生か死かなんて誰に解るだろう?
それでも解る未来予想に官僚も笑った。
「あの佐伯か、今日から七機だったな?」
「はい、」
肯いて最近の記憶にアルコールが香る。
酒と星空と雪の記憶ながめた先、山ヤの眼にやり笑った。
「アイツ山岳会でも凄腕だがな、まあ頑張れ?」
※校正中
第86話 花残act.3← →第86話 花残 act.5
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