
今日は8月15日、この月3度目の祈りの日、です。
毎年、お隣の塀際に咲く「百日紅」、満開になってアタマを重たげに揺らし始めると夏真っ盛り…。
実は、きれいだと思いつつ、連想ゲームのように「暑さ」が感じられて、いつも窓の中から鑑賞。
今日と言う日に「暑さ」と言う言葉を思い浮かべると、これまた連想ゲームのように、
「終戦」と言う言葉も、浮かびます。なんとなく「あの日もこんなふうに暑い日でした」という、
毎年のように聞かれるフレーズがあるからでしょう。
私の年齢では、戦争の実体験はありません。見聞したことからの考察や想像になります。
どれだけきちんと把握できるか…それは大事なことだと思っています。
報道の仕方も、年々変わってきますし、こちらも歳を取り、感じ方や考え方もかわっていくものです。
人の考え方や嗜好には差があることも事実です。一つの情報について、いろいろな見方もあります。
大切なのは、つきつめていったところに「戦争はやるべきものでない」ということがあること。
人が日常で人を10人殺したら、殺人鬼であり犯罪者であり、重い罪として罰せられますが、
一人の兵隊が、戦場で一度に10人殺したら、英雄でしょう。
人の世界はそんなふうに「あいまい」になってしまうものです。
だからこそ「命は大切なものなのだ」という、ごくごく当たり前の原点を、忘れてはならないと思います。
どんな境遇にあっても、花はその境遇の中で精いっぱい、次の命をつなぎます。
暑いさなかの花は、なんだかいじらしいとも思えます。
百日紅、さるすべりと読まれていますが、サルも滑って登れないくらい幹がツルツルだから…
実際にはサルはちゃんと登れるそうですが、木肌がツルツルになるのは、
木が育つにつれて、一番外側の部分が割れてはがれおちるから…だそうです。コルクもそうですよね。
幹がツルツルであることは、元気でそだっているというわけです。
なので、花は近くで見ると、こんなに鮮やか…。
重いアタマを風にゆらゆら揺らしている姿は、どうしても「凛として」というイメージではありませんが、
こんなにたくさんの花をつけ、黙々と命をつなぐための「今の自分の命」を生きていると思うと、
私もがんばらなくちゃと思います。
戦没者…というたった3文字ではありますが、その迎えた死の形は様々です。
私たちの今の暮らしは、そのたくさんの無残な死を迎えた命の、更につながりの先にあります。
今を生きられることに感謝し、そして心からご冥福を祈りたいと思います。合掌。
ただ、母は5歳くらいの時に空襲にあい
教えて貰ったりしました。
叔父が二人、旧満州でなくなり
一人はいつなくなったのか定かでなく
遺骨も戻ってきていません。
なので、15日を命日がわりにしています。
遺骨はもしかしたらと言うことで
千鳥ケ淵へ15日前後にお参りに行っています。
今年は15日が週末でお休みなので
15日にお参りしに千鳥ケ淵へ行きましたら
さすがにそれなりの人出でした。
叔父や他の方々の冥福を祈りつつ
戦争のない日本に感謝です。
海外でホームステイした時に出会った人の
中には自国がこの前まで内戦だった方もいました。
それはそれとして、千鳥ケ淵はそれなりの
人出でしたが、着物(浴衣含む)なのは
私だけでした・・・。
たまたま?!まぁ、私も灰色地に蛍柄の
麻着物を浴衣のように着ていたので
人の事を言えた義理ではないのですがf^_^;
靖国神社横で何とか愛国なんとかという方々で
着物(浴衣含む)を着ている方は
見受けられませんでした。愛国?ですか?(笑)
まぁ、あまり愛用されて着物=そういう方
という図式が出来てしまうのも何ですが(笑)
お返事が遅くなりまして、ほんとにすみません。
親は戦争の話を積極的にはしませんでしたが、
自分がオトナになるにつれて、こぼれ落ちるような
わずかな話や、考え方生き方に、
こうであったのだろう…と思いを広げるようになりました。
ちょっと平和ボケの日本ではありますが、
決して繰り返さないように、それだけは思っています。