すいーと雑記帳

とっこの独り言

「さらばんじぬ会」のMさん、新報に

2013-05-12 13:59:31 | 日録・雑感など

5月12日 SUN   25℃ 

先週金曜日早朝、普天間基地・大山ゲートに琉球新報のA記者が取材に来ておられましたが、彼女の記事が、今朝の一面トップに載りました。   

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        オスプレイ配備に反対する抗議行動に参加する本村紀夫さん

        =10日、宜野湾市の米軍普天間飛行場大山ゲート前

うちなーや、日本やがやー

  公判で「沖縄」訴え

   主権この手に (第3部 「真の復帰とは」 1 )

     国会爆竹事件当事者 本村紀夫さん

 「日本語で話しなさい」。語気を強めて命じる裁判長に対し、県出身の若者たちは「うちなーや、日本やがやー(沖縄は日本なのか)」と訴えた。

 1972年2月16日。東京に住む県出身の若者3人が「日本復帰拒否」を訴え、国会で爆竹を鳴らした「沖縄国会爆竹事件」(71年10月)の初公判が東京地裁で開かれていた。後に「ウチナーグチ裁判」と呼ばれる。

 人定質問で被告の本島出身女性は「むかせー、会社員やたしが、なまぬーんそうねーん(昔は会社員だったが今は働いていない)」とウチナーグチ(沖縄の言葉)で語り始めた。

裁判長は日本語で話すよう命じた。弁護人は「彼らが自分の思想を述べる時は生まれ育った所の言葉でしか表現できない。通訳をつけてほしい」と申し入れたが、却下された。

 被告となった若者の1人、本村紀夫さん(64)=当時24歳は「沖縄のことは日本の国会が決めるのではない。沖縄人自身が決める。それを訴える行動だった」と事件を振り返る。公判は「日本復帰」をまたいで18回行われ、3人に懲役8月(執行猶予3年)の判決が言い渡された。

 本村さんは宮古島で生まれ育った。65年夏、島に佐藤栄作首相が来た時、島民と沿道に並んで「日の丸」旗を振った。「ヤマトに対する憧れ」から高校卒業後は東京に進学した。

 東京から沖縄を見詰める中で、「日本復帰」の足音が近づくにつれ、沖縄の独自性が喪失しているのではないかと感じた。「自分たちは何者なのか」。復帰運動が盛り上がりを見せる中で問い続けた。

 復帰後も、沖縄出身者が「ヤマト」で差別を受ける出来事が相次ぐ。本村さんは「在京沖縄人」を支援し、本音で語り合う場として「ゆうなの会」を設立する。文化活動を通して「沖縄人」として自信をつける活動を東京で続けた。

 2年前、父の死をきっかけに沖縄に戻ってきた。今も変わらず沖縄に負担を押し付ける日本政府に怒りを感じるが、一方で、ことしの4・28を機に「沖縄人が自らのアイデンティティーに目覚め、沖縄は大きく変わっている」と肌で感じている。

 41年前にウチナーグチ裁判で世に問うた「沖縄は日本ではないのか」という問いを今、再び投げ掛けてみる。「日本国家が沖縄を無視し続けるなら、取るべき道は一つ。沖縄の命運は沖縄人が決める」。時の思いは変わらず、むしろ強まっている。(赤嶺玲子)

◇ ◇ ◇

沖縄が日本に「復帰」して、15日で41年を迎える。しかし本土側の無関心などによる基地押し付けの現状は今なお続き、自己決定権はないがしろにされている。沖縄の主権は回復しているのか、「真の復帰」とは何か、を問い直す。

                              (琉球新報 2013年5月12日)


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