・タコ部屋労働者の脱走ルート
これらの史実を、別な角度から光を当てると大きな影が背景に浮かび上がってきます。寛斎翁は、アイヌ保護や十勝監獄放免囚の社会復帰に取り組んでいましたので、「彼らを農牧場に入れて、独立自営農民に仕立て上げることを計画した。」ことは充分考えられます。しかし、この当時すでに囚人の外役労働は表面上廃止されており、また息子又一さんの嫁が十勝監獄の典獄黒木鯤太郎氏の娘であったことを考えると、脱獄囚を匿ったことは現実的ではありません。あるいは、本州の人たちには「タコ部屋労働」の存在が知識として広まってはいなかったのかもしれません。「囚人がしばしば脱走してこの奥地へ逃げてきた」のではなく、「タコ労働者がしばしば脱走して逃げてきた」と考えるべきでしょう。ただ、「彼らはよくクンベツ(断崖と断崖との間の難路)に追いつめられ射殺された。」ことについては添付の地図により一目瞭然です。
陸別町薫別は、陸別方面から川伝いに逃走すると最初に行き当たる難所で、利別川を挟んで東西から断崖が迫っています。ここは「クンベツ渡船場」が設置されていたことから、徒歩で川を渡ることは極めて困難だったと思われます。そのためタコ部屋の棒頭たちは、脱走者が出るといち早く馬を駆けここで待ち伏せしていました。棒頭たちは銃やこん棒で武装していたため、抵抗すれば射殺されたでしょう。
「捕えられた者たちは、タコ部屋に連れ戻され梁につるして火あぶり、殴打、水責めなど、あらん限りの暴行、すなわち焼きを入れられた」【澪標(みおつくし)十勝川の川舟文化史】
「北見に走る者多く続いて来り」とあるのは、おもに愛冠のタコ部屋から逃げる途中に寛斎翁の駅停や牧場に駆け込んだと思われ、堀内組関係者と示唆されます。寛斎翁は当然これらのことをよく知っており、心を痛めたでしょう。脱走者を匿い、食料を持たせて逃走させたことは各種資料で伝えられているところです。
でもはたしてそれだけだったのでしょうか。
そのまま逃走させても、各所で待ち伏せしている棒頭の目をかいくぐるのは至難の業ですし山には熊もいます。そこで、エディンコさんやイコサックルさんにアイヌの人しか知らない山道を使い逃走の道案内をさせたと考えられないでしょうか。
すなわち「脱走ルート」の起点が寛斎翁で、エディンコさんとイコサックルさんが連絡しあい、クマよけの猟銃を持ったイコサックルさんが道案内の実行者だったのです。和人の目につかない、アイヌの人たちだけが通るけもの道のようなものがあったでしょうし、昔からリクベツアイヌは、北見・美幌・帯広方面のアイヌと頻繁に行き来しておりました。どちらへ逃げるにしても、アイヌの人たちの助けがなければ成功はおぼつかなかったと思います。
幕末から明治維新にかけて、上野戦争や戊辰戦争をくぐり抜けてきた寛斎翁にして「実に一種の世界たるを覚えたり」と言わしむる、特殊な光景だったのでしょう。
・脱走ルート潰しと報復
さて、徳富蘆花が「命の洗濯」を出版したのは同じ年の明治45年3月のことです。
当時少し変わった流行作家が出版したものですから、世間はそれなりに受け止めたと思われます。実はこの中に、【関牧場創業記事】も掲載されておりました。これが中央政府・北海道庁の役人の目に留まらないわけがありません。当時の鉄道工事は、道庁の入札によって行われました。札幌の元請け業者が落札し、下請け・孫請けへと仕事が回ってくるのは現代と同じです。そこに建築現場の虐待行為がスクープされた時、当然の如く元請け業者に圧力がかかったことでしょう。
それが、奴隷労働の根絶という本質の解決に向かうのではなく、事件のもみ消しや脱走の防止・管理強化へとゆがめられた圧力に変化して行きました。まるで現代の森友・加計問題や過労死対策とは名ばかりの労働法改正と変わりません。関係者が始末され事実が闇に葬られ管理強化が残るという構造です。
「例えば、博徒森田派のみを見ても、乾分六千人を擁しており、他の一丁派、その他の博徒およびこれらに付随する孫分と称する無頼の徒を数えれば、恐らく三、四万人にも達したであろう。これに対し、明治三十年現在の巡査は、わずか七百八十三名を数えるのみであり、加えて交通機関、および通信施設は完備せず、したがって警察署は彼等博徒との力関係において、全く劣勢の位置にあった訳である。」【北海博徒伝】大西雄三 みやま書房
当時の北海道は人の集まるところに商店が立ち、飲食店ができ旅館ができる。そして遊郭ができ、賭博場が開設され博徒が一斉に流れ込んでくる。表の社会よりも裏の社会の成立の方が早かったと言えるでしょう。闇の仕事引受人はいくらでもいたと考えられます。
たとえ標的が重い病に臥せっていたとしても、報復という意味では確実に抹殺するのが「仕事人」であり、依頼者の目的であります。スクープを闇に葬り、残忍な方法で関係者の口を封じること。これが世間への見せしめであり、「脱走者」に加担させない暗黙の掟が形造られてゆきました。
・結論
以上の状況を総合的に勘案すると、イコサックルさんの死の真相とは「プロの仕事人により(二連式散弾銃によって)射殺された」と推認できます。また時を於かずして仲間のエディンコさんも謎の自殺を遂げたことになっています。
・追記
その後「タコ部屋労働」は大陸からの強制徴用や中国軍捕虜の強制労働を巻き込み、戦時資源・鉱山物資採掘の道具として形を変えながら発展していきます。戦後GHQによる命令によって終焉を迎えたのは、この国の誤った政策や利権構造が外圧によってしか変えられないという、自浄作用を失った現代に通じる体質を表しているということです。
エディンコさんとイコサックルを始末した「魔の手」は、やがて寛斎翁に延びてゆきます。
<<続く>>
「十勝の活性化を考える会」会員 K
いつもありがとうございます。
さて、キリスト崇拝者は禁止されている自殺をしませんか?
アイヌ語にはこんな言葉があります。
ヤイロンノ yay-ronno「自殺する(自分を・殺す)
アイヌ語の「十勝方言」
yayraykeは《自殺する》という意味
田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』
また伝説も多く残されています。
アイヌの乙女が身を投げたピラオロ哀恋伝説の舞台でもあります。近くにはサロマ湖展望台があります
「サロマ湖」
「自殺するのは人間だけ」とも言われますが同じ人間として、心を寄せあうことができれば「自裁の観念は無い」とは到底言えるわけもないと思います。
知里幸恵はアイヌ神謡集の序文で、民族の於かれた現状に深い悲しみと怒り、そして後世への望みを託しております。
過去二百年の過酷な歴史は、民族にとってごく短い期間でしかありません。
これから未来に向かって、どのような形で民族の魂が甦ってゆくのか気にかかりますね。