黒木家と関家
黒木鯤太郎は明治36年(1903)1月第7代十勝分監長として就任、同年4月昇格した十勝監獄の初代典獄に就任しています。
黒木は着任早々キリスト教を布教し十勝監獄リバイバルがすすめられ、先述のピアソン夫妻の著書『六月の北見路』で詳しく紹介されています。
ここでは黒木家と関家の結びつきがうまれました。それは黒木鯤太郎長女美都子 (明治13年11月29日生)と関寛斎7男・又-(明治9年4月25日生)が明治39年12月17日結婚(婚姻届40/8/29本別村)しています。
その頃又一は帯広に農場事務所を置き斗満開拓と連携していました。
また長男静吉出生地は帯広町別府(監獄敷地内)で幼少時はここですごしました。
関静吉書簡 聖書発見昭和63年(1988)
この度古い本棚を整理いたしましたところ、祖父寛斎のキリスト教に関する洋書を発見しました。
祖父本人が自筆で訳文を記載しているのに非常に興味を深めました。時期的には黒木鯤太郎の帯広監獄における伝道と、ピアソン宣教師の動向が大きく影響があるのではないかと推察しています。』
「関寛斎顕彰会資料:斉藤省三氏編」より
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寛斎が北海道陸別で開拓に成功したのち、十勝監獄典獄 黒木鯤太郎と懇意になり、その娘を又一の嫁に迎え入れたのですが、寛斎と黒木鯤太郎の関係が、「地元の名士」という事だけではなにか動機として釈然としない思いがありました。
ところが、ある研究者が「黒木鯤太郎と生三は、慶応義塾で接点があったのでは」との情報を提供してくれました。それならば、黒木が自分の長男と知り合いだったという事で、意気投合したことは想像に難くありません。黒木鯤太郎については、歴史上その人物評価が分かれるところです。また十勝監獄典獄の令嬢を人里離れた山奥の牧場に嫁がせたことは、のちに「関家」と「黒木家」の確執につながって行くこととなりました。
「十勝の活性化を考える会」会員 K
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