最近、アイデンティティについて深く考えています。
自分の中のアイデンティティを観察していると出てくる出てくる・・ たくさん氣づきをいただいています。
考えれば考えるほどに、これはエゴの礎となっている意識の構造なのだと思うようになりました。
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意識することなく思考を続け、氣づきなく何日も、何年もが過ぎ、そして何度も生まれ変わる。
このような懲りない人生を繰り返したくないと考えたら、自分がアイデンティティを求めていないか? と観察する癖を付けたら良いと思います。
やはりここにおいても、いったん思考を止めて自分を見詰めるということが大切なのです。
幻想としての私
私という日本語には私たちという派生語がありますが、英語などの欧米系の語彙では「I」と「We」のように別の語彙になります。
日本語で会話するときにはこの「私」を省いて会話がされることが多いです。
さらに派生語としてmy me mine myself というように私を意識させる使用頻度は日本人と比べて遙かに増えるのです。
だから英語では必然的に日本語で話す以上に常に I (私)を意識してしまいます。
また前述したように、英語では私と私たちが別の語彙になっているので、私を意識するだけでなく私たちを分離するという意識の作業を頻発していると思います(特にアングロサクソン系の国で多い)。
そもそも私(I)という言葉自体に根元的な誤りがあるのに、その言葉が日に何百回と使用され、心の中を含めたら何千回と想念されていることになるのです。
私という言葉の認識に根元的な誤りがあるというのは、私の存在というものは幻想であって実在していないということで、私のものも、私の時間も、私たちも、本当は実在していないからです。
この幻想の私は唯一絶対で永遠の私の立場を知ることができません。
よって本当の私の価値も喜びも氣づくことができないのです。
そんな自我意識も自分に対しての存在価値を見いだそうとするのですが、二元の五感の世界で思考している偽我の私はその価値を五感で感じるものに求めてしまうのです。
この幻想の世界である私にも幻想としての存在感が必要でした。
そこで生まれたものがアイデンティティ(自分の代替品)です。
自分の価値を自分以外のものに代替している対象が「アイデンティティ」なのです。
鏡に映った自分の顔、スタイルから友人、サークル、家族、恋人、仕事、それに対して執着を持ったとしたら、それはすべてがアイデンティティなのです。
明日はもう少し具体的にアイデンティティとエゴとの相関関係について触れます。
― つづく ―
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