前項は、不況の原因は賃金の下方硬直性にある、といういまだに見聞きする議論への批判であった。
では、そもそも失業の原因はどこにあるのだろうか?
これまで長々とピグー教授の失業理論を批判してきたが、それはなにも彼が他の古典派経済学者以上に批判を受けてしかるべきだからではなく、彼の試みが、私の知るかぎり、古典派の失業理論を正確に記述しようとした唯一の例だと思われるからである。要するに、古典派理論がその最も強靭な表現を見たこの理論に対して反論を提出しておくことは、私に課せられた責務であったのだ。
現代正統派経済学をピグー教授ほど突き詰めた人はいないのかもしれない。正統派経済学の中身は常識であって中身は何もないから。ミクロとマクロの接合などと言われているが、ミクロに呑み込まれているだけである。合成の誤謬という言葉すら捨ててしまっている。ひたすら「無駄を省け。カネを残せ」と訓戒を垂れるだけである。おっと脱線。
ピグーとケインズはマーシャルの弟子筋にあたり、ピグーのほうが先輩である。「要するに、古典派理論がその最も強靭な表現を見たこの理論に対して反論を提出しておくことは、私に課せられた責務であったのだ。」と書くケインズの心中は察するに余りある。ピグーとは共同提言もしているのだ。(当ブログ「凝り固まった信念は恐ろしい:ケインズ一般理論への当時から続く反論」参照)
ケインズは、ピグーの理論を賃金と俸給を分けて考え賃金を生産にとっての変動費とし、変動費が固定費化しているから新たな需給均衡ポイントが見つからないのだ、と総括している。形を変えた古典派に過ぎない。
ピグーの理論展開とケインズの反論を追うのも気怠いので、結論を言うとピグー理論では貯蓄・投資バランスが消費財・投資財のそれぞれの雇用量(xとyとするとx+yは一定)でバランスするという自己撞着に陥っており完全雇用下でしか成り立たない。よって、失業は消費財部門と投資財部門間での労働力移動の際の摩擦的失業しかないことになる。
まさに現代正統派の御先祖様である。
「固定費の変動費化論」「労働市場規制緩和論」「労働力の流動化」しか失業対策は理論的にありえないのだから
そしてこれが 「古典派の失業理論を正確に記述しようとした唯一の例」なのだ。
このような展開になるのは、ケインズも指摘しているが「貯蓄-投資バランス」の概念がないからである。所得は全て消費か貯蓄を通して投資に回る、と考えているからである。P・クルーグマンも「借り手のない金」などあるはずがない」とか言っている。彼も現代正統派の中にいる。
借り手のないカネは存在し、その分社会は貧しくなっていく。という目の前で起きていることになぜ気が付かないのか。
どのような信念が彼らの眼を曇らせているのか?
次章は、心が折れること必定の「第20章 雇用関数」である。読み解くのに最も時間を要した章でもある。
心せよ!諸君!
扉絵の引用元は以下のとおり