ローバは一日にしてならず

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
生き方を自問自答しながらこれから楽しく

ローバは一日にしてならずの根源

2014-06-30 15:46:47 | 老後

老健にお世話になっている母。
日替わりメニューならぬ容体が変化する。昨日は、夕飯を自力で完食
今日は・・・発熱、水分摂取が出来ていない 覚醒できず
体も震え座位が保てない。 と報告を頂く・・・夕方点滴しています。
こんな状態で衰弱していくのかな???、今夜寝れると良いがな~。


母の100歳の誕生日までに…ローバの根源を書き込みます。

母には今までの事を書いて…と大学ノートに書きためてもらっていた。
それを、新聞社に依頼して、自分史のようなもの作りました、米寿の記念として。
時代系列がはっきりしているものを年表で。
昭和12年S.村で助産婦開業以来70年の時、今まで来し方を書き綴った物です。

興味のある方は、どうぞ!

抜粋


大正3年 東京巣鴨で生まれた母は、3歳で父親を、6歳で母親を亡くし、3人の兄弟が残され。
父親の生家であるG.村(現A )村の家に養女となる。
兄弟はバラバラ、長兄はお寺に,次兄は音信不通になっていた。
小学校は1、2年は皆勤、3年になって従兄に子供が生まれたため子守り役
学校は休みがち、友達にノートを借りたりして勉強をしたかったが
仕事を言いつけられ、水汲み、草刈りなど幼くして手伝った。
友達から養女だということを告げられた、薄々感じていた事も書かれています。

昭和4年(14歳)高等小学校中退して製糸工場に行く。
(友達の多くが2年間の高等科や補習学校に行く話を聞いて自分も行きたかった)
昭和5年父の恩給が年間150円くらい養家に入っていたはずなのに、
着物一つ買ってもらえなかった金銭的な事を考える。
昭和6年工場が休業中友達のつてで仕立て屋さんに見習いで住み込み

昭和8年従兄から警視庁で看護婦を募集しているという手紙が養家に来ていた
当時東京までの切符が3円60銭、飯田橋の駅について逢ったこともない次兄のおじさま迎えで
従兄の家に行った。 (自分史には番地もしっかり記入してあり)
この年の3月8日採用試験、30名の採用に応募者が500名位いて驚いた。
その時は不採用(5日前に三陸沖の地震についての問題が出た、新聞も読んでいなかったので答えられず)。

東京で職探しをすることにして、たまたま従兄の管轄で日本橋にある産婦人科で新築中、看護婦見習いを募集している
此処でも採用2人に対して10人ほど・・・採用が決まり住み込み
都内でも一流の病院で産婦人科の治療のほか入院設備もあった。

しつけも厳しく、新しく入ってくる看護婦も見習いも皆直ぐに辞めて行った。
看護婦試験に合格したが、忙しくて先生も講義の時間が取れず産婆の資格試験等
何時受かるかわからない状態で、何とかしたいと思っていると、従兄が
本所の賛育会病院の産婆学校の生徒募集があることを知らせてくれた。
9月末入学試験が有り、10月から入学許可、その結果を受けて「田舎に帰ります」と病院を辞めた。

自分で袴を作り着物に袴と言う格好で、亀沢の従兄の家から毎日片道30分かけて本所の太平町の学校へ
電車もあったが、片道7銭。 昭和9年3月学校を卒業

検定試験を受けるには実技実習が必要なため、9月の試験前まで賛育会病院の近くのI.産婆の家に住み込みで
お産の手伝いや家の仕事をして勉強をした、夜遅くまで電灯をつけるわけにもいかず、35銭の電池を買って
懐中電灯の明かりで一生懸命勉強をした。

試験の願書を栃木県、茨城県、埼玉県、東京の4か所受験料は一か所1円、学科試験と実技試験がそれぞれ
別な日に地元であった。
栃木、茨城と合格通知が来たが、埼玉の浦和に行き試験中にI.産婆さんから栃木県の実地試験が受かったと電報を
試験官が「直ぐ帰れ」と言う、どうするか?その時の問題もできた気がしたが・・・「帰る!」と、途中で帰った。

やっと昭和10年です。 読みくたびれましたでしょう!
まだ続きますが、書き続けますこれからを・・・。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
厳しい過去があって、今がある、 (cyacyako)
2014-07-01 09:04:31
お母様の自伝、以前いただいた本。
大切にしています。過酷なまでの努力、惜しまない働き、それが生命力溢れる現状に繋がっていて、100歳と言う「長寿」に結ばれるのでしょうね。
脱帽です。
返信する
親や兄弟の分まで (Kokomo)
2014-07-01 09:24:57
Cyacyakoさんへ

改めて読み返しながら振り返っています。2158
返信する

コメントを投稿