意思による楽観主義のための読書日記

面白きこともなき世を面白くするのは楽観力、意思に力を与えるのが良い本 *****必読****推奨**閑なれば*ムダ 

今日も元気で読んでいます!


2008年1月から読んだ本について書き残してきました。読んだ内容を忘れるのは致し方のないこと、でも少しのヒントがあれば思い出すこともありそうです。今日も応援いただきありがとうございます

東北ーつくられた異境 河西英通 **

2011年09月30日 | 本の読後感
東北地方、遅れた地方というイメージがあるのはなぜなのか、戊辰戦争の影響は今でも残っているのか、東日本大震災への支援の裏側には今でもこうした日本人の気持ちがあるんだろうか。

仙台と山形を結ぶ線より北側は長く蝦夷の地であった。中央であった京都や幕末期に向けて東北に対する優越感を持ち続けた。戊辰戦争はこうした東北観を固定する働きがあった。天皇には向かうのは未開の地の民、という認識で西南諸国を中心とする官軍は奥羽越列藩同盟に立ち向かった。つまりそれまでの東北=エゾ=未開地、という図式に朝敵という意識が加わり、敗者の汚名を着せられたのである。その後の新聞などでの記述がその気分を物語っている。1876年東京日日新聞「青森は諸州船舶の多く出入りするところなれば、もとより淫乱の風あれども、近来に至っては風俗ますます醜悪に流れること甚だし」、「秋田県は昔より淫奔の甚だし処、堕胎の習慣が未だに残り、人民は概して頑愚」郵便報知新聞「山形は男子の頭髪まちまちにして結髪坊主頭多く断髪は10人に一人なり」東京日日新聞「若松県では市中の家はもとより甚だ粗にして汚穢し、辻便所はようやくやみたり」総じて、東北各地の生活には野蛮、未開、不潔、怠惰、淫乱、固陋などのレッテルが貼られ嫌悪と嘲笑のまなざしが向けられたのである。逆に東北地方を開発することがこれからの日本発展には重要である、との意見も述べられた。

1882年頃の下北半島の民衆をデッサンした津田永佐久の遊浴日記ではアイヌの衣装をまとった農婦と日本風の衣装を身にまとう山仕事をする者が描かれ、アイヌの生活様式が日常であったことが分かる。

1888年には新潟で東北15週委員会が開催され、陸奥、陸中、陸前、岩代、磐城、羽後、羽前、佐渡、越後、越中、能登、加賀、越前、若狭、信濃から人を集めている。東北と裏日本の各地方が団結しよう、というよびかけであったが交通の不便さが団結を妨げ、一体感は打ち出せなかったという。東北6県、日本海と太平洋、北越と東北それぞれを結ぶ交通は甚だ不便であり、そこに一体感を持つという感覚が持てなかったのである。

日清・日露戦争の勝利から東北地方にはさらに発展の要請があった。対ロシア政策の強化である。世界との貿易を東北を拠点にして進めたい、という希望が出てきたのだ。

弘前生まれの陸羯南は次のように言っている。「東北の侮られ無神経と言われ一山百文といわれたる、また久とせざるか、むしろ西南をおそるるも、西南に恐れられざる、これをスコットランドに比する、実に著しき懸隔あり。スコットは英人を以って組み易しとす、而して英人の之を憚ること甚だし、スコットは自らスコットたるを名誉とし、敢えて英人と呼ばるるを欲せず」東北人よスコットたれ、という叫びである。
東北―つくられた異境 (中公新書)
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東西/南北考 ーいくつもの日本へー 赤坂憲雄 ****

2011年09月29日 | 本の読後感
日本を東西に分けての議論だけでは歴史は語り尽くせず、南北に分けられた分析も必要、という主張。

相撲の歴史、その源郷はモンゴル、古代7世紀の半ばには飛鳥の宮廷に姿を表していた。文献上では雄略紀13年(469年)に見出される。雄略天皇は東は毛人を征すること55国、西は衆夷を服すること66国、という。この東西の記述と毛人、衆夷は誰のことなのかが本書のポイントなのである。古代相撲では近江の国より東の力士を東方、それより西を西方と名付けたという。ヤマト王権が国土支配をした象徴として相撲を位置づけた。相撲の土俵の円を中心とした国技館の構造は密教金剛界曼荼羅を模しているので、その重要な大日如来の場所が天皇が坐する場所となっているのだそうだ。

農業で使われる箕を取り上げ、その特徴を分析、北日本(北海道アイヌ)は片口箕で木製、もしくは樹皮製であり、東日本では片口箕は樹皮もしくは竹製、西日本・四国九州では片口箕であり竹製、南日本(奄美、沖縄)では丸口箕で竹製、という分布がある。箕を作る民がいて、サンカなどと呼ばれたが、西日本では差別対象とされていた彼らは北海道、沖縄、東北ではそうではない。これは農業と狩猟生活の関係から来ているのではないかという推察である。

日本語の方言で東西の差がある、という研究は多い。本州東部では行かない、これだ、白く、受けろ、買った、というが本州西部では行かん、これじゃ、白う、受けよ、買うた、という。この違いの歴史は古く、奈良時代には確認されている。境目は岐阜、愛知、富山、石川、福井、滋賀、三重を挟んだ地域だという。柳田国男は蝸牛考でその呼び方の違いを京都からの距離と比較した。京都から近畿ではデデムシ、中部から中国はマイマイ、関東と四国はカタツムリ、東北と九州はツブリ、それより遠方ではナメクジ、という具合である。京都からの距離で言葉は変化した、という仮説である。筆者は、もともと日本国として一つの単位であった、という前提が違っていると指摘、縄文時代に狩猟生活を送っていた日本列島に大陸から稲作を中心とした弥生文化人が侵入、西日本を中心に東へ広がるなかで、米の文化として拡大した。狩猟生活を中心とした文化とは混合しながら狩猟民は東北から北海道と奄美、沖縄に残っていった。被差別民の存在はこの米の文化圏に発生したものであり、被差別部落の分布と米の文化圏の広がりは一致するという。

縄文時代の人口分布を見ると、縄文前期には落葉広葉樹林帯であった関東を中心に東北へと人口重心があり、縄文中期をピークとして漸減する。その時代には照葉樹林帯であった東海、近畿、四国、中国、九州には殆んど人は住んでいない。しかし弥生時代になり九州、近畿の人口が急増、人口の重心は関東から西日本へと移動した。縄文から弥生時代の文化圏を分析すると、中央地溝帯を挟んで東西の文化圏の相違が見られた。そして津軽海峡は文化圏の境界とはならず、東北地方の南北の中点あたりに文化圏の相違境界があった。そして九州と奄美、沖縄の間にも文化圏境界があった。つまり今の仙台から山形より北の文化、奄美、沖縄の南の文化、そして弥生以降の本州、四国、九州の中の文化である。弥生時代以前には日本列島は狩猟採集経済であり、多様ではあるものの縄文文化圏として一つにくくれるものであったのが、弥生文化が中日本に広がる中で文化圏が3つにわかれたというのである。

穢れには死、出産、五体不具、月事、病気、獣肉食があると10世紀の延喜式には記述されている。民族社会では死の穢れが黒不浄、月経の穢れが赤不浄、出産の穢れが白不浄と呼ばれた。ここでは「穢れ」とは何かを3つに分類した。第一は死の穢れである。墓を住居の近くに置くか、離れた場所に置くか。東北と九州は死穢へのタブーが希薄であり、京都と江戸を中心として中部、北陸、四国、中国では死穢を忌むことが強い傾向がある。東北、九州には屋敷墓という葬制があることが特徴的だと、そして神社の境内と土葬の墓地が隣接し合って死穢を忌む文化圏では想像できないような光景もあるという。血への忌みは産屋の分布で分析できる。産屋の分布はほぼ若者宿の分布と一致、沿海地方に発達していた。しかし沖縄の島々では産屋や月小屋は見られない。産土神は産屋の砂を出産後には入れ替える風習があった、その砂を意味する言葉だったという説もある。胎盤を戸口に埋める習慣や出産時に火を焚く習慣も、血の穢れを遠ざけるものであった。そして第三の穢れが肉食の穢れ、これは西日本に強く残る。穢多や河原者への差別はこの穢から来ており、米食の文化(弥生)が肉食(縄文)の文化を駆逐する中で起きた差別でもあったという。東北、北海道、沖縄でこの穢に対する差別意識が薄いのはこの米食と肉食の駆逐の歴史だというのである。古代ヤマト王権は異俗の民蝦夷と隼人に毛人や衆夷という字を当てて支配しようとした。被差別部落の存在地区と古代から中世にかけてのヤマト王権の支配地域と重なっているのは偶然ではないだろう。

北の文化圏と中文化圏の境界として考えられるのが、アイヌ語の南限線である。ナイ、ベツという地名が多くみられるのは仙台の北と山形・秋田の県境を結ぶ線であるという。東北のマタギが使っている言葉にはアイヌ語と共通のものが多いとも言われる。

柳田国男や網野善彦が唱えた東西文化論に南北の視点も加えた文化論、被差別部落の分布とその歴史を分かりやすい分析で示してくれていると思う。東西/南北考―いくつもの日本へ (岩波新書)

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美しき日本の残像 アレックス・カー *****

2011年09月27日 | 本の読後感
平成版「逝きし江戸の面影」とでも言える著作。日本の文化を愛でて30年も日本に暮らした筆者は、アメリカメリーランド州生まれで、12才の時に父の赴任先である横浜米軍基地に滞在、エール大学日本学専攻、1972年には慶応大学に留学、ヒッチハイクで訪れた徳島県祖谷の廃屋を手に入れて茅葺屋根の古民家に暮らす。74-77年にはオックスフォード大学に留学し中国学を学んだ後に、日本の亀岡にある大本教で働くようになり、古美術のビジネスを手がける。京都や奈良がパチンコ屋と電柱、コンクリートの箱に汚されるのを見て居られなくなり、タイへ行ってしまったという。

京都の庭園に自然がある、と言われるが、筆者にとってはそれは自然を日本人が真似たミニュチュアであり、温帯雨林である日本には平安時代以前には本当にあったものだと。筆者はそうした日本の自然が残る場所を求めて慶応大学留学時代に日本中を旅し、徳島県の祖谷を見つけた。平野はなく山に畑と家が立つ場所、そこに茅葺き古民家を改築した住居を構えた。

日本人は「日本の四季は美しく、世界にもここにしかないものだ」と学んでいるようだが、それは間違いだと指摘、山には鉄塔が立ち並び、海岸は護岸壁、山の斜面には崩落防止のためのコンクリートの壁、こんなに自然を破壊している先進国はないという。家を建てるために山を造成して平らな場所を作り、そこにコンクリートや電線だらけの町を建設することがこの国では開発と言われている。ゴルフ場造成も自然破壊に他ならない。

歌舞伎にも造詣が深い筆者は、日本の芸術の特徴を、「ステージクラフト」がうまくできている、と表現する。歌舞伎で言えば花道によって、役者と客席の親近感ができる上に、メイン舞台から役者が一人はなれるために、人間的面白みが表現しやすくなる、とも言うのである。「だんまり」というセリフを喋らない場面があるが、登場人物の複雑な関係を度外視して芝居の全容を観客に見せる手段として効果的だというのだ。日本でステージクラフトが発達した理由は中身より外見を大事にしているから、本音より建前、という話と通じるともいう。スーパーの野菜も味より見た目の良さが大事、国会論戦も本音より建前を重視する。良い面と悪い面があり、歌舞伎では良い面が出ている、という指摘だ。

日本人論では、多くの議論が経済面と社会的な部分にウェイトが置かれる。経済面の研究が必要なのは分かるが、社会的側面はなぜこれほど議論になるのか。海外から見ると日本文化は独特であり、日本社会のベースとなっている文学や歴史を学ばなくては議論にもならない、そしてその独特な文化をもった日本人と長く付き合わなくてはならないのが日本学を学ぶ外国人には必須の条件ともなるからである。日本の優越性や素晴らしさを訴える日本論があるが、批判的な日本論もある。日本では優越性を訴える日本論は受け入れられやすく、批判的な日本論は受け入れられない。そのために、日本人は「日本語は素晴らしく表現力が豊かである。四季がある国は日本だけだ」などという日本論に接する機会が多く、それをそのまま信じる人も多い。

茶道の中に「序破急残心」というリズムがある、これは能でも同様であり「ゆっくり、速め、速く、止める」というリズムのこと。能楽の足の運び、武道、書道でも日本の伝統的芸術には共通してこのリズムがあるという。「序破急残心は大自然の根本的リズムであり人間の一生も、時代の流れも、宇宙の盛衰もそのリズムだ」というのである。これは日本独自の文化遺産だと指摘する。つまり、仏閣寺院や絵画、彫刻、陶器、文学などはどの国でもあるが、日本ほど精密に洗練された伝統芸術は世界に類がないという。茶道、お能、仕舞、武道、香道、書道、日本舞踊、生花、楽器、俳句、連歌、詩吟などが多くの流派をもち、これらの裾野の広さは驚くほどだというのである。

京都人は京都の古さが嫌いなのだと指摘、江戸時代に江戸に中心が移動して以来、京都人は江戸と東京に負けないための街づくりを続けてきた。京都タワーは醜さの象徴、禅寺では庭の解説のためにラウドスピーカーを設置して、伝統文化芸術組織はコンクリートと大理石の高層ビル建設を進めている。京都駅は醜悪な建造物となった。京都人は大理石のロビーをモダンで美しい建物と考えているとしか考えられないというのだ。

奈良も京都と同様、電柱とパチンコ屋に毒されて来ているというが、まだまだ多くの素晴らしい寺院がある。なかでも室生寺、そこに行くまでの山道に谷の対岸に15メートルほどの磨崖仏群がある、これは弥勒菩薩で鎌倉時代の作だそうだ。寺の入り口は橋、古い神社や寺にあるパターンだ。伊勢の五十鈴川の橋とともに印象的である。鎧坂、金堂、五重塔などがあり自然に溶け込んでいる。室生寺の一番素晴らしいところは奥の院、400段の階段を登ってたどり着くと周りは千年杉とシダの群生があり、御影堂がある。橋をわたって門をくぐり、坂を上がって金堂の釈迦如来や文殊菩薩をお参りし、五重塔の根本大塔に到着、最後に御影堂に到着するという、自然の曼荼羅になっているという。奈良のどこが好きですか、と聞かれて、「室生寺」と答えるのは本当の奈良好きだそうだ、奈良理解度をはかるリトマス試験紙だという。

日本人ではないアメリカ人に京都の良さと、京都人が古来の京都を嫌いなのだ、と指摘されると、ちょっと困る。本当のことだから、それともそうではないからか。1970年以降の京都の変化には目を覆いたくなるのは京都人自身ではなかったのか。しかしそうした開発を決めたのもやはり京都人、反対もあったが結局は開発はされてしまった。もう京都にも残像しか残っていないのか。今では、逝きし京都の面影を思い浮かべるしかない。美しき日本の残像 (朝日文庫)

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ロゼッタストーン解読 レスリー・アドキンズ、ロイ・アドキンズ ****

2011年09月26日 | 本の読後感
シャンポリオン、ヒエログラフの解読者、エジプト文明の紹介者の生涯と解読の努力を解説した本。1822年にヒエログラフの解読法を発見した時、そして、生涯の最後にエジプト発掘旅行をする場面がこの本とシャンポリオンの一生にとってのハイライトであろう。シャンポリオンは12才の時にはラテン語、ギリシャ語に熟達、ヘブライ語、アラビア語、シリア語、カルディア語も始めていた。

1798年、ナポレオンはエジプト遠征に出発した。政情不安定なパリを離れてエジプトを支配、凱旋すればクーデターの陰謀を封じられるという狙いもあった。当時のエジプトはオスマントルコの支配下、400隻の艦隊、38000人の兵士を伴った。そこには150人の学者も同行していた。数学者フーリエ、図形幾何学のガスパール・モンジュ、化学者のベルトレ、鉛筆の発明者ニコラ・コンテ、ドロミテ山脈の由来となった地質学者のドロミュー、画家で彫刻家のデュノンなどがいた。紀元前331年にエジプトを支配下に収めたのはアレキサンドロス大王、その古代エジプト遺跡を知るためにはヒエログラフ解読が必要だった。地質学、水理学、動植物の生態、宗教、農業、工業などを記録することが必要だった。軍事遠征とは無関係な仕事だったが、こうした文化的使命を帯びているという口実になった。この時見つかったのがロゼッタストーン、ギリシャ語、ヒエログラフ、そして未知の文字(デモティックと後に呼ばれる文字)で書かれていた。解読されるまで23年が必要だったが、解読したのは発見された時にはまだ10才だったシャンポリオンだったのだ。

シャンポリオンは1790年フランスで生まれた。兄は12歳年上のジャック・ジョセフ、兄には一生涯世話になることになる。シャンポリオンが生まれる前の年には革命が勃発、10年間はブルボン王朝はフランス王位を追われて国王ルイ16世などが処刑された時期であった。語学に才能を発揮したシャンポリオンは1809年にグルノーブルに設置された大学の教師に任命された。わずか18才であった。当時30才の兄ジャックもギリシャ文学教授に任命されていた。

1818年、ロジーヌ・ブランと結婚、ロゼッタストーンの非常に出来のよい写しを手に入れヒエログラフ研究にも力を入れた。ヒエログラフ研究のライバルは英国人のトーマス・ヤング、彼もロゼッタストーンの解読に務めていた。カルトゥーシュと呼ばれる王の名前を表す文字で記されたプトレマイオスの名前が3回現れ、短い記述法でも3回現れていた。ヤングもこうしたカルトゥーシュを解読していたのだ。1822年には入手したバンクスのオベリスクの碑文にクレオパトラの名前がヒエログラフで書かれていることを発見、ロゼッタストーンのプトレマイオスの名前と共通するp,o,lはアルファベットで書く場合と同じ位置にあることを確かめた。Tに対応する場所は異なり、2つの異なるヒエログラフがtの音を表すために使われていた。同音字と言われるヒエログラフの複雑さを示す用字例であった。しかし、シャンポリオンはこうして比較からエジプト人が外国人の名前を書く場合の規則を発見したのである。

古代エジプトの王はファラオとして知られている。これは大きな家を表す「ペルアア」から来ている。宮殿、大きな支配者の家、家系という意味がある。カルトゥーシュからファラオの名前を見付け出したシャンポリオンだが、カルトゥーシュとは薬莢を意味するフランス語cartouche、包むという語に由来し、太陽によって囲まれたすべてのものの支配者を意味した。カルトゥーシュの中にファラオの名前を書くのは、王を守ることも意味したのだ。

シャンポリオンはエジプト人の暦も発見した。エジプト人は昼夜を12時間ずつに分割、1日を24時間とした最初の人たちであった。1年はナイル川の増水期、穀物が芽生える時期、収穫期の3つに分割、それぞれは30日の4つの月に分けられ、月は10日間の3つの週に分けられた。1年は360日となるが、5人の神々の誕生日が加えられて1年を365日としていた。

シャンポリオンは1832年に心臓発作で亡くなった。ヒエログラフ研究で解読法を発見してから10年後であった。文法の基本からの解読であり、文字を1つずつ解いていくという途方も無い作業であったことがよく分かる。それにしてもロゼッタストーンは有名だが、シャンポリオンは日本では知られていない。英国人のライバルであったヤングがシャンポリオンの業績を貶す内容の論文などを出版、イギリスはシャンポリオンの業績よりもヤングの解読業績を歴史書に残しているという。
ロゼッタストーン解読 (新潮文庫)
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三陸海岸大津波 吉村昭 ****

2011年09月21日 | 本の読後感
昭和45年に書かれた本、2004年に文庫化されていたのだ。

明治29年(1896年)に三陸地方を襲った大津波、そして昭和8年、昭和35年のチリ地震津波である。それぞれが少しずつ異なる被害を与えたのだが、その教訓は生かされているのか。三陸地方を襲った津波は数知れないという。有名な貞観11年では死者千余名、天正13年(1585年)、慶長16年(1611年)にも津波、1783名が犠牲になった。それ以降も1616年、1651年、1676年、1677年、1689年、1696年、1716年、1751年、1781年、1835年、1856年には安政の大地震、1868年明治維新の年にも津波と数多い。

安政の大地震の津波の前にもマグロなどの大漁が続いた。明治29年の時にも大漁が続いた。うなぎの大発生や井戸水の変化も見られたという。6月15日のよる7時32分に地震が5分、53分にも弱震、8時2分に地震、その後20分経過後に海岸線から水が引いて1000メートルも干上がった湾もあったという。ドーン、という大きな音がしたのでロシア艦隊が攻めてきたのではないかという住民もいた。この地震で宮城県の死者3452名、青森県で343名、岩手県で22565名であった。

昭和8年の津波では3県の死者数合計は2995名、明治29年の時と同様の前兆があった。この時、田老の町の被害が大きかった。336あった家屋がすべて流出、23メートルの津波による被害であった。死者は1859名、生き残ったのがわずか36名、漁に出ていた60名も生き残った。これをきっかけに10メートルの防潮堤が建設されたのである。この防潮堤はその後のチリ津波などを防いだが、東日本大震災の津波はそれをはるかに超えてしまった。

チリ地震による津波では、岩手県だけで死者61名、津波がゆっくりきたこと、昼間だったことがあげられる。東日本大震災の津波ではチリ地震による津波の経験が仇になったという。津波はゆっくりくるもんだ、という言い伝えをうんでしまったのだ。

田老の防潮堤も明治29年の大津波は防げなかったはず、という記述がある。20メートルを超える津波がきていたからだ。油断、というのが津波の被害を大きくする、この経験はどうしたら数十年後の子孫に伝えられるのであろうか。三陸海岸大津波 (文春文庫)
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文学でめぐる京都 高野澄 ***

2011年09月20日 | 本の読後感
タイトルにひかれて読んでみた。

京都に都が移る前、大和の国に賢心という僧侶がいた。夢のお告げに従って北に向かった。淀川に来ると金色に輝く流れがあり、流れをたどって東山に着いた。そこで出会った老人が行叡、自分は観音像にふさわしい木を探しに東国に行くが帰りが遅くなったら、観音像を作って安置して欲しいと頼んで旅に出た。そこに現れたのが坂上田村麻呂、協力して観音像を作り、庵を立てて安置した。この観音像は人々の崇敬を集めて庵は大きくなり清水寺になった。今昔物語に出てくる話だそうだ。お伽草子にはものぐさ太郎が登場する。都に出れば妻になる女性を見つけられると聞いて京都に出てきた。宿の主人が、妻を探すなら清水寺に行け、というアドバイス、本当に妻となる女性に出会ったという話。

更級日記を書いたのは菅原孝標女、「ほのぼのと明けていく山ぎは」という記述は鴨川の西岸から東山を見ていたと想像できる。

六波羅蜜寺の南には三盛町、池殿町、多門町、門脇町などがあり、一体が平家一門の根拠地であった。平清盛の祖父正盛が六道珍皇寺から一町歩の土地を買って宿舎を立てたのが始まりだった。清盛の館を泉殿、清盛の弟の頼盛の館を池殿といい、建礼門院徳子は池殿で安徳天皇を産み、その地が池殿町、三盛町とは清盛、頼盛、教盛の三兄弟に因んでいる。伝教大師最澄が建立したのが延暦寺、785年比叡山の一乗止観院であった寺を、桓武天皇の勅願によって国家鎮護の祈祷を行う格別の力を持つ場所とした。延暦年間に建立されたので延暦寺。地位が高い寺は元号になる、仁和寺、建仁寺、東京では寛永寺がある。

葵祭は欽明天皇のころに始まったというから山城国がまだ山背と呼ばれていた頃であり、京都になるとは誰も思っていなかった。この頃の勅祭は石清水八幡宮の石清水祭、大和奈良の春日祭、そして賀茂の祭であった。

夏目漱石の虞美人草は甲野さんと宗近君が比叡山に登るところから始まる。今なら出町柳から叡山電鉄にのって八瀬遊園地に行って、ケーブルカーとロープウエイ乗って頂上につけるところだが、その頃は歩き、それも三条通りの旅館から歩いた。三条の蔦屋という旅館だが、それは旅館から見える景色から分かる。三条の旅館であり、東山が見えて、鴨川を歩いて渡る人が見えるのは三条木屋町。そこから二条寺町まで行くと、梶井基次郎の檸檬に出てきた果物屋八百卯がある。昭和前半の頃は寺町通がメインストリートであった。豊臣秀吉の京都改造の名残がまだあったということだ。

京のへそ、とは六角堂の境内にある京のヘソ石、華道の池坊のあるところ。池坊は家元であり池坊流とは言わない。流とは家元から枝分かれしたものだから、池坊、とした言わないというわけ。

一条戻り橋は堀川の一条にかかっている。利休の首が獄門さらし首にされた場所だ。少し西に行くと葭屋町通、右に行けば安倍晴明の晴明神社があり、利休の屋敷はその北にあった。そして一条通と葭屋町通の交差点の西南には聚楽第があった。一条戻り橋は聚楽第の対角線上にあったのである。

平家物語の祇王と妓女は嵯峨の奥の山里に隠れた。源平盛衰記にはそれは往生院だと書いてある。平家物語の横笛は恋人斎藤時頼が隠棲した往生院を訪れすげなくされたことで自殺する、というのが横笛草紙、平家物語では尼になり法華寺で生涯を終わることになっている。

祇園祭の山の一つ保昌山、和泉式部の最後の恋人、藤原保昌にちなんで造られた。この藤原保昌は酒呑童子を退治したことになっている。天皇の命を受けて源頼光が鬼退治ちーむを編成、藤原保昌に加えて、渡辺綱、坂田金時、碓井定光、卜部季武の頼光四天王である。山鉾巡航で保昌山が和泉式部の寺誠心院に差し掛かった時に、保昌山を引いている大学生のアルバイトがこのエピソードを知っているかどうかは注目である。

京都が登場する小説や物語は山ほどある。京都を訪れるときはテーマを決めて行ってみるのも良い。文学でめぐる京都 (岩波ジュニア新書)
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日本の漢字 笹原宏之 ***

2011年09月16日 | 本の読後感
筆者の笹原さん、幅広く漢字に留まらない日本語における筆記の変遷と広がりをまとめている。日本語の歴史から現代若者によるまる文字や絵文字、ケータイメールで使われる文字、中国や韓国、台湾との相互影響などにも言及、幅広い知識書である。

まずはよく目にする町での表記。「今年のX’masには+αのプレゼントがしたい!」 日本語表記は多様である事例。漢字、ひらかなとカタカナ、ローマ字、ギリシャ文字が混在していて、しかも教養ある人でも一般人でも普通に読めて意味もよく分かる。

「英語Ⅱでは2月に二つの課題が出る」数の表現でも漢数字、アラビア数字、ローマ数字を使い分ける。二つ、2つ、ふたつとかな漢字変換でも選択できるのは、日本語が際立った多様性を持っていることを示す。

、。!?+などの句読点や記号、※、♨などのマークもかな漢字変換で選択候補に上がってくる。かな文字はいくつあるのか、と聞かれて50、と答えるか、「はとぱ、ば」「ぁぃぅぇぉっ」などを数えれば更に増える。「ぁ゛ぇ゛」、などという表記もある。

漢音、呉音、唐音と漢字が導入された時期や地方により読みが違うケースも多い。訓読みを持つために逆に一つの読みに複数の漢字があるケースも多い。図る、諮る、測る、計る、量る、謀るなどを始め、物、者や鳥、鶏、酉もある。

和泉、大和、などのように読みと関わらない黙字があったり、似而非(えせ)、8月1日(ほづみ)などのように漢字数がよみ仮名より多い場合もある。不忍池、親不知、など漢語めかした地名もある。果敢無い(無墓い)などという宛字もある。廣を広、曜を日偏に玉と書くのは日本人の発案だそうだ。和製漢語には名月、書見、尾籠、火事、大根などのように和語に漢字を当てて音読みして漢語めかしたものや、足りぬから堪能と変化したり一所懸命が一生懸命になったりしている例もある。明治維新後に作られた労働、経済、世論、選考などもあるという。

一ヶ月、三ヶ日、一ヶ百円はそれぞれ「いっかげつ」「さんがにち」「いっこひゃくえん」と読む。おなじ「ヶ」でも読み方を変えるのである。元は「箇」という漢字であった。現在でも正式には一箇所と書くのが正式である。小さく「ヶ」と書くのは一が重要でありヶは重要ではないのだから目立たせない、という配慮である。普通名詞にも焼野が原の「が」を「ヶ」と表記する事例もある。世田谷、千駄ヶ谷、自由が丘、稲村ガ崎、越ヶ谷など、それぞれ正式表記は異なるようだ。

朝日新聞で最もよく使われる漢字は次の通り、「日、一、国、十、大、会、人、年、二、本」続いて「三、中、長、出、政、五、月、事、者、社」こう並べてみると、よく使われる漢字の画数は少なく簡単に書けるようにできている。国連安保理、などと省略することが通例となるのもよく使われるからである。江戸時代の右衛門が衛門、エ門と書き換えられる例もある。テレビはTV、電話もTelである。「おTel下さい」というメモがあれば「お電話下さい」という意味だと分かる。

広島の広は日本で生まれた略字体である。「黄」の部分をなぜ「ム」で略したのだろうか。「云」という略字が使われるケースもある。會が会、轉が転、傅が伝という例もあるが黄がムはない。宏や紘、弘、のようにムが「ひろ」の中に見られる影響があるという説があるらしいのだが、いつからこうなったのかははっきりしないらしい。

芸術の芸は藝である、と主張する人がいる。しかし、同じ人が法律、教養などの略字は気にならないことが多い。弁護士のかたが辯護士、医師が醫院と表記にこだわるケースもみられる。いずれもすべての漢字に拘っている訳ではないらしい。

JIS漢字の制定でなぞの漢字があった。山一女をたてにして一文字にした漢字、筆者いわく「やまいちおんな」。どこかの地名にあったからこそJIS化されたはず、と全国の地名を検索すると、あけんばら、という地名を発見した。山女(あけび)という漢字に原と書くのだが、漢字がなかったので、転記者が小さい「山」と「女」を切り貼りした時に、継ぎ目残り、「一」が山と女のあいだに入ったように見えた。筆者の執念の発見である。

文字には位相文字と呼べる、職業、趣味、信仰などを同じくする社会的集団ごとに特有な用法が存在することがある。旧字が好きな人達は、「紀伊國屋」「英國屋」という表記が好み。山本未來、倖田來未なども人気である。螢や龍も人名では蛍や竜よりも人気がある。烏龍茶は烏竜茶とは書かないし、竜田揚げは龍田揚げとはあまり書かない。櫻坂は桜坂よりいい感じがするし、横浜を横濱と書いた途端、異国情緒が感じられるのは不思議である。哲学よりも哲學のほうがよりよい学問のような気もする。小泉今日子はKyon2と書いて「キョンキョン」と読ませた、キョン々々、よりずっとセンスが良く感じられたものである。

正しい文字とは何か。日下部文夫の説は次の通り。
1. 形態として独立した図形である字体が存在する。
2. 分析性、線条性があり、音声言語と対応する。
3. 社会的に流通する。
なるほど、社会に通用してくれば結構正しい文字と言えるのである。

太閤検地から徳川検地で地ならしが日本各地で行われた。地方ごとにその表記が微妙に異なるらしい。
地平 越後、守山、鳥取、松江、三次
地坪 今治、松山、大洲
地秤 福山、広島、長門
地平均 越後、今治
地均 摂津
地並 大和
地概 名古屋、広島
地撫 熊本

地方によって「地面をならす」言い方や意味も違っていたのではないかという話である。

ドルと漢字で表すのに「弗」を使ったのは日本。これが中国や韓国にも伝わったが逆に日本では使われなくなった。日本の労働も伝わったが、日本の影響を排する方向で見直され、韓国では「勞動(のどん)」、中国では「ラオドン」と人編が取り去られた。牛丼の吉野家が進出することで、丼の字が広まっているという。超人気の超も中国の若者が使い始めているという。中国から伝わった漢字が日韓中で交流している事例である。

漢字は表記のためだけではなく、考えるためにも重要だと思う。
日本の漢字 (岩波新書)
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異形の王権 網野善彦 ****

2011年09月14日 | 本の読後感
後醍醐天皇を「異形の王権」と表現、ここで日本の文化の変曲点が見られる、東西文化の違いの変曲点でもある、という主張。そして異類異形の民について、14世紀までは差別対象とはなっていなかったのが、これ以降、徐々に差別対象となっていったこと、その差別には東西における違いが大きかったことなどを上げている。絵巻などから読み取れる人々の「しぐさ」や飛礫などにも着目、女性の片膝立て、扇子格子越しに見るしぐさ、飛礫合戦などの歴史と意味などについても解説している。天皇や将軍がいつ死んだとか、戦争がいつ起きた、などという歴史よりもずっとおもしろい。中沢新一が著した「僕の叔父さん 網野善彦」で書かれていた飛礫合戦に関する、中沢厚の著作も紹介されていて、網野善彦の歴史観を表からも裏からも知るようで愉快であった。

12世紀頃に描かれた絵巻には摺衣を着た人物や婆娑羅と呼ばれる異類異形の人物が登場している。禅僧の中には僧侶とは異なる風体で町を闊歩する輩が現れていた、これらを描いたものらしい。そしてそうした禅僧たちからも異類異形と呼ばれた被差別民たちもいたようなのである。乞食、非人、鉢供、唱門師、猿使い、盲人、居去、腰引、物イハズ、穢多、皮剥、諸勧進之聖などであり、これらの総称を異類異形としたのは16世紀にはいって書かれた豊国大明神祭礼記。12-16世紀のあいだに差別が広がったのではないかと推測できる。異類異形という概念が定まってくるのが南北朝時代であり、日本社会の構造自体を転換させた重要な画期だとしている。

京童という言葉は、童子人形のように子供の姿をすることで聖なる存在とみられ、人ならぬ力を持つと信じられていた存在から来ている。非人達が摺衣を着て放免として処刑に立ち会う、その放免が綾羅錦繍を羽織ったり童子が過差な衣装を着け禁制の対象となっていたことからは、非人と童子の近似性も指摘されるという。宇津保物語では「陰陽師、巫、京わらはべ、博打、翁、嫗」などと併記され、悪人を指名し、祭りの際に美しい服装で現れ自由奔放な動きを示した。いかなる悪口からも自由だったのが童子であり、京童の口遊は時の権力者を批判し風刺、笑い飛ばすことができた。二条河原落書はこうした童子によるものであり、大きな社会的影響力を持っていた。

ルイス・フロイスは日本では女性は夫に知らせず好きなところに行く自由を持っている」と書いた。また、「処女の純潔を少しも重んずることはなく、それを欠いても名誉も失わず結婚もできる」とも解説している。これは中世の女性たちが旅行をしていたこと、遊女や傀儡師などの社会的地位とも関係するのではないかと指摘している。女性の旅行も金目のものを持たなければ安全であり、性的自由も相当大きかったのではないかと推測する。この頃の女性の座り方は片膝立てであり朝鮮女性の現在の座り方にもみられる。絵巻物からよみとれるこうした風俗は歴史的に瑣末なものではなく、中世庶民の生活を知る上で重要な手がかりだという主張である。

扇については、扇売りには女性が多かった、扇が性的呪術的な力を持っていたという説もあり、外からの悪霊、穢を防ぐという考えから、日常見てはならない場面や物に町で図らずもであってしまった場合に扇を目の前にかざす、というしぐさをしたのではないかと言っている。そうすることで人は一時的に別世界の人間になり得た、というのである。絵巻には柿帷子の人物、白い布で頭部を巻いている人物なども登場する。こうした異装も同じ意味を持ったのかも知れないという。しかしそれらが後に非人や乞食の服装となった、これはこうした服装をしていた非人たちが元々は聖なる力を持っていると考えられていた存在から差別される存在に変化したとも考えられる。柿色は江戸時代には歌舞伎の引幕に用いられ黒・柿・白(萌黄)と真ん中に位置づけられている。遊女屋ののれんは柿色であった。

飛礫については中沢厚が次のように分類している。
1. 子供の遊びとしての石合戦
2. 祭礼・婚礼などハレの行事にあたっての石打
3. 一揆・打ち壊し・騒動などにおける石礫
4. 手向けの飛礫、天狗礫など超人的なものに関わる飛礫
5. 忍者の飛礫
6. 目明しの飛礫(銭形平次)

後醍醐天皇の時代、天皇の地位は危機を迎えていた。鎌倉幕府成立後、天皇家の支配権は東国には及ばず、モンゴル襲来以来、九州でも幕府の支配が強くなり、公家の勢力は西日本に限定され、古代以来の天皇制瓦解の可能性すらあった。しかし同時に10世紀以降12-13世紀は摂関政治、院政であり天皇の存在は軽かったとされるが、公卿合議体の機能低下に対して、天皇家と摂関家の主導権が相対的に強化された。この頃呪術的な威力を持つ供御人、神人、寄人などの商工民、金融業者の活動は活発化し、異類異形を排斥する勢力に反発する動きと勢力復活を狙う後醍醐天皇を始めとした天皇家が結びついたのが異形の王権である。密教の呪法、異類の律僧、異形の悪党、非人などを動員して天皇専制体制を確立しようとした。洛中の神人に対する寺社の公事賦課を停止、神人の供御人化のための神人公事停止令を発した。京都に集中していた商工民を天皇の直轄下に置こうとした。大寺院はこれに抵抗、第一次倒幕計画は挫折するが、1331年の挙兵まで不撓不屈のあらゆる手段を講じて権威の回復と誇示に努めている。配流された後にも倒幕を目指し実現、天皇の地位を復活させたとも言える建武の新政が始められた。しかし3年でこの王権は没落、東の鎌倉幕府と西の王権が瓦解、社会は大混乱に陥った。南北朝動乱であり、60年にわたって日本中が混乱した。

東国社会は鎌倉から江戸幕府への流れの中で時代区分されている従来の歴史観でまとめられるが、西国の公家社会の歴史区分はこれらと異なるのではないかと指摘している。新井白石は公家については後醍醐天皇までで一旦区切り、南北朝動乱は西国以外では大きな混乱ではなかったとする。東国においては供御人、神人、寄人などの活躍も見られず、穢に対する忌避観も東国では西国に比して希薄であるという。被差別部落の分布が沖縄を除く西国中心であり、東国や北海道には西国ほどの分布が見られないことはこうした歴史と無関係ではないという分析である。

「東と西の語る日本の歴史」でもこのような歴史観は示されている。被差別部落の歴史と中世社会の東西相違と南北朝動乱を境にした東西分断についてはさらに突っ込んだ研究を期待したいのだが、網野善彦はもういない。
異形の王権 (平凡社ライブラリー)
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日本兵捕虜は何をしゃべったか 山本武利 ****

2011年09月13日 | 本の読後感
東日本大震災後、日本に帰化したドナルド・キーン教授は太平洋戦争の時に、日本兵の書いた日記を翻訳する任務を受け持っていたと書いていた。米国は日本兵が日記を書かせられていることを知り、戦場に放置されている戦死死体から日記を始めとしたドキュメントを入手、分析してその後の情報分析を行っていた。捕虜は玉砕の強制、投降禁止から少なかったが、捕虜になった日本兵は当初口を開かないものの、食糧や医薬品を与えると、こうした厚遇を期待していなかっただけに逆に米国軍に協力的になってくる傾向があった。こうした捕虜からの情報はその後の戦闘で非常に役立った。米国では日系二世兵、白人でも日本語を学ぶ兵隊を特別に育成、ATISという組織として前線に送り込んだ。ドナルド・キーンはそのATISの一人だったのである。

筆者は、アメリカ国立公文書館(NARA)に残されている海軍資料からこうした文書資料を読みさがして日本人の日記、捕虜による軍事機密漏洩の実態をつかもうとした。1942年のガダルカナルから1945年の中国戦線の推移、そこでの日本軍からの軍事機密漏洩の経過が豊富な事例からたどれたという。日本本土では兵士から母や恋人への通信内容の検閲に神経を尖らしていた日本軍が、前線の戦死死体からの情報漏えいを見逃していたことは大きな失敗であると言える。そして米国軍はそこからATISが情報を得ていることを日本軍が察知することをおそれこうした活動を秘密にしていた。諜報戦、情報戦でも大敗していた、という筆者の分析である。

1942年ころは捕虜の数は少なかったが、ガダルカナル撤退から捕虜の数が急増した。情報将校は次のような手順を踏んだ。
1. 捕虜は当初は拷問、処刑を恐れているので、最初に口述される内容はでたらめである。
2. 待遇、食事が良いと感じると感謝の気持ちを抱くので、米国軍に協力の気持ちを抱き始める、この時の尋問内容は信頼できる。
3. 10日くらい経過すると親切な扱いに慣れてくるので尋問をはぐらかしたり無関心になるので、後方の収容所に送ればいい。

陸軍のほうが海軍よりも協力的、軍事施設の情報をよこさないと、無差別な攻撃をするので女性や子供が犠牲者になる、などと他人への迷惑をほのめかすと協力的になる、天皇を貶す言葉は絶対避けるべきである、捕虜への暴行は愚の骨頂である、日本軍に捕虜となったことを知らせるぞ、日本に送還するぞ、などという脅しは非常に有効である、などの日本兵の心理を知り尽くしたようなノウハウが蓄積されたという。母国人に捕虜となったことを知られたくないために外国への移住を希望する兵隊も非常に多かった。

アメリカ軍は玉砕的攻撃を初めて見た時も驚いたが、このように米国軍に協力的に転向する日本兵にも驚いた。これは自殺の意思の裏返しであった。平時の訓練で自主的な思考を排除されて来た兵隊たちは、軍隊に入って初めて受ける厚遇に驚き、そして協力的になるという一律的な硬直的行動をとった、という分析である。戦争前に米国の進んだ文明に憧れていた兵士も多く、実際に食糧、医薬品などを目にして、一気に進んだ文明に傾斜する、という戦後も見られた日本人一般にみられる傾向をすでに戦争中から見せていた。このことは戦後GHQによる占領政策に大いに生かされたという。日本兵の尋問で分かったリーダーへの信頼感を米国軍が分析した資料がある。

天皇 信頼感8% 不信感0%
政府リーダー 信頼感18% 不信感 5%
軍部リーダー 信頼感8% 不信感19%
マスコミ 信頼感16% 不信感 21%

天皇への不信感を抱く兵隊は居ないが、信頼感もそう高くはない。これは戦争教育で天皇崇拝を否応なく叩きこまれた結果であろう。

政府リーダーへの信頼感は意外に高いが軍部リーダーへの不信感は信頼感を上回る、これが米軍による分析であり、これに従って尋問も進められた。さらに戦後の占領政策もこの情報に従って進められたために、天皇は象徴とする、という方針がマッカーサー元帥によっても取られたという。戦後の日本人が進んで占領軍に情報提供したことは想定済みであった。また、戦争の責任を軍部、財閥にかぶせて、占領に反対する勢力である旧権力者や左翼の活動を押さえ込んだという。

「日本文化は罪ではなく恥の文化である」とした「菊と刀」の分析の元ネタはこうした日本人捕虜への尋問であった。日本人は儒教意識が強い家族制度や学校教育、終身雇用制度によって国家、地域、職場、家庭などに縛り付けられている。その上に教練、戦闘などで軍隊に隷属させられ、戦陣訓や軍人勅諭で武道精神、集団規範が重くのしかかり、異端を許さない均質社会のイデオロギーが日本人全体に行き渡っていた、という分析であった。アメリカは占領後、こうした日本社会の改造には手を付けなかった。アメリカの占領、その後のアメリカの政策遂行に好都合だったからである。常にアメリカに追いつくことを行動目標にすることで日本人に敗戦という国辱をわすれさせ、一億総捕虜の状態から脱却させんとした、という筆者の分析である。1980年代に日本経済がバブル形成をした後にも、日本企業買収、経営者のヘッドハンティングなどでアメリカ企業の支援を支えていたのがこうした日本研究の成果だった、というのだ。こうした認識を持って、日本の占領状態を脱することが米軍の捕虜である状態を脱することにつながる、という筆者の主張である。

うーん、そこまで行くか、という主張であるが、何か権威があるものに頼りたい、という日本人の意識は「漢の倭の奴の国王」、仏教伝来の昔からあった。唐の国伝来の曼荼羅による真言密教、以仁王の宣旨による頼朝挙兵、「先の副将軍、水戸光圀公なるぞ」、錦の御旗、などなどである。明治維新以降、日本政府は世界の一流国と認められたい、ということから捕虜を厚遇したが、日清日露、第一次大戦を経て、一流国になれたと慢心したために、その後捕虜の扱いを決めたジュネーブ条約を批准しなかった、という説もある。日本人は千数百年の歴史の中で、「慢心」と「恥」を行き来しているようにも思える。内田樹は「日本辺境論」を書いたが、日本はいまだ「辺境」なのであろうか。
日本兵捕虜は何をしゃべったか (文春新書)
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飢え死にした英霊たち 藤原彰 *****

2011年09月12日 | 本の読後感
日本の軍隊は兵隊たちの命よりも、作戦遂行を優先していた。そのため、戦死者の殆どは実は餓死者だったのだ、というドキュメントから調査した報告書である。第二次世界大戦での日本人戦没者数は310万人、軍人は230万人が死んだとされる。この戦争では餓死、病死によりどれだけの戦死者がいたのかの数字がない。これを調べてみようという試みである。

まずは有名なガダルカナル島、別名餓島である。1942年8月から43年1月の戦いから撤退を指揮したのは今村均大将、回顧録によると「大本営直轄部隊3万の将兵中敵兵火に倒れたのは5千、餓死したもの1万5千、1万が救出された。制空権も補給もできない島に陸軍を送り込んだ軍部中央部の過誤である。」この時の参謀本部作戦課長は服部卓四郎、全く兵隊たちの命に重きを置かない作戦であったという。まずは先遣隊に千名の一木支隊をあて7日分の糧食をもたせ、白兵戦で突撃を命じた。戦車や重火器を持つ米軍に全滅させられた後も、川口支隊に続けて第17軍を今村均大将のもとに送り込んだのである。南太平洋の日本軍戦略基地ラバウルから離れること1100Km、制空権、制海権がない中での攻撃であり、重火器や食料を持てない鼠輸送という駆逐艦による輸送で兵隊を送り込んだのである。降伏を許されず死ぬまで戦うことを義務付けられた日本の兵隊たちは食料がなくなって敵に追われて森林をさまよい次々と餓死していった。次のように言われたという。
立つことができる人間は寿命30日。
身体を起こして座れる人間は寿命3週間。
寝たきり起きられない人間は1週間。
寝たまま小便をするのは3日間。
ものを言わなくなった人間は2日間。
またたきをしなくなれば明日死ぬ。
ガダルカナル以降も餓島の教訓を活かせず、補給困難な島々に兵力を送り込んで飢餓の悲劇を繰り返した。

ポートモレスビー攻略戦では大本営参謀の辻政信が作戦を指揮した。4000mを超える山を徒歩で越えて図上距離220Kmの島の反対側にあるポートモレスビーを攻略するという作戦である。実際の徒歩距離は360Kmあったのだが、兵員一人が運べる食糧は25Kg、1日平均担送距離は20Kmとすると、一日の必要食料600gを補給すためには32000人の補給要因が必要となる、実現不可能な作戦であった。しかし辻は大本営には問い合わせることもなくこの作戦遂行を命令、その後これが辻の独断であったことを知った大本営の服部卓四郎までが辻の独断専行を追認した。この作戦にはじめから参加していた南海支隊の人員は5586名、補充人員1797名、消耗人員5432名、残人員1951名であった。戦死者は3割、餓死者が7割というのが死者の内訳であった。辻は作戦指示をした後に日本に戻っている。

インパール作戦を構想し指揮したのは牟田口廉也司令官、危険で無茶な作戦だとする意見が多い中で、南方軍総司令官寺内寿一はこれを認可した。そして杉山参謀長までもが同調したために作戦は実行されることになった。盧溝橋事件を指揮したのもこの牟田口廉也、強硬論、積極論が常に慎重論に勝ったのが日本軍の論理であった。携行食料2週間分をもって進軍を開始した日本軍に補給はなく、すぐに立ち往生したが、補給を求める司令官を次々に消極的だとして罷免、「米一粒も補給がない」として独断退却をした佐藤幸徳中将は軍法会議にかけられた。インパール作戦だけでの死者は不明、ビルマ戦線での総兵力は30万3501名、戦没者は18万5149名、帰還者は11万8352名であった。参加した中隊の病死者率が78%程度だったことから推測すると、ビルマ戦線での病死者は14500名程度であったことになる。

太平洋の離島には置き去りにされた兵隊たちも沢山いた。マリアナ諸島を島伝いにサイパン、グアム、テニアンと上陸を果たした米軍は無駄に戦死者を出さないために、後方にいる日本軍を放置した。放置された島の多くは珊瑚礁の島、農耕には適さず食料生産ができない上に補給もないという状況になった。ウォッゼ、ミレ、ヤルート、ナウル、メレヨン、大鳥島、南鳥島などに12万名以上の兵隊が残され食料補給が絶たれたのである。最も悲惨だったメレヨン島では戦死者307名、病死者4493名、生還者1626名であった。将校の生還率は67%、下士官は36%、兵隊の生還率は18%であった。しかしこうした状況でも降伏は出来ず、食料統制のために食料盗難には制裁も行われたという。

戦場別で最も多くの戦没者を出したのがフィリピン、50万人の戦没者のうち40万人が餓死者だったと推測できるという。中国本土では戦没者数が45万、このうち22万7800名が栄養失調による病死者だった。その他の地域では沖縄89400名、小笠原諸島15700名は玉砕したのでほとんど戦死、ソ連、満州などでは死因の2割が餓死と見て21000人が餓死・病死とみる。これらを合計して、集計すると栄養不足、餓死、病死者は127万人、全体の戦没者212万の約6割が餓死・病死であると考えられるという。

馬も犠牲になった。帰還した馬は一匹もいないという。中国とその南方大陸で50万頭、日中戦争以来を合計すると100万頭が犠牲になったと推測できるという。

南部仏印進駐時点で大本営参謀本部で責任が重いのは田中新一第一部長と武藤章軍務局長、服部卓四郎作戦課長、真田穣一郎軍事課長、その後作戦課にはいるのが辻政信であった。特に服部、辻のコンビは兵員への食料補給を考慮せず、飢餓を承知で作戦を遂行した。玉砕の放置は参謀本部の人間の命の軽視の表れであると指摘する。また火力軽視で白兵主義は旅順やノモンハンでの反省を活かせず、精神主義をかざしたままで米軍への突撃を命じたのはこうした陸軍のエリートである参謀たちであった。

こうした精神主義は陸軍幼年学校、士官学校、陸軍大学校でのエリート教育で培われた。そこでは輜重兵や砲兵、軍医兵などが差別される現実もあり、歩兵が第一とされる教育であった。筆者は幼年学校の問題点を次のように整理している。
1. 12歳で入学する幼年学校での軍人教育は偏狭な軍国主義者を育てた。
2. 全寮生活でエリート意識を植えつけられその他中学卒業生を排他した。
3. 軍隊に不向きな生徒もエリートとして育成された。
4. 外国語が仏露独の3ヶ国語であり、英語が排除され、米英国力を見誤る原因となった。

降伏の禁止と玉砕の強要は日本の捕虜政策が日露戦争後転換したことと関連する。日露戦争後の捕虜は国際法に基づいて厚遇されたことは有名であるが、第一次世界大戦での捕虜扱いに関し、軍内部から厚遇すぎるという批判が起きた。明治には世界の一流国と評価されたいという期待から文明国並みの扱いを捕虜に対しても行うことが行われたが、第一次大戦で、日本はすでに一流国となり、文明国から学ぶべきことはもうない、と慢心することになったことが原因である、と筆者は分析する。捕虜の扱いを決めた1929年のジュネーブ条約に批准しなかったのがその現れであったという。中国人への差別的心理が中国人捕虜への取り扱いでも現れ、1933年に陸軍歩兵学校が頒布した「対支那軍戦闘法の研究」では、中国人捕虜は戸籍を持たないので死んでもよくわからないのであるから殺害や他の地方に連れていっても問題はない」と記述していたという。南京大虐殺はこうした中国人蔑視が根底にあった、という指摘である。

第二次大戦の日本軍にあった問題を抉り出したような著作である。軍人勅諭、戦陣訓、降伏の禁止、捕虜の扱いなどについても調べてみようと思う。

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報道災害【原発編】 事実を伝えないメディアの大罪 上杉隆、烏賀陽弘道 ****

2011年09月11日 | 本の読後感
記者クラブ、という存在そのものに報道の抱える問題の根源的な原因があるとするのが上杉隆、その考えに共鳴し今後の日本のメディアに物申す烏賀陽弘道。記者クラブは警察や各省庁が報道機関のために設置する控え室と記者会見場所。フリーランスや外国人記者などは排除されているらしい。どこまでが本当のことなのかは今後調べていきたいが、本当であれば由々しき事態、検証しながら読み進めよう。

福島原発から発生している放射能はどの程度の健康被害や農作物被害を与えるのか、チェルノブイリの例があるのだからそれを引いての国民への説明はもっとあってもいいのではないかという指摘。当初、東電からの発表では格納容器は健全に保たれている、というものであったが炉心溶融がおきてメルトダウンにより格納容器の底を突き抜けてコンクリート部分まで達しているのがわかった。この状態で放射能濃度は減少することは期待できないという。

政府による避難地域は20Km以内は立ち入り禁止、しかし各報道機関は独自に避難区域を設定した。NHKは40Km、朝日新聞は50Km、時事通信は60Km、その報道機関が政府と東電による発表をそのまま流しているのは矛盾しているのではないかという指摘である。当初の報道で30Kmより外であった飯舘村の人たちは避難しなかったが、県内で一番濃い放射能が降った。

日本における原子力発電への依存度合いは30%程度、火力は50%、この時(3月末)の東電の説明は「火力発電所が地震で11基壊れました。2基直りました。今は9基壊れています。あとは休眠中、調整中のものが何基かあります」この休眠中や調整中の基数を言わなければ全体はわからないではないか、という指摘である。400万Kw不足しているという説明だったので、調整中の火力発電所で一番大きなものはどこか、と聞くとそれは鹿島で380万Kw、週明けにはなんとかなる見込みです」と回答したという。じゃあ何とかなりそうですね、と詰め寄ると、4月になりますとメモが入って言い直した。さらに380万ではなく320万でした、と訂正した。嘘があると調査したら、火力発電所を8カ所、検査中として止めていた、これらを動かせば計画停電など必要なかったのである。

上杉隆は記者クラブの問題を取り上げ、自由報道協会、というもう一つの記者会見を主催する団体を2011年1月結成した。そこで行った記者会見が小沢一郎、ホリエモン、孫正義である。報道する内容の問題と共に、報道されないことに大きな問題が含まれているという問題意識からである。同様の疑問を持ち記者会見を嫌う小沢一郎が賛同してくれた。アメリカでC-SPANでやっているような国会TVを作ろうとしたら、郵政省と記者クラブに潰されたという。記者クラブによる情報独占が崩れてしまうからという理由らしい。

アメリカの新聞はNYタイムズでもワシントン・ポストでも署名記事は記者による報道であり、新聞社が内容すべてをエンドースしているわけではない。それを日本のメディアは「NYタイムズの報道では」とか「ワシントン・ポストによると」などと引用する、これはオカシイ、という指摘。

記者クラブの問題の一つが、発表をそのまま載せてしまうこと。例えば、東電による3.11以降の工程表、6-9ヶ月で見通しをつける、という内容であったが、本当に9ヶ月で今回のような大災害の見通しがつくのだろうか。しかしすべての新聞社の一面を飾ったのは発表そのままの工程表の内容であった。本当に実現できるのか、なぜ9ヶ月でできるのか、という検証が取材者には必要である、という指摘である。質問力と発表を疑う姿勢が欠けている。アメリカの教育でやっているディベート教育をやっていない、という日本の教育の問題点が露呈しているのではないかという。日本ではそもそも報道の自由が軽んじられている、という。多様性に価値をおかず、皆が同じ考えであれば安心する、これを英語ではUniform mentalityという。制服を着て過ごす中学高校での教育に問題があるという主張である。

アメリカの記者たちに、報道において何が重要か、と聞くと、「フェアネス(公正)、インデペンデンス(独立性)、オブジェクティビティ(客観性)」という。

Webなどでは「嘘つき」呼ばわりされている二人であるが、こうした指摘や主張にも真実は隠されているのではないか、よく調べてみよう。報道災害【原発編】事実を伝えないメディアの大罪 (幻冬舎新書)
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「脳」整理法  茂木健一郎 **

2011年09月09日 | 本の読後感
筆者2005年の著、気力が萎えている時に読めば、元気がでるかも。

1972年、ローマクラブは「成長の限界」というレポートを発表、天然資源の限界を超えては経済成長はできないと指摘、同じような成長の限界が、おびただしいデジタル情報に取り囲まれた人間にも訪れているのではないか、私たちの脳は悲鳴をあげている、という問題意識である。脳は本来、より広く世界のあり方を理解認識し、その中での生き方の知恵を支えるもの。そのために、世界との交渉の中で得た体験を整理し消化する臓器として進化してきた。それが生活知、世界の仕組みとして学び取った体系が世界知と呼ぶ。生活知と世界知を活かす中で避けられないのが不確実性、その中でより良く行く抜くためには整理が必要だという。

人生は一回性の経験の積み重ね、一回しか起きない出来事から得られる体験を整理していく働きが脳の働きであり、一回の出来事は半ば規則的、半ば偶然であるという偶有性に満ちている。生活知は世界知とは無関係ではありえないが、矛盾したことも起こり得る、世界知と生活知を結ぶのが脳であり結節点である。統計的データは世界知の一つではあるが、自分にも当てはまるかどうかは偶発的である。世の中が進む時間と自分が行きている時間は異なり、自分の時間は自分の誕生で始まり死で終わる。自分は自分の時間に閉じ込められながら、世の中の時間軸で世界知を語ろうとする努力、それが宗教的、哲学的概念を生み出してきた。

情報社会ではITが主要な働きをしているが、ITは森羅万象をデジタル情報に置き換え、平等に表現することで割りきろうとしている。世界知を生活知に置き換える際に単純化する、という方法があるが、ITは平等化により割りきろうとしている。ITの源流は自然科学、自然科学の試みは森羅万象を分かりやすい概念に置き換え、割りきって理解しようとする試みであった。しかし、人間には割り切れない思い、というものがあり、人間の存在のありかたをITで割りきろうとすれば反発にあう。民放番組などで「分かりやすい」という切り口を求められる場合が多いが、多くの人が理解しやすい、という面がある一方で、それは一つの割り切りであり、割り切れない側面もあることを忘れてはならない。その部分を結節させるのが脳の整理である。

脳は外界からの情報が入力されなければうまく働かない。外界からの情報が遮断されると、脳は幻覚を生み出して偽装する、つまり感覚遮断すると言われている。広い世界からどのような情報が入ってくるかは予想できないので、予想できない情報を処理することこそが人生である。恋愛は自己完結できないイベントの一つである。予測できない反応があるからこそワクワクするのであり、恋愛が成就する確率は30-50%、などと言われてもピンと来ないのは、恋愛は確率論では予想できないことを誰しもが知っているから。恋愛占いがあるが、科学が偶有性を扱いかねている現状の間隙をついた世界知と生活知の統合の試みである、という。確実に不幸になる方法はあるが、確実に幸福になるという方法はない。生き物にとっての最大の不幸は秩序がなくなるエントロピーの増大である死、生き物にとっての幸福は無秩序に抵抗することでしか生まれない。熱力学の第二法則に抵抗することが生き物にとっての幸せの出発点である。

セレンディピティは偶発的な出会いが幸福につながる、というもの。セレンディップの三人の王子が旅する中で自分たちが求めていたものではないものに出会い、そのような偶然の出会いから結果として応じたちに幸運をもたらしたという童話から生まれた言葉がセレンディピティ。偶然を必然にするのは行動、気づき、受容という人の姿勢がもたらすもの。果報は寝て待てではなく、行動をまず起こすこと、偶然の出会い自体に気づくこと、そして期待していない偶然に出会った時にそのことを素直に受容すること、これらがセレンディピティを産むというのである。幸運の女神には前髪しかない、と同様の話。

科学が到達した知的態度に「ディタッチメント」がある、客観的観察と理解、分析能力である。自ら主張したい方向に何とか持って行こうとするのではなく、起きた事象をディタッチメントの姿勢で評価してみることが重要である。ディタッチメントを経由した世界をありのままにみるための世界知、一方、自分というかけがいのない存在が生きるという生活知、世界知を生活知に近づけることが重要だという。

この本を読んでいて、原発問題とマスコミ報道を思い起こす。20Km圏内は立ち入り禁止区域、直ちに人体に影響はない、SPEEDIによる観測結果報道、メルトダウンは起きていないが炉心溶融の可能性はある、1mシーベルトを子供への影響基準値とする、などという報道を聞いて、こどもを持つ親はどう考えてどう行動したのか。世界知と生活知を脳の整理でどう処理するかという究極的な判断を迫られている。チェルノブイリ並みの原発事故であり、6-9ヶ月では収束できないと予想されるのに、東電が発表した工程表は修正されていない。9ヶ月後には福島の人たちは自分の家に帰れるのか、10年は掛かるとしたら、家を捨てる判断をしなくてはいけない。脳の整理が迫られる究極のケースではないか。
「脳」整理法 (ちくま新書)
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農耕社会の成立 石川日出志 ***

2011年09月07日 | 本の読後感
縄文時代から弥生時代への移行では、大陸から農耕技術をもった渡来民族がきて縄文人を北海道と沖縄を残して駆逐した、という考えがあるようだがそれは違う。縄文時代の生活様式を残しながら、灌漑稲作という文化を取り入れ、しかし季節や気候により不足する食糧は漁労や狩猟などで補った。稲作が難しい北海道と沖縄では稲作が伝えられた後にも縄文時代の食料生産を継続、決して両地方が文明的に遅れたのではなかった、という主張。

岩宿遺跡から出土した石器からそれを後期旧石器時代のものとし、その時代の終わりを約1万年前、旧石器時代の終、縄文時代の始まりと定義する。それ以前の発掘物は確認できていないという立場をとり、前期中期の旧石器遺跡からの出土物は捏造だったとする。

旧石器時代は更新世にあたり、約250万年から1万年前に相当するため氷河期であり、寒暖を繰り返しながら基本的には寒冷な時代であった。約2万年前は一番寒く、現代よりも平均気温で6-7度低く、海面は現在よりも120m低かった。そのため、宗谷海峡は陸続きでシベリアから歩いて北海道まで達することができた。津軽海峡、対馬海峡は閉じることはなかったが非常に狭くなり対馬海流が流れ込まなくなった日本海は巨大な湖となっていた。東シナ海の大陸棚には多くの人類遺跡があるに違いないと類推する。更新世の人骨は静岡県浜北、港川や山下町洞窟の沖縄本島の資料があるが石器は発掘されていない。

灌漑稲作が始まった時期を弥生時代の始まりとするのが本書の立場、しかし弥生時代になって急に稲作一辺倒になったわけではなくて、利用されていた食物は、夏にはどんぐり、胡桃、クリ、トチノキなどの秋の堅果類、夏は桃、ひょうたん、マクワウリなど、それに豆類や麦類などの畑作物が組み合わされていたと見る。稲作が伝わっても、秋に来る台風や日照りなどで収穫量は上下するため、その稲作の弱点を補う必要があったという。同時に漁労も継続的に行われていた。

北九州の三雲南小路遺跡は現在の糸島市、ここは怡土郡と志摩郡が合併した地名で、もとは怡土郡、魏志倭人伝の伊都國の読みが現代まで引き継がれている。須玖岡本遺跡は春日市にあり、奴国の領域内だったと考えられている。この二つの遺跡の副葬品は魏志倭人伝で伝えられる伊都國と奴国の王の墓と呼ぶにふさわしい内容である。甕棺一基、前漢鏡30面、というのは楽浪郡との密なる交渉なくしては考えにくいという理由である。それ以外にも銅矛、銅剣、銅戈が伴う。

九州から本州が縄文時代から弥生時代に移行した段階の北海道は続縄文時代文化、沖縄は後期貝塚文化と呼ぶ。オホーツク海岸では海獣の狩猟、漁労を主たる生業とする集団が南下、東北系統の擦分文化とが混交してアイヌ文化が形成される。沖縄では、大陸と九州との交易が盛んであり、グスクという城壁狀の政治的・宗教的施設が特徴的なグスク時代をへて琉球王国を形成した。

邪馬台国論争に関しては、考古学的に見て弥生中期から後期に北九州で最有力であった地域は奴国と伊都國の領域であるにもかかわらず、伊都国は「世々王あるも、皆女王国に統属」と記述されていることから邪馬台国所在地には九州以外のいずれかの地域を考えざるを得ない、と見ている。九州で最有力の国よりもさらに有力な国があったのだからそれは九州ではなかった、という論であり、古墳の分布からみて近畿だったとみる。奈良盆地南西部には纒向型と呼ばれる前方後円墳墳丘があり、纒向遺跡や箸塚遺跡、桜井茶臼山古墳が重要な位置を占めるとしている。

弥生時代を「灌漑稲作農耕が始まった時期」とする本書によれば、弥生時代は地方によって年代が異なることになる。日本列島は南北に長く、歴史を一律の時間区分で区切って一律に議論することは無理がある、というのが本書の立場である。
農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 (岩波新書)
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江戸時代の民衆思想 布川清司 **

2011年09月06日 | 本の読後感
江戸時代の百姓たちは、時の為政者が悪政を敷いたとしても、無言の抵抗しかしなかったのではないか、というのは間違っているとした。仁政、平等などに関しては農民層でも一定の思想があり、不服従の態度を、さらに深めて、近隣村民による強訴や一揆などでは声を上げて抵抗したという実証集である。

江戸時代の身分である農民では大きくは政治的身分と社会的身分があった。村役人と村民、本役人・半役人と無役、高持と水呑などは政治的身分。本百姓・子百姓、門屋・借屋・脇屋・作人・地借り・家抱・譜代下人などは社会的身分である。政治的に年貢や賦役を一軒分負担する百姓とそうではない百姓では村落内で一人前と認められるかそうではないかで大きな差があった。これらは畿内農村では本百姓と子百姓という呼称で代表される。

17世紀前半には本百姓のなかには菜種や棉などの商品作物栽培に成功して経済的実力を蓄積し、中世から続いていた小領主的本百姓は没落、本百姓内の平等が進んだ。このため、経済的身分が高く、政治的には高くはない百姓とその逆の立場の百姓が生まれた。こうして百姓の間では家格や伝統ではなく経済的地位で身分が決まるように変化してきた。この変化に伴い、呼称も高持と水呑という呼び方に変わってきた。近世的平等思想が広がったと評価できる。

近世百姓の経済的生活で顕著なのは自らが生産した商品作物を自由に自分の判断でより利潤の多い方に売ったり、加工されて戻ってきた生産物を誰からも買えるのか、とい手広売買が許されるかどうかであった。この思想は江戸時代にいずれの地域でも共通して争われたという。当初は、村内の商家から日常必要品を買い、柿、楮、たばこなどの収穫商品と交換して掛売決算をするのが慣習であったが、この商売に関して、農民側の手広売買を認めるように、という訴訟が起こった。多くの場合、農民にこれを認めるという判断がなされ、そうでない場合には百姓側は不服従の態度を取り、訴えを主張した。農民たちは自分たちの倫理観に合致しないと判断した場合には徹底的に抵抗したのである。

農民的倫理観とは何だったのか。
1. 仁政の要求:為政者としては民生安定と正義実践を求めた。
2. 百姓がこの国の生産を支えているのであり、被治者である百姓こそが大事にされるべき。
3. 多くの百姓が同様の要求をしていること。
民衆中心主義ともいえる思想である。

江戸時代には百性に対する生活統制があった。衣食住の制限と冠婚葬祭の倹約である。何度も倹約令が出されているところから、これらが守られていない、という実態がわかる。茅葺屋根で床なし、土間、ねこだ(藁で作ったむしろ)敷き、簀子の上にねこだを敷き、良くてもその上に2-3枚の縁取りゴザがある程度、というのがお触れである。百姓は倹約令がでても、それらは当座のこと、として従わなかった。普段の食事は一汁一菜、冠婚葬祭でも一汁三菜に留めるべし、とされたがこれもあまり守られなかった。商品作物栽培も統制されたが、桑、養蚕、煙草、楮、漆、製紙、樹木などを栽培し収入増加に励む百姓が多かった。

不服従の論理には百姓の倫理的価値観があった、というのが筆者の主張、為政者が変わっても自分たちの価値観は変わらないぞ、というのは現代にも通じる庶民感情である。江戸時代の民衆思想―近世百姓が求めた平等・自由・生存 (三一新書)

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絶滅恐竜からのメッセージ―地球大異変と人間圏 松井孝典 ****

2011年09月05日 | 本の読後感
6500万年に巨大な隕石が落下したことで絶滅したと言われる恐竜、隕石落下による何が恐竜を滅ぼしたのか、隕石の痕跡はあるのか、隕石落下が引き起こした地球規模の環境擾乱はどのようにして現在のような平衡状態に達したのか。CO2による温暖化、と言われる現在の環境変化は人類が農耕を始めた時に始まったとすれば、どのようにして平衡状態に戻れるのだろうか。

1883年に大爆発した火山島クラカトアによる噴出物が成層圏に達して2年以上にわたって地球を覆い気象異常を起こした。この時の数値をベースに、白亜紀と第三紀との間に堆積層として存在するK-T層と呼ばれるイリジウムなどの地層を作り出した隕石の大きさを試算したのはアメリカの物理学者アルパレス。計算結果は隕石の大きさを10Kmプラスマイナス4Km、秒速20Kmで衝突という。確率は3000年万年に一度、隕石によって成層圏に上がったチリの量はクラカトア火山の1000倍。太陽光の透過率は1000分の1になり、満月の夜の10%の明るさになったという。植物は光合成ができなくなり、数年も続けば食物連鎖が底辺部分から破壊される。大量の餌を必要とする恐竜を始め、多くの生物は大絶滅したはずだと推測した。しかし、そのためには地球上のどこかにその隕石によって残された直径200Kmにもなるクレーターがあるはず、その痕跡を探すことが必要だった。この論文が発表されたのは1980年、それ以降、クレーター探しをするグループが世界中に現れた。

その時点で発見されていたのは20億年前とされる直径140Kmカナダのサドベリークレーターと南アフリカのブレッドフォルトクレーター、そして4000万年前と推測される直径100Kmのボビガイクレーターであり年代が合わない。6500万年前とされるウクライナのカメンスクレーターは直径25Kmしかない。1981年にユカタン半島での地磁気異常があり、隕石衝突のクレーターの可能性がある、という論文があった。そして1991年にアリゾナ大学ヒルデブランドらの惑星科学部が、ユカタン半島のチチュルブ・クレーター発見、という論文を発表した。

1985年、核の冬、というシナリオが考えられた。隕石衝突は核爆発と同じ環境への影響を与えるとの仮設である。冷戦時代に米ソが保有していた核爆弾の合計は25000発、TNT火薬で100億トンを超える爆発エネルギーである。これが爆発したとすると、北半球の中位度で夏至の気温が10-20度低下、夏でも氷温近くにまで下がる地域も出てくる。大気の循環が乱れ、太陽光は爆発の20日後でも正常時の20%以下、40日経過時でも60%にしか回復しない。オゾン層も破壊されるので農業は全滅、一年後には食料備蓄が枯渇する。しかし、このシミュレーションを隕石にすれば直径1Km程度のものとされ、直径10Kmの隕石はこの体積は1000万倍、大変な爆発が起きたという推測なのである。

松井孝典教授はチチュルブ・クレーターがあるとされる地点を中心に同心円を書くように15ポイントの深い穴を掘り、その地上から100mまでの温度変化を測定した。そして、中心に近い地点ほど地底温度が高いことを知った。これは、6500万年前の隕石落下の痕跡が今でも残っていることを示す熱異常だという。直径10Kmの隕石落下は地殻を破り、その下のマントル層に達し、マントルは地表地殻にまで出てきたと推察され、その時の熱異常が現在でも残存している、というのだ。そしてカリブ海に浮かぶキューバには6500万年前に起きた津波の地層があったのだ。ペニャルベル層と呼ばれるその地層では、6500万年前に起きた隕石衝突が引き起こしたと考えられる地層が200mにわたって積み重なっていた。落下後12時間で20m、20時間でさらに20m、4日後には140m、10日後には190mに達しているのだ。隕石衝突で直径200Km、深さ3Kmの巨大な空洞が海の中に生まれるので、巨大な空洞めがけて海水が押し寄せる。周辺の海には巨大な引き潮が生じる。巨大な水柱がそれらの海水のぶつかりによって生成され、その後押し波として周囲に押し寄せる。この時の津波は周辺の海岸には300-400mの高さ、波長は800mを超える波として伝播した。

隕石は落下時に大気によって1万度にまで熱せられる。対流圏にはスポッと直径10Kmの穴が開くことになる。周囲の物質はその空間に吸い寄せられる。衝突の爆風は69HP(ヘクトパスカル)、標準大気圧は1013HPなので大気が6.8%加圧される。これよりシミュレーションすると、爆風は秒速70m、半径1000Kmがその暴風域になったはずだという。現在で言えばニューオーリンズ、メキシコシティなどまでである。衝突の地震波はマグニチュード13、阪神・淡路大震災のM7.2の3000万ー10億倍である。震源を中心に100万平方kmにわたって壊滅的な破壊が起きる。この振動は地球の裏側にも影響を与え、その頃にああったインド大陸の東側には痕跡があるはずだと推測する。インドのデカン高原では6500-6700万年まえに大火山活動があったとされるので、チチュルブ・クレーターを作った隕石はそれに影響を与えたのではないかと筆者は推測する。

チチュルブ・クレーターが引き起こした地球規模の大擾乱も、長い時間をかけて地球環境に吸収され平衡状態に戻ったのである。地球はこうした擾乱を繰り返し経験してきたはずであり、地球という惑星の必然の歴史なのだという。今言われている環境問題は1万年前に人類がそれまでの生物圏から飛び出して人間圏とも言える新しい物質圏を作ったと言える。現在の環境汚染は人間圏という新たな物質圏が地球システムに組み込まれている現象である。「地球に優しい」などという発想からは根本問題は解決しない。人間圏は地球システムから一方的に搾取する存在である。縄文時代に戻るとしたら問題は食料、人口では1000万人ていどしか生存できない。CO2の増加は中生代にも見られ、光合成生物には都合が良いので深林が増える。逆に地球しレベルで見れば現在はCO2減少期であるともいう。

現在の環境問題を創りだしたのは人間圏であり、地球システムとしてはなんとか平衡状態に戻そうとするに違いない。今後1万年を人間圏が存続できるか、100年程度で破綻するかは地球規模の環境擾乱を今後どのようにして抑制できるかにかかっている。所有からレンタルへの発想転換が必要、というのが筆者の主張。地球から資源をお借りして生きているのが人間であるはず、自分のものにする、所有する、という欲望から離れることが必要だというのである。鎖国で閉鎖系として独立していた江戸時代の日本はこういう意味では理想的な人間圏であった。光源は行灯、燃料は菜種油、移動は徒歩、速くても馬、百年住むための家を作る木を百年かけて育てていた。人間が生物圏と共存、里山の発想があった。江戸時代の考え方がレンタルの発想であるという。今地球規模で起きているのは6500万年前に起きたことと同じレベルの変化である。
絶滅恐竜からのメッセージ―地球大異変と人間圏 (Wac bunko)
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