意思による楽観のための読書日記

農耕社会の成立 石川日出志 ***

縄文時代から弥生時代への移行では、大陸から農耕技術をもった渡来民族がきて縄文人を北海道と沖縄を残して駆逐した、という考えがあるようだがそれは違う。縄文時代の生活様式を残しながら、灌漑稲作という文化を取り入れ、しかし季節や気候により不足する食糧は漁労や狩猟などで補った。稲作が難しい北海道と沖縄では稲作が伝えられた後にも縄文時代の食料生産を継続、決して両地方が文明的に遅れたのではなかった、という主張。

岩宿遺跡から出土した石器からそれを後期旧石器時代のものとし、その時代の終わりを約1万年前、旧石器時代の終、縄文時代の始まりと定義する。それ以前の発掘物は確認できていないという立場をとり、前期中期の旧石器遺跡からの出土物は捏造だったとする。

旧石器時代は更新世にあたり、約250万年から1万年前に相当するため氷河期であり、寒暖を繰り返しながら基本的には寒冷な時代であった。約2万年前は一番寒く、現代よりも平均気温で6-7度低く、海面は現在よりも120m低かった。そのため、宗谷海峡は陸続きでシベリアから歩いて北海道まで達することができた。津軽海峡、対馬海峡は閉じることはなかったが非常に狭くなり対馬海流が流れ込まなくなった日本海は巨大な湖となっていた。東シナ海の大陸棚には多くの人類遺跡があるに違いないと類推する。更新世の人骨は静岡県浜北、港川や山下町洞窟の沖縄本島の資料があるが石器は発掘されていない。

灌漑稲作が始まった時期を弥生時代の始まりとするのが本書の立場、しかし弥生時代になって急に稲作一辺倒になったわけではなくて、利用されていた食物は、夏にはどんぐり、胡桃、クリ、トチノキなどの秋の堅果類、夏は桃、ひょうたん、マクワウリなど、それに豆類や麦類などの畑作物が組み合わされていたと見る。稲作が伝わっても、秋に来る台風や日照りなどで収穫量は上下するため、その稲作の弱点を補う必要があったという。同時に漁労も継続的に行われていた。

北九州の三雲南小路遺跡は現在の糸島市、ここは怡土郡と志摩郡が合併した地名で、もとは怡土郡、魏志倭人伝の伊都國の読みが現代まで引き継がれている。須玖岡本遺跡は春日市にあり、奴国の領域内だったと考えられている。この二つの遺跡の副葬品は魏志倭人伝で伝えられる伊都國と奴国の王の墓と呼ぶにふさわしい内容である。甕棺一基、前漢鏡30面、というのは楽浪郡との密なる交渉なくしては考えにくいという理由である。それ以外にも銅矛、銅剣、銅戈が伴う。

九州から本州が縄文時代から弥生時代に移行した段階の北海道は続縄文時代文化、沖縄は後期貝塚文化と呼ぶ。オホーツク海岸では海獣の狩猟、漁労を主たる生業とする集団が南下、東北系統の擦分文化とが混交してアイヌ文化が形成される。沖縄では、大陸と九州との交易が盛んであり、グスクという城壁狀の政治的・宗教的施設が特徴的なグスク時代をへて琉球王国を形成した。

邪馬台国論争に関しては、考古学的に見て弥生中期から後期に北九州で最有力であった地域は奴国と伊都國の領域であるにもかかわらず、伊都国は「世々王あるも、皆女王国に統属」と記述されていることから邪馬台国所在地には九州以外のいずれかの地域を考えざるを得ない、と見ている。九州で最有力の国よりもさらに有力な国があったのだからそれは九州ではなかった、という論であり、古墳の分布からみて近畿だったとみる。奈良盆地南西部には纒向型と呼ばれる前方後円墳墳丘があり、纒向遺跡や箸塚遺跡、桜井茶臼山古墳が重要な位置を占めるとしている。

弥生時代を「灌漑稲作農耕が始まった時期」とする本書によれば、弥生時代は地方によって年代が異なることになる。日本列島は南北に長く、歴史を一律の時間区分で区切って一律に議論することは無理がある、というのが本書の立場である。
農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 (岩波新書)
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