11世紀末からの院政の始まりを中世の始まりとする研究者が多い。1086年の白河上皇から南北朝を経て後円融天皇が死去する1393年まで300年院政は続いた。鳥羽天皇が退位して崇徳天皇が即位、鳥羽上皇となっても実権はもう一人の上皇である白河上皇が保持していた。実権を持つ上皇を治天の君と呼ぶ。この時代の天皇は治天の君になるための通過儀礼的地位であった。治天の君には白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇、後鳥羽上皇がなった。院政が都合がいいのは責任所在が曖昧にできる点であり、危機発生時にも権力延命が可能となった。安徳天皇が拉致され西海に沈んだ時にも治天の君であった後白河上皇は三種の神器抜きで後鳥羽天皇を立てることができた。しかし承久の乱では鎌倉政権は後白河上皇以下三人の上皇を島流しにして反鎌倉派を一掃した。
治天の君は守護を行う武家、護持を行う寺社、そして執政を行う公家、この3つの権力の上に立つものであったため、3人の上皇を遠島にできても、単なる東国国家であった鎌倉幕府には形式的な権力強奪までは出来なかったためである。また、一見対立するように見える3つの権力が実は協調して人民支配をする権門体制は荘園支配を行う寺社や公家にとっても好都合であった。治天の君を廃し天皇親政を実現できたのは1333年の後醍醐天皇であり、武士ではなかった。
天皇が司る祭祀にはどのようなものがあったか。神祇令に定められた祭祀には14あり、このうち室町時代の応永年間まで残ったものは、祈年祭、月次祭、鎮魂祭、新(大)嘗祭の4祭のみで、その他は廃絶されていた。別格扱いの一代一会の大嘗会でさえ、南北朝時代の崇高天皇は行わないまま退位し、応仁の乱以降は大嘗会を行わない天皇が続出した。祭祀を行わないので天皇の要件を満たしていないという指摘は当たらないという。
さて足利義満の王権簒奪である。義満には武家は公家よりも力があるのだから名目的にも上にある必要があるという意識があった。さらに義満は順徳天皇の五代孫であり、後円融天皇とは従兄弟同士であった。この事実は義満の皇位簒奪計画の大きな要因であったと指摘する。義満は時間をかけて、官職の任命権を天皇から奪った。さらに門跡寺院へ義満の子弟の多くを入室させ、寺社をも屈服させた。さらには国家祭祀権、密教祈祷の儀式、陰陽道祭の多くを奪い天皇が持っていた権益を奪っていったのである。そして改元にも関与、1379年の改元では「洪徳」を採用させようとしたがこれはかなわなかった。しかしその後決まった「応永」に関してはその次の改元をさせないということで改元への介入を行なったと言われる。
義満がここまで拘ったのにはもう一つの理由があった。中国による国王としての認定である。征夷大将軍は中国から見れば国王ではなく、それ以上の権力者として天皇がいる限りは将軍は陪臣であることを意味した。そこで天皇をも超越する存在になるため出家、既成事実を積み上げていった。後小松天皇の実母が亡くなったときには、国母を誰にするかで介入、義満の妻である日野康子を准母(国母)とさせ、自分は天皇の准父となったのである。そして自分の男子を皇位継承者とすることに成功、それが将軍義持の弟、義嗣であった。准父となった義満は後小松天皇からも取り立てられ、義嗣は左近衛中将にまで出世、武家としては異例の公家としての内裏元服を行ない、参議従三位になった。ついに義嗣が皇位につくかと思われたその時、義満は病魔に侵され急死したのである。
その後、天皇は権力を取り戻すが、戦国時代には権力がなくなったとされる。統治権喪失、即位・祭祀儀礼衰退、禁裏領荘園の廃絶などが挙げられるが、天皇の権力はそもそも可視的なものから目に見えない抽象的な権威となっていたのだから、戦国時代に没落したのではなく、その前から抽象的な権威となって存続を続けていた、というのが筆者の主張である。義満時代に没落した天皇制度は嘉吉の乱を境にして復活の一途をたどった、という指摘である。ただその復活は実質的な権力復活ではなく、叙任権、祭祀権、綸旨院宣発給などの象徴的権威復活であり、それこそが天皇の権力であったとする。
安土桃山時代から江戸時代にかけての天皇の存在は、反キリスト教の象徴として必要だった、つまり日本は神国であるという外来思想排除の思想的背景であったという。外来思想を否定するには神国思想が必要だった、というドキリとする指摘である。
