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意思による楽観のための読書日記

万葉集であるく奈良 上野誠 蜂飼耳 馬場基 ***

奈良を観光で訪れるときには、京都観光とは心構えを変えて臨んだほうが良いと思っている。理由は観光地奈良は分散していて意外に広いから。面積的には観光地京都市内とそうは変わらない気もする奈良。しかし、その名所旧跡は相当分散している。何を見たいのかにも随分依存する。鹿と東大寺が見たいだけなら、それはJR奈良駅から歩いて回れるが、唐招提寺や薬師寺となると少しそこからは離れているし、法隆寺に行きたければJRで30分ほどは移動が必要になる。大和三山や飛鳥京、長谷寺や當麻寺などは全然別の場所なので、移動するだけでもそれぞれ鉄道か車で30-60分ほどはかかると覚悟したほうが良い。そもそも、市バスや地下鉄など観光にも使える便利な公共移動手段がないので、一日で全部見て回ろう、などとは思わないほうが良い。本書は写真付きで万葉集とその歌が読まれた場所を紹介する。

大和三山は、近鉄で行けば八木駅から歩くのがおすすめ、JRなら桜井。しかし、ただ行って地図を片手に周りを見渡しても、そこには何も見当たらない、と思っていたほうが良い。しかし、万葉集に親しんでから行くと、ここがあの耳成山、香久山、畝傍山、そして大神神社、三輪山、ここからが山の辺の道、甘樫丘などという景色が見えてくるから不思議である。万葉集の時代には、飛鳥京、藤原京、平城京と都が移った。その都度、都に暮らす人達が見る景色が変わった。飛鳥板蓋宮から見えた多武峰(とうのみね)、藤原京では大和三山に三輪山、二上山、平城京では若草山や生駒山である。行ってみるとわかるが、飛鳥京から藤原京の距離は歩いても20分ほど、こんな近いのになぜわざわざ遷都したのか。まだまだ政権の力が弱かったこの時代には、政治で失敗するごとに都を変えた。平安時代以降になると天変地異や怨霊を恐れても元号を変えたように。都とは帝がいる家のある場所。住まいを意味する屋(や)に御(み)という丁寧な修飾語をつけて、「こ」という場所を示す接尾語を付加した単語が「ミヤコ」だそうである。

飛鳥京から藤原京には694年、平城京には710年に遷都、次は794年に平安京かとなんとなく思っていたが、740年に恭仁宮、744年に難波宮、745年に紫香楽宮、そして同じ年に平城京に戻って784年には長岡京で、やっと平安京であった。万葉集にはこうした遷都に関した歌も多い。飛鳥京にはキトラ古墳、高松塚古墳、石舞台などがある。この時代にいた人物には蘇我馬子や中大兄皇子、持統から大海人皇子を経て天武天皇、額田女王、草壁皇子などがいる。万葉集の歌は、その時代に暮らした人たちが見た景色が思い浮かんだら、味わいが違ってくると思う。

飛鳥京から徒歩20分の藤原京、3年ほど前に行ってみたことがある。近鉄八木で降りて、畝傍山に向かい、橿原神宮から東に甘樫の丘を目指す。その北には香久山が見えるので、標高152メートルのこの山に登ってみる、15分ほどの上りである。当然、持統天皇の「春過ぎて・・」を思い浮かべながら。麓に手作りのランドセル工場があったりする。その時代には、麓か山の上に衣がたなびくのが見えたのだろうか、今は木が鬱蒼と生えていて、「山火事注意」の看板もあり、そんなものは見えそうにない。舒明の「・・煙立つ立つ 海原は・・・」という国見の歌からは、ここが天の香久山と呼ばれた所以を感じる。山頂からは畝傍山とその向こうに生駒山系が見える。香久山には香久山神社があり、そこを出ると、藤原京から平城京までまっすぐに続く「中ツ道」が今でも舗装道路で残っている。上ツ道は山の辺の道に続き、下ツ道は橿原神宮から八木、国道24号沿いに羅城門を通って平城京跡までまっすぐに続く、という藤原京と平城京を結ぶ古代の道である。

藤原京や飛鳥京の跡に行くなら、万葉時代に親しんで、十分地理と歴史を頭に入れてから訪れたほうが良いと思う。しかし万葉集を読むならその地を訪れたほうが良いとなると、どっちが先なんだと。古代を楽しむには、時間と手間がかかると思ったほうが良い。

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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