見出し画像

意思による楽観のための読書日記

玉の緒よ 式子内親王の生涯 神戸真理子 ****

後白河天皇の娘で、以仁王の妹に当たる式子(しょくし)内親王の生涯を描いた一冊。式子内親王が斎院を勤めた賀茂神社や野宮神社、生涯の最後に暮らす万里小路にあった大炊殿、頼政が近江から奈良に逃げる際に通った木幡の頼政道など、知っている地名が出てくると、場所を思い浮かべながら読めるので、物語に立体感も出てくる。

保元の乱・平治の乱を経た後の源平の対立、後白河法皇と藤原一族、九条兼実などの間に挟まれながら、時代の流れの中で過ごした宮様の一生は、政治に翻弄された53年であった。平氏の横暴は、清盛の死で大きな転換点を迎える。以仁王の挙兵から数年後、木曽義仲や伊豆に流された頼朝が立ち上がり、都には先に義仲軍が入り、その後頼朝の命を受けた義経軍、そして頼朝の勢力が関東から押し寄せる。平氏の横暴に嫌気が差していた京都の公家たちは、そうした関東武者の乱暴狼藉にも拒否反応を示すが、力ではかなわない。式子内親王は、こうした混乱の中で宮様としても三十六歌仙の一人であり、藤原俊成、藤原定家との関係から歌詠みとして知られた。一生独り身だったが、藤原定家、法然上人との親密な関係をうかがわせる歌や手紙も残されている。

賀茂神社の斎宮を10歳から十年勤めた後から本書物語は始まる。式子内親王の視点からの兄以仁王による平清盛への反乱は、もはやこれ以上の平氏の横暴には耐えきれないと見た、摂津源氏の頭であった頼政による平氏への反旗であったが、呼応するはずの近隣源氏の反応は鈍く、近江から奈良興福寺に逃れる途中、宇治平等院で平家勢力に討ち取られる。神輿に担がれた以仁王は、なすすべもなく惨殺されたとの知らせが京の式子内親王にももたらされ、平氏への恨みと兄を失った悲しみに式子内親王は沈む。

当時の内親王は、後白河法皇の娘なのだから、後ろ盾などいらないと思うが、実際には藤原公光という後見人がいた。式子内親王の母藤原季成の娘成子の兄であり、従二位権中納言にまで昇進するが、その後以仁王の元服を執り行ったことで、後白河法皇のもうひとりの妻平滋子が激怒。以仁王が自分の皇子の競争相手となることに鋭く反応したのだが、後に高倉天皇の母建春門院となる平滋子は、公光の職を解く。そのため後見人の居なくなった式子内親王は住まいを転々とする。宮様なので、それなりの規模と立派な住居が必要なはずだが、父の後白河法皇が残してくれたはずの大炊殿には、対立していた九条兼実が居座っていて、住まいに困るような事態にも遭遇、政治対立の犠牲になる。

歌詠みとして知られた藤原俊成はその娘たちを宮様の女房として仕えさせて、身の安定を図っていたため、式子内親王にも俊成の娘二人が仕えていた。俊成の息子でその弟にあたる藤原定家は姉に会うため、と称して度々式子内親王の居宅を訪問していた。本書は、この藤原定家が式子内親王と恋愛感情を抱きあっていた、という史実にも基づいた設定である。式子内親王の方が10歳ほど年上で、身分の違いも大きいため、結ばれることのない二人ではあったが、生涯惹かれ合う。

表題は、小倉百人一首に藤原定家によって選ばれた式子内親王の一句。「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする」 宮様としてのしがらみやしきたりに縛られ続ける自分の生涯を玉の緒に思いを込めて、言いたくても口に出すことがかなわない自らの恋心を読み込んだ、藤原定家を一生思い続けた自分の思いを歌にだけは解き放とうとするような歌である。式子内親王の歌は、千載和歌集や新古今和歌集などに150以上も残されている。

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「読書」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事