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意思による楽観のための読書日記

戦国、まずい飯! 黒澤はゆま ***

戦国時代を描くドラマを見ていると、大名はやたらにお酒を飲んでいるが、どんな食事をしていたのだろうか。とくに戦場での食事は、大将と一般侍、そして足軽ではずいぶん差があったのではないか。そもそも、ドラマで女性陣が戦場向けにみんなで作る美味しそうな握り飯など本当にあったのだろうか。

赤米:戦国時代までは、治水、灌漑、施肥、害虫対策などのため、限られた人出と農機具性能の限界があり、水稲と陸稲が混在し、美味しいが手間がかかる白米以外にも促成栽培が可能な大唐米と呼ばれた赤米が育てられていた。地主に納めるのは白米だが、百姓自らは赤米や稗・粟を季節をずらして栽培し食していた。精米に必要な石臼も、室町前期には全戸に設置なされていた訳でもないので、五分つき程度のの穀類を吸い物と一緒に飲み込むように食べていたと考えられる。

糠味噌汁:戦国時代までは味付けのメインは味噌で、醤油が広く使われるのはその後の時代。味噌といっても、豆や米麹による発酵ではなく、糠味噌が多く、塩気が薄くてうまく調理しないと現代人には食べられたものではないという。しかし、戦国時代になると、三河、尾張地域の味の濃い豆味噌や関西地区の米麹味噌が広がっていく。味噌と米、というのが戦場での侍のメインの食事となる。

芋がら縄:里芋の茎をよく干して縄にないあげ、味噌で味をつけて縄として荷物を縛るのに使う。戦場での食事では、荷物をほどいてこの芋がら縄を刻んで湯にいれて煮ると、ちょうどいい味の味噌汁になった。

干し飯:もち米を搗いて篩にかけ、白くなるまで水で洗浄、煮て日中に晒干ししたのちに、もう一度石臼で搗いてふるい落として細砂のごとくにしたものが乾飯。戦場で使われた干し飯は、米を水少な目で炊飯したのちによく水洗いし、乾燥四日ほどで完成する。戻すときには、お湯に入れて10分、冷水の場合には4時間で、現代人でも一応食することができるものができるとのこと。

粕取り焼酎:日本にはインドネシアから琉球経由で伝わったとされる戦国時代の焼酎は米が主原料。芋焼酎は1700年以降薩摩の漁師たちが琉球から持ち帰って薩摩に広がり、麦焼酎は壱岐で作られていたとする記録があるが戦国時代の九州は本州に記録はない。米焼酎といっても現代のもののように白麹を使う二段仕込みではなく、コメを原料とする蒸留酒で別物。酒粕、もしくは米醪を蒸留し作っていた。日本全土で作られたのが酒粕によるもので、醪焼酎は南九州特有のもの。

肉:農作業に使われた牛馬を食する習慣は江戸時代まではなく、鶏、雉、鴨、雁などの鳥肉、それにイノシシ、鹿、鯨、狸、兎などを食していた。肉食の禁忌は天武天皇による禁止令が嚆矢であり、農耕に使う牛馬、猟犬・番犬の犬、、時を告げる鶏、人に似ている猿を食することを禁じていた。仏教の殺生戎の影響も強かった。豚を食べないのは、自分の家で育てた動物を殺すことが残酷、という価値観もあったのかもしれない。

ほうとう:甲斐地方の食べ物、とされるが、平安時代の宮廷で食され、武田信玄が野戦食として用いたため、山梨名物となる。野菜を切るときに伝家の宝刀を使ったのが名前の由来とされるが、中国の「ハクタク」、穀物を粉にすることを「ハタク」と言っていた、など諸説がある。粉食は縄文時代遺跡にも煎餅状の残骸が見つかっているが、麺類の歴史は遣唐使が持ち帰った「索餅(さくべい)」が始まり。小麦粉と塩によりグルテン化しコシコシとした食感をもって伸ばして作られたのが素麺、切って作られたのがうどんで、塩を加えないのがほうとう。信玄が戦場の食としてほうとうを進めたことにより、甲斐、信濃といった地方では石臼の普及が進み、その後、蕎麦どころとしても有名になる。

本書内容は以上。戦場の飯はまずかった、という本書。そんな食事で戦ったのは下っ端で普段は農業をしていた足軽たち。戦国時代の軍勢は「何万人」と記述されるが、その食料調達は足軽たちの士気に大いに影響したことと考えられるが、白米と味噌、という食事がどの範囲まで提供できたのかは、時代とその地域の農業状況、季節、そしてリーダーの考え方によりずいぶん異なったことだろうと想像できる。朝鮮出兵の過酷さは、寒さ以外に食事面が大きくて、進軍の最大の障壁になっていたのではないか。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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