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意思による楽観のための読書日記

疫病の日本史 本郷和人、井沢元彦 ***

疫病が歴史に影響を及ぼしたというできごとは度々おきてきた。そもそも、狩猟生活から遊牧、牧畜、採集、定住と生活形態を変えてきた人類が、感染症にかかりやすくなったのが、農耕生活が中心となる集団生活を常とするようになった頃から。そして人類の集団間で伝染するのが、人々が地域をまたがり、世界を移動するようになる時代に顕著となる。欧州からコロンブスがアメリカ大陸に到達し、梅毒を欧州に持ち帰り、アメリカ大陸にはペストと天然痘を残してしまう。これを「コロンブス交換」と呼ぶ。日本列島にも欧州から宣教師たちを介して梅毒が持ち込まれたのは1510年ころとされ、コロンブス交換からわずか20年足らずで到達したことになる。黒田官兵衛、徳川家康の次男、結城秀康などが梅毒がもとで命を落としたとされる。

梅毒流行以前の日本では、人気の遊女は今で言えば売れっ子タレントのような憧れの存在であった。室町時代の有力者は競って遊女と関係を持ち、儲けた子を跡継ぎにもした。管領畠山持国は弟の持富を跡継ぎに指名したが、遊女と儲けた義就に指名替え。その結果、持富の子である政久、政長と義就の間で跡目争いが起きて、応仁の乱の発端となる。しかし、梅毒が遊女の間で流行し始めたことで仏罰、神罰とみなされ蔑視、差別の原因となる。梅毒は戦国時代の有力武将の間で流行、民間治療法として水銀が使われたため水銀中毒による死亡例が多かった。

欧州でのペスト流行はキリスト教への信頼感を落としてしまう。また、聖書は印刷物として流布されておらず、聖職者による教えにのみ伝えられていたのが、活版印刷により広くキリスト教の教えが広がった。聖職者達による汚職や不正を正す宗教改革への動きが起きた。ルネッサンスもこうした神への信仰観変化がもたらしたものだとされる。ペストが日本には持ち込まれず、患者が出ても広がりが限定的だったのは島国であること、鎌倉、室町、江戸時代を通じて貿易活動が限定的、鎖国状態であったことが原因だったと推測される。アジアでも大流行したコレラは、1822年に長崎から流行が始まったが、東日本まで広がることはなかった。しかし安政年間、外国船が度々入港する時代には大流行してしまう。

538年、百済の聖明王から仏典と仏像が欽明帝に送られた。蘇我稲目は仏教推進、物部尾輿は神道推進派である。稲目は仏教に帰依、日本で最初の寺を建立したが、天然痘が流行したため仏教導入が原因とされ寺も仏像も廃却された。この時捨てられた仏像を信濃に持ち帰ったのが本田善光で、善光寺を建ててこの仏像を秘仏として祀った。その後も天然痘は猖獗を極め、敏達、用明と欽明帝の後継者も次々と感染、物部氏側にも流行は広がる。蘇我氏と物部氏の崇仏論争は激化したが、それを収めたのが崇仏派であった厩戸皇子。四天王を祀り、物部守屋を誅殺、崇仏派が勝利を収め、その後の仏教勢力拡大につながる。

天平時代の日本でも天然痘が流行、藤原不比等の4人の息子たちが死んでしまう。流行前に藤原氏は自分たちの勢力を天皇家に及ぼすために、聖武天皇の后となる異母妹である光明子(皇后)に働きかけ、天武天皇の孫、高市皇子の息子である長屋王を自死に追い込んだ。その後、4人共が病死してしまったため、聖武天皇は護国のためと称して、実は長屋王の祟りを怖れて盧遮那仏を建立することになったと言われる。

日本古来の神道では禊をして穢れを祓うことを主たる教えとする。神道には教義はないと言われるが、古事記が神道の実質的な「教義」であり「万葉集」は言霊とも言える。怪我や病気に伴う出血、出産、そして死への忌避が激しい。死んだあとの人間への気配りとしては、生きている人々から遠ざける。仏教では人々が死んだあと、後生のことも救済してくれる。結婚式は江戸時代までは人前式で、神式は大正時代以降、仏教で婚礼をするのは浄土真宗だけ。葬式が仏式となるのは当然のことである。朝廷は現世の雅な世界を対象とし、怪我をしたり血を流す戦いを担当するのが武士、元は農耕民が弥生人で戦いは縄文人が担当するという役割分担があったのかもしれない。朝廷と幕府、公家と武士という棲み分けと同じように、神道が現世、仏教が来世という棲み分けがあったのかもしれない。

孝明天皇が天然痘で死んだのを、長州による暗殺があった、とアーネスト・サトウが日記に書いたので、そういう説を唱える人がいる。疫病説として可能性があるのは、当時始まっていた種痘を逆に使った感染症テロだったということ。そうでも考えなければ、穢れを嫌い、最も隔離状態にあった孝明天皇が感染するということは考えにくい。取り巻きの女官や宮中人には天然痘患者は出ていないからである。後に明治天皇になる息子は種痘をしていたが、穢れを嫌った孝明天皇は種痘を打っていない。そこを狙って長州人が天然痘ウイルスを人を介して持ち込んだ疑いもあるという。その後、公武合体を唱えて譲らなかった孝明天皇の死により一気に長州征伐から薩長による倒幕、開国へと動きが変わる。

現代日本の三大疾病といえば、がん、心疾患、脳疾患であるが、100年ほど前までは結核、糖尿病、コレラだった。さらに日本史における三大疾病とは、天然痘、麻疹、そして脚気である。天然痘では藤原四兄弟を死に追い込んだ天平時代の流行では人口600万人の25-30%が感染死したと推測されるという。麻疹は記録が残る江戸時代には13回流行が繰り返され、文久二年の流行では江戸の町だけで7万人が死亡した。脚気は江戸患いとも呼ばれたように、感染症ではなく白米ばかりを食すると引き起こされる。海軍医高木兼寛は洋食を取り入れ海軍から脚気を撲滅したが、陸軍医だった森鴎外は白米食を推奨し陸軍に多くの脚気患者を生んでしまう。平安時代の藤原氏には糖尿病患者が多く、道長、伊尹、道隆、伊周などが罹患していたとされる。本書内容は以上。

本書を読むとわかるのは、100年前のスペイン風邪でも実施されていたのはマスク、手洗い、3密を避けること。日本史に大いなる影響を与え続けてきた感染症対策で現在との違いは公衆衛生、抗生物質、そしてワクチン接種であり、科学やワクチンの存在の偉大さがわかる。特に、今回の流行でmRNAワクチンが流行開始から1年で治験を終えて接種が開始できたこと、人類の進歩であること間違いない。政治や経済的判断を科学的事実をベースに行うことの重要性を、これから十分に検証してほしい。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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