意思による楽観のための読書日記

継体天皇の謎 関裕二 ***

日本書紀が書かれたのは712年、先の持統天皇時代に命じられ編纂されたのだが、その時の為政者(勢力を持っていたのは藤原氏)によって意図されたのは、皇紀元年は推古天皇の治政から21元(60年が21回回る1260年)前であること、そして蘇我氏の正体と歴史上の活躍の足跡をできるだけ消すことであったという。

「神」という名前が付けられた天皇には神武、崇神、応神がいて、没年の干支年記述がないことから、応神天皇までの実在はないのではないかとされている。武の五王とされた讃、珍、斉、興、武のうち、雄略天皇とされる武、安康天皇とされる興以前の三王は定かではないとされる。継体天皇は応神天皇の五代目の血を引き、北陸の地から呼び寄せられたとされているらしいが、先の仁賢天皇の娘を娶っているのだから、それで正統なる血筋としても良かったのに、実在も明確に記述されていない応神天皇のそれも五代目、という血筋の正当性ぎりぎりの血縁を全面に押し出した理由は何であろうか、というのが筆者の疑問。

筆者の仮説は次の通り。
1. 応神以前の天皇は実在せず、紀元元年から逆算して、古代からの言い伝えの説話が当てはまるようにストーリーを考えた結果、神武天皇の東征や応神天皇の母であり仲哀天皇の妻である神功皇后の新羅遠征、などを組み入れた結果、血統が絶えて天皇家が入れ替わったと思われる3つの初代記の天皇に「神」を付け神武、崇神、応神とした。実際にはこの三人は同一人物である可能性があり、同じ人物である応神天皇の逸話を3人の天皇に振り分けた、というのである。
2. 継体天皇も初代天皇と考えられ、当時から勢力を持っていた三河の尾張氏とのつながりが強いという。
3. 応神天皇は神功皇后と仲哀天皇の子ではなく、武内宿禰の子ではないかと推測する。
4. 中臣鎌足は百済王・豊璋である。
5. 武内宿禰が蘇我氏の祖であるとすれば、蘇我氏の活躍を消し去りたかった日本書紀の編者は、武内宿禰の活躍の記述を避けたかった。古事記によると武内宿禰は孝元天皇の孫だとされる。
6. 神功皇后が卑弥呼だったのではないか。

推測でしかないが、ヒントは古事記、日本書紀、古墳などの遺跡、中国の書物などでしかない。こうした推測を巡らすのは楽しい。
継体天皇の謎―古代史最大の秘密を握る大王の正体 (PHP文庫)

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