筆者は平成20年に本書を発刊しているが、取材開始は昭和54年、しかしすでに多くの関係者は亡き人になっていた。しかし多くの証言と資料から本書を書き起こした。終戦直前に千葉に転属命令が出たので、最前線だからこそ豊富に配給されていた多くの食料を部下に荷造りさせた連隊長、終戦後のソ連軍攻撃に部下に出撃を命じながら一人で降伏し自害せずに生き残った戦車連隊長、アッツ島の守備戦で玉砕を生き延びて占守島に転戦して死んだ将校と兵隊たち、そしてそれ以外にも、終戦を迎えやっと国に帰れると喜ぶ兵隊たちに攻めてきたソ連軍に向けて出撃を命じた将校たちの苦悩をドキュメンタリーとして記録を渉猟する。
占守島の戦いの意味はあったのか、関東軍の兵士たちを加えると捕虜になった兵士の数は60万と伝えられているが詳細は不明である。捕虜になった多くの兵士たちはその後シベリア送りになり、あるものは思想教育を受けた後に共産主義思想に凝り固まって、あるものは赤旗に憎しみを抱いて舞鶴港に帰ったという。ソ連からの帰還兵を赤旗を振って迎えた集団があった。それに対して「そんなにロスケが好きならラーゲリに行ってみろ」と歓迎の群れに突撃した帰還兵もいた。
そしてシベリアでは劣悪な環境での重労働などで施設によっては6割の兵士が死んだ。思想教育に従わない兵士は日本兵同士の内部告発などで処刑されたりして死んだもの多かった。指揮官を失い統率がなくなった日本の兵士たちのシベリアでの実態、武装解除後の捕虜となった兵士の数値は把握されていないという。
日露中立条約は日本に2発の原爆が投下された後に一方的に破棄されソ連は満州に攻め込んだ。占守島攻撃が8月17日に遅れたのは、アメリカ軍がすでに占領している可能性があったからという。ソ連軍はウルップ島までは攻め込んだが択捉・国後には上陸しなかった、それはアメリカ軍占領情報がもたらされていたからだという。真偽の程は不明だが、占守島の戦闘で死んだ兵士たちは、ソ連の領土への欲望のために死んだ。しかしそもそも太平洋戦争自体が日本の満州や東南アジアで日清日露第一次大戦以降に獲得した領土を守るという欲望に発したもの。ソ連の不実を責められる立場にあるのかと自問自答する。
「しかしもし、占守島での戦いがなく、ソ連軍がスムーズにカムチャツカ半島から南下していれば北海道から東北北部辺りまではソ連領となっていたのかもしれない、と考えれば占守島の戦いにも意味を見いだせるかもしれない」。生き残った長島元大尉の証言である。
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