意思による楽観のための読書日記

司馬遼太郎の日本史探訪 ***

源義経、楠木正成、斎藤道三、織田信長、関ヶ原の戦い、朱印船、シーボルト、緒方洪庵、新撰組、坂本龍馬、幕末遣欧使節、大村益次郎、北海道開拓史を取り上げている。

軍事的天才であった義経は戦うという訓練は受けたかもしれないが社会の仕組みと裏側を学ばなかった。一ノ谷、壇ノ浦の戦いは義経の力で勝利したのにもかかわらず、政治の力学を読み切れず、頼朝の気持ちが忖度できなかったために追われる身となってしまった。

蝮の道三という異名をもつ武将、息子に攻め滅ぼされるときに遺書を残している。これだけの戦いをして人も大勢殺してきているはずだが、自分自身の「成仏」は疑いあるべからず、と書き残している、それほど成仏は大事だったのか。

関ヶ原の戦い、この戦いの結果は江戸幕藩体制に大きな影響を与えた。西軍有利と考えられた事前予想は覆り、家康の東軍が一日の戦いで勝利した。司馬遼太郎はこの戦いを「先代社長の秘書課長と大物専務の戦い」と表現、領地の石高で比べてみても19万石と250万石、戦いの性格を表すよく分かるレトリックである。

日本史上の偉大な教育者として挙げられる緒方洪庵、放任教育だったようで、日本中から集まった俊才が適塾で学んだ。弟子には後の日本を支えた大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉、長与専斎などである。吉田松陰の長州での松下村塾を思想教育の塾とすれば、適塾は全国から生徒を集めた語学教育、実技教育の塾であった。緒方洪庵は「医は仁術」を徹底して教えたという。

1867年に幕府の遣欧使節としてパリを訪れた幕府の侍達はナポレオン3世が作った近代都市パリに目を見張った。近代建築だけではない、下水道のすばらしさ、芸術品、人々の洗練された様子など「日本も速くこうしなければならない」と思ったに違いない。攘夷などは吹き飛んだことであろう。目的はパリ万博への出展、日本の刀剣や美術品、書籍などを展示したと言うが、時の印象は画家達に影響を与えたことは当人である侍達には知るよしもなかった。同時にフランスのモンブラン伯爵にガイドされる形で薩摩藩も出展していて、徳川幕府は日本を代表する唯一の勢力ではないことを当時の欧州人達に知らしめることになり、翌年起こった王政復古、明治維新は当然の結果として欧州ではけ止められたという。

昭和40年代にNHKで放映された「日本史探訪」よく見ていた記憶がある。本に登場する対談者として紹介されているのが、これまた同時代の人物達。吉屋信子、海音寺張五郎、松本清張。そして歴史で取り上げた人物の後裔、緒方富雄、内村祐之、アイヌの子孫、萱野茂などである。昭和40年代の時代は今では40年の昔のこと、しかし語られていることは古びてはいない。
司馬遼太郎の日本史探訪 (角川文庫)

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