テニーの49日がすぎました。季節は春から夏に変わり梅雨になろうとしています。それにつれて記憶もだんだんと薄れていきます。
そこで記憶がこれ以上薄れないうちに テニーが亡くなった前後のことを記録しておこうと思います。
まだまだ思いが整理できていないので、長いblogになってしまいました。
●数字は嘘をつかなかった
昨年7月より寝たきりになってしまったテニー、一時は食も落ちて心配しましたが、年が明けてからは
良く食べるようになり、体重も11kg前後をキープしていました。ただ 2月下旬ころより
夜泣きが酷くなり 酷いときには1時間~2時間近く泣き続けることもありました。昼間は滾々と
良く寝ているので 昼夜逆転が起きているのだと思いました。
掛かりつけの動物病院で、心を穏やかにするそのものずばりの「静心」という漢方薬を処方してもらい
それでしのいでいました。
それが4月7日は未明から夜泣きが始まり 朝の8時半ころまで30分ほど寝てはまた泣き続けるという
状態が続きました。朝食の時間になったのでいつものように、食パン(無塩の)・ゆで卵の流動食を与えたのですが
それまでは良く食べたのですがこの時は全く食べませんでした。
この日は診察の予約を入れていたので、午後に動物病院に。体温を測ると37度台後半と犬にしては低いものでした。
そして歯茎をチェックすると真っ白になっていました。貧血を疑い血液検査をしてもらったところ、白血球数が標準値を
大きくオーバーしていました。「炎症が起きているね」と先生。診察室に超音波
暫く観察し「脾臓に腫瘍がありますね」との診断が。「腫瘍ですか」とオウム返しに聞きました。意外でした。「ええ、そこから
ジワジワと出血していると思います。」それが貧血の原因でした。そこで高濃度酸素室にいれ様子を見ることになりました。
■酸素室で休むテニー
酸素室に入ると テニーは滾々と眠り始めました。その前に私と家内が座り獣医さんの説明を受けました。腫瘍の
大きさは5cm程度であること、一番の懸念はそれが破裂して大出血に繋がり、出血性のショックに陥ること、
この大きさになるといつ破裂してもおかしくないこと、テニーの年齢から考えて手術をするのは現実的ではないこと等々
聞きたくないことを沢山聞かされました。
■腫瘍のエコー写真
それに対して私と家内は、テニーが苦しむような治療は望まないこと、自宅で見守っていてやりたい旨を伝え
最終的には薬を処方してもらいそれで経過を見ていこうということになりました。
腫瘍は予想もしていないことでした。2019年3月に腹部エコーを行ったときは全く問題はありませんでした。
ただそれ以降は、腹部エコーを行うときは絶水・絶食になるため、テニーが消耗してしまうのでエコー検査はパスして
きました。2020年3月に血液検査を行ったときは、殆どの数値は標準値内にあったものの炎症反応を示すCRPだけが
1.5と高い値を示し、2週間後の検査でも1.3と高止まりしていました。獣医さんの見立ては、関節の炎症によるものだろうと
いうことでした。事実寝たきりの生活が8ヶ月に及び、テニーの手足の関節はかなり固くなり、無理に曲げようとすると痛がる
場合もありました。
しかしCRP高値の原因は腫瘍でした。数字は嘘をつきませんでした。
この日の夕方、政府は新型コロナウィルス感染対策のため、緊急事態宣言を発出しました。
●闘病
酸素室に2時間ほどいると それまで冷たかった手足もほんのりと温かくなり、歯茎も心なしか紅がさしてきました。
恐る恐る車に乗せ自宅に戻りました。帰宅しテニーを寝かしつけ、子供たちとのLINEグループに状況を伝える
メッセージをアップしました。
処方された薬は止血剤、鉄剤、抗生剤、ステロイドでした。ともかくこれを飲ませました。
4月8日の朝食は、食パン(無塩の)・ゆで卵・バナナの流動食を30%ほど食べましたが、それ以上は口にしませんでした。
水はシリンジで与えると良く飲みました。獣医師に連絡を取り状況を説明すると、水を飲んでいるならドリンク状の栄養補給食品が
あるので それを与えると良いとアドバイスがありました。早速購入して飲ませてみたところそれなりに飲み、結果一日で3缶、
240kcalを摂取してくれました。
4月9日はチーズ、無塩パンなどの固形食と栄養補給ドリンクを3缶、合計470Kcalを摂取してくれました。歯茎も紅色になり
このまま状態が安定すればと思ったのですが、夜9時頃激しい痙攣を起こしました。痙攣は2分~2分半程度で収まりましたが
2回起きました。今まで痙攣などしたことが無かったので ひどく驚きました。
4月10日朝、動物病院のオープンを待ち朝一番で電話を入れ 痙攣の報告をしました。医師によると痙攣している時は犬には
その記憶が無く、苦しみも感じていないこと、但し痙攣が長く続いたり短時間に頻回に起こると脳にダメージを与えるので、薬を
処方しましょうということになり、それを取りに行きました。移動そのものがテニーにダメージを与えるといけないと思い、病院に
は連れていきませんでした。処方された薬は鼻にスプレーするものと座薬でした。でもこれらの薬は、その後痙攣は何度かあったの
ですが使用条件を満たすようなことが無かったので、一回も使用しませんでした。
この日は水もよく飲み栄養補給ドリンクも4缶飲み、合計で320kcal摂取してくれました。
ところが4月11日になると、ほぼ1時間おきに痙攣を繰り返すようになりました。時間は1分~1分半ほどでしたが、結局
1日に11回も繰り返しました。痙攣で消耗してしまったのか水も殆ど飲まず、栄養補給ドリンクも受け付けませんでした。
この痙攣は11日の午後7時50分を最後にピタッと止まりました。
12日、13日と水も栄養補給ドリンクも殆ど飲まず滾々と眠り続けました。でもオシメが濡れると吠えて知らせましたが、
その声は弱々しく小さいものでした。そしてそのオシメを濡らす量も段々と少なくなっていきました。大便は13日の夜に
固く黒い便を少々しました。真っ黒い色が嫌なイメージを感じさせました。
■4月12日お昼ごろ シリンジで飲ませた水が零れてシートを濡らしている
●子供たち そしてSUNKSさんの見舞い
4月7日に子供たちとのLINEグループにメッセージを送ると早速反応が有りました。翌日には長男と次女が夫々一家で見舞いに
来てくれました。長女は職場が緊急事態宣言に対応するために多忙を極め、11日に待ちかねたように矢張り一家で来てくれ
ました。そして夫々一家でテニーと写真を撮りました。
私は週4回透析にために、7時間ほど不在となるので、その間に不測の事態が起こってはと、8日以降長男が音頭を取って
私が不在の時は 子供たちの誰かがいてくれるように対応してくれました。
■見舞いに来てくれた子供・孫たち
■帰りを促されたあっ君は 去りがたいようにテニーを何度も抱きかかえた
4月13日朝、テニーを親身になって世話をしてくれたSUNKSさんに状況を説明し、見舞いに来てくれるように依頼すると
二つ返事で引き受けてくれ、その日の昼過ぎに雨の中を一家と そしてスタッフの新田さんも含め見舞ってくれました。テニーは
3人の顔を順繰りにジッと目で追って 明らかに誰が来たかを理解しているようでした。SUNKSさんには6年間に亘って
本当に世話になりました。テニーも3人に良く懐き、散歩の途中でSUNKSさんの前を通ると勝手に自分から入って行く程
でした。
テニーが鳥がさえずるようにピーピーと鳴きオシッコを教えました。するとアッコさんと新田さんが慣れた手つきでオムツを交換
してくれました。しかし濡れている量はごく僅かでした。次いでシリンジを使って水と栄養補給ドリンクを与えてくれました。
するとそれまで殆ど飲まなかったのが、この時はそれなりの量をまとめて飲みました。結局これがテニーにとって最後の飲水と
なりました。
■見舞いに来て下さったSUNKSの皆さん
■最初から涙目だったアッコさん(左) 襖の破れはテニーの活躍の名残
■テニーは3人に目でしっかりと挨拶をしていた
●虹の橋を渡る
4月14日は虫が知らせたのか、朝から一日付き添っていてやろうと思いました。家内と交代で食事を摂り、交代で添い寝を
してやりました。午前中は呼吸も深く力強いものがありました。しかし水も栄養補給ドリンクも飲みませんでした。唇が渇くと
いけないと思いシリンジを使って湿らせてやりました。
午後になると呼吸が段々と弱く早くなってきました。獣医さんからは「飲まず食わずになったら、2~3日ですよ。」と言われて
いました。飲まず食わずになってから4日目なっていました。
午後6時頃に真っ黒なタール状の便をしました、寝込んでしまってから9か月テニーの便は良くしまった綺麗な便をしていました。
下痢便でペットシーツや自分の体を汚すようなことは一回もありませんでした。かつて犬は最後が近づくと黒い下痢便をすると
聞いたことがあるので、動物病院に電話をし状況を説明しました。「上部消化管からの出血の可能性があります。或いは内臓の
制御が効かなくなったのかも知れません。」と言われました。しかしテニーの消耗を考え「自宅でこのまま静かに見守りたい」と
答えました。
■14日19時に撮った生前最後の写真
午後7時50分にあっ君からFaceTimeでテニーの安否確認がありました。4月7日のテニーの腫瘍の発見以来あっ君は毎日必ず
テニーの安否確認をしてくれました。まだ小学校4年の孫です。状況を簡単に説明しました。かなりショックを受けたようでした。
午後8時40分頃に子供たちとのLINEグループに「テニー今夜が山かも知れません。」とメッセージを入れました。
それから家内と交代しテニーに添い寝をしました。その時は呼吸は弱々しいものの胸は規則的に上下していました。ところが暫くすると
突然テニーが口を大きく開けて息を吸い込むような動きをしました。初めて見る動きでした。とっさに異変を感じ「テニー!
テニー!」と大きな声で叫びました。見ると胸の上下動が止まっていました。「テニー 大丈夫か! しっかりしろっ!」と
叫びテニーの顔を左手で抱えました。その声につられ食事をしていた家内が飛んできて「テニー! 大丈夫よっ! もう良いよっ!」
後は声になりませんでした。テニーは口を大きく開けては閉じる動きを4~5回繰り返し そして動かなくなりました。胸に手を
当てました。心臓の鼓動を感じませんでした。ラルフの最後を思い出しました。黒いタール状の便がまた出ていました。
時計を見ました。午後8時50分でした。17歳と24日でした。
私と家内は泣きじゃくりながら何かを喋っていました。何をしゃべっていたか思い出せません。でも「よく頑張った」「17年
ありがとう」「もう苦しまなくて良いよ」というようなことだったと思います。
暫くしてすぐにやっておかなくてはいけない事があることに気がつきました。口と肛門に詰めものをして体液の漏れを防ぐこと
死後硬直が始まる前に手足を縛り納棺の準備をしておくことでした。でもその前に便で汚れた体を綺麗にしたやりたいと思いました。
我々二人きりでは手に負えないと思い、近くに住む長男にテニーが亡くなったことを伝えながら 手助けを頼みました。長男は
既に予期していたらしく すぐに来てくれました。また長男の嫁さんが長女と次女にテニーが亡くなった旨連絡を入れてくれました。
二人からは折り返し直ぐに連絡が入りました。
長男の手助けを受けながらテニーの体を清拭し、詰め物をし、手足を折りたたんで縛りました。10か月近く寝たきりだった
テニーは関節が固くなり 特に左前脚の第二関節は殆ど動きませんでした。力を込めて曲げるとき、「痛いっ!」って吠えるかと
思ったのですが反応は有りませんでした。涙が止まりませんでした。
ひと段落したところに、次女が駆けつけてきました。子供たちの中でテニーが最も懐いたネネでした。
●コロナ禍の別れ
SUNKSさんのアドバイスを受けながら、葬儀会社を探しました。葬儀は4月16日午後3時から、近くの島田台にある
「動物苑」というところで行うことにしました。
翌日15日は、長女が一家で駆けつけてくれました。花束を持ってきてくれたあっ君は、日ごろの快活さが無く大きく落ち込んで
いました。昼頃には次女の旦那さんが そしてSUNKSさんも一家で夫々花束を持ってきてくれました。テニーの周りが花で
埋まっていきました。また午後からは長男の嫁さんが孫たちを連れてお別れをしに来てくれました。孫たちはテニーに手紙を
持ってきてくれました。最後に紙粘土を使ってテニーの足型をとりました。17年テニーを支えたそれは、大きくて立派でした。
こうして15日は賑やかに過ぎていきました。
16日荼毘の日、午前中から家内と二人でテニーの棺に皆さんから頂いた花を入れてやりました。お棺は大きなバスケットに
しました。別れの準備が始まったことでまた涙が溢れました。テニーの体が花で埋まっていきました。
■花で埋めてやった 孫たちの手紙も添えた
葬儀は午後3時からの予定でした。式場からは2時半頃に来てほしいこと、及び行政からの指導により「密」な状況は作らないで
欲しいことを伝えられていました。お祭り広場に寄っていくことにし家を早めに出ました。16年11月のラストラン以来
テニーはお祭り広場に行っていませんでした。最後にもう一度広場に連れて行ってやろうと思ったのです。
良く晴れた空の下広場には爽やかな春の風が吹いていました。カーゴルームのドアを全開にしその風を思いきりあててやりました。
06年11月の千葉組の第一回ルアーコーシング大会からラストラン迄、10年間で40回ほどのルアーコーシングに参加した
テニーと私にとってこの広場には多くの思い出があります。その思い出が走馬灯のようにぐるぐると回って溢れてきました。
でも言葉に出すことはできませんでした。私も家内も無言で、ただ春の風に当たっていました。
■お祭り広場でのお別れ
式場には2時半前に着きました。子供たちもすぐに全員揃いました。まず子・孫たちがテニーのバスケットに花を入れました。
花は自宅から持参しました。皆無言でした。孫たちのかすかなすすり泣きだけが聞こえました。
■集合写真 市原家13名
3時になりいよいよお別れの式が始まりました。会場側から言われてるように「3密」を避けるために 全員で式場に入ることは
せず先ず私と家内でテニーを会場に入れました。狭い部屋には祭壇がしつらえてあり、その前にテニーをバスケットごと置きました。
小奇麗な部屋でした。換気のために窓が小さく開けられていました。ラルフの時はむき出しになった炉の前に、粗末な祭壇が
しつらえてあっただけでした。随分と違ってるなと思いました。式場の担当者の方から沢山の折り鶴の入ったかごを指し示され
「何かメッセージをお書きください」と促されました。ちょっと考えてから「17年間ありがとう」と書きました。家内と二人で
線香を手向けました。次いで交代で2~3人ずつ中に入りお別れをしました。孫たちも夫々折り鶴にメッセージを書き込みました。
全員のお別れが済むと家内と二人で最後のお別れをしました。13本の線香の煙が流れていました。ラルフの時は5本だったことを
思い出しました。この違いがテニーが生きた時代をそのまま物語っていました。
テニーは市原家にとって一番いい時代を一緒に生きてきました。私は無事定年を越えて勤め上げ、子供たちは独立し伴侶を得
孫も5人になりました。その全過程にテニーは居ました。テニーは間違いなく家族の一員であり、市原家の重要な構成メンバーでした。
そんなことを考えながら手を合わせ、そしてテニーの体をさすり頭におでこを擦り付けました。いつ触っても暖かく柔らかく良い
匂いのしたそれは、ぞっとするほど固く冷たくかすかな死臭がしました。「ありがとう」と一言だけ言いました。
骨になるのに1時間半ほどかかりますと式場の担当者の方に言われました。式場内で待つことはできません。外に出て車の中で
待機することにしました。空を見上げると式場の建物の背後からかすかな白い煙が立ち上っているのが見えました。
「煙が出ているよ」はーちゃんが言いました。「あの煙に乗ってテニ君お空へ登っていくんだよ」息子の嫁さんが静かに言いました。
時間を潰すために子供たちは近くの運動公園に出かけました。家内と二人きりになり車で待ちました。無言でした。
1時間半より少々早く式場から呼び出しがありました。お別れをした部屋と同じ部屋に銀色に光る金属の箱の中に入れられた
テニーの骨がありました。頭の先から尻尾の末端まで綺麗に並べられていました。「非常に丈夫なお骨ですよ。全部揃っています」
担当の方が言いました。「高齢のワンちゃんでここまで残るのは珍しいですね」。そして二人ずつ向かい合って骨拾いをするように
促されました。家内と向かい合い一番太い大腿骨と思われる骨を箸でつかんで骨壺に入れました。同時に尻尾の先のほうの骨2片を拾い
予め購入しておいた分骨キーホルダーに取り分けました。これで何時もテニーと一緒だと思いました。それから最後のお別れの時と
同じように2~3人ずつ交代で部屋に入り骨を拾いました。最後に家内と一緒にテニーの頭の部分、下顎と上顎頭蓋骨部分を骨壺に
入れました。上下の顎には歯が綺麗に残っていました。その中から末の娘が犬歯を自分の分骨キーホルダーへと取り分けました。
骨壺に袋が被せられました。それを家内がしっかりと抱えました。式場の前に一同が並び、中の担当者の方に一礼しました。
とても良くやってくれたと思います。その後皆に向かって「今日はありがとう。テニーも喜んでいると思うよ。本当は皆で食事でも
と思っていたのだけれど、このご時世だから今日はここで解散にしよう。」と挨拶しました。コロナに祟られた別れでした。でも
平日にも拘わらず全員集まることが出来たのは、コロナによる自粛生活のおかげでもありました。
■骨になって帰ってきた 皆さんに贈られた沢山の花に囲まれて
●辞世
皆さんから沢山のお悔やみのメッセージを頂きました。その中から共通するキーワードを拾うと「お空の向こうで元気に走り
回ってね」となりました。そこでテニーを送る歌を作りました。
天空の七色の橋駆け抜けて テニーよ走れルアーを追って
ルアーコーシングが大好きな大好きな犬でした。05年6月4日野田の利根川河川敷で初めてルアーコーシングを走ったのですが、
何の訓練もしていなかったにも拘らず ごく自然にルアーを追い、そのルアーに対する執着心と集中力を皆さんから褒められました。
そこで一念発起し今日のCLCCに繋がるルアーコーシングの団体を立ち上げました。テニーは黎明期の東日本のルアーコーシング
界に少なからず足跡を残したと思っています。
■05/06 初めてルアーコーシングを走る なんと若々しいダブルサスペンションギャロップ!!
■06/11 CLCC第一回目のルアーコーシングで
式の後末娘夫婦とだけ一緒に食事をしたのですが、その席で娘がポツンと「テニーは本当に日を選んで逝ったねぇ~」と言いました。
家族全員とお世話になったSUNKSさんに別れの挨拶をし、私が透析でない日に私の手の中で静かに息を引き取りました。一日
前後しても私は看取れませんでした。最後に大きく4~5回口を開け閉めしました。家内に「さ・よ・う・な・ら」と言ったんだね
と言ったら「あ・り・が・と・う」と言ったんだよと言いました。どっちでも良と思いました。テニーは間違いなく最後の挨拶をし、
私の腕の中で逝ったのです。
式の翌日息子からLINEでメッセージが送られてきました。「前に、『子供が生まれたら犬を飼いなさい』って詩を読んだことが
有ったのを思い出して、その一節に『自らの死をもって子供に”命の尊さ”を教えるでしょう。』と有ったんだけど、昨日の子供たちの
様子を見て本当にそうなんだなぁと思いました。」メッセージを見てとても嬉しく感じました。「そうだよ。ラルフはお前たちに
命の尊さを教え、テニーは孫たちに尊さを教えたね。是非犬を飼ってください。」
ありがとう テニー!! 17年間本当にありがとう。
■2008年9月14日 野田にて テニー5歳