典虚てん手古舞

我が為の日々の記録! 74歳

活字に呑まれたぁ!

2014年12月26日 | 〈記録〉モノとしての本・地図・資料

 昨夜は、少し飲んだので、再読ならぬ再寝を決め込んで、ナナ・ムスクリーの歌を聴きながら、昨日の本の続きを読んでいたら・・・

 ちょっと抜き書きをします。

 663年の秋、今度は明確なメディナ政府の意図のもとにメディナから三隊に分かれたムスリム軍がシリアに派遣された。634年2月ころ、ガザ近くのダースィンでビザンツの駐屯軍と交戦、これを撃破するやアブー・バクルはシリアの諸軍をハーリドの指揮下に統一すべく、彼にサワードからシリアに転戦するよう命じた。・・・634年7月、イェルサレムの南西約50キロの地アジュナディーンの戦いでビザンツ軍に大勝した。この捷報を受けたのちアブーバクルは没し、ウマル(一世)がカリフ(在位634~644年)となった。北上したアラブ軍は、約六カ月の攻囲ののち、都ダマスクスを六三五年九月に条約でもって攻略した。

 ヘラクレイオス帝は巻き返しをはかり、五万強の大軍を召集して南のアラブ軍に向けて派遣した。アラブ軍は、メディナからの援軍を含めた二万五〇〇〇の兵をもってヨルダン川に東から注ぐヤルムーク渓谷に陣取った。六三六年八月、砂漠から南風吹きすさぶなか、ついに世界史的決戦(ヤルムークの戦い)はイスラーム軍の勝利に終わった。・・・・(山川『西アジア史Ⅰ アラブ』144ページ)

 この辺りは、中央公論の世界の歴史『ビザンツとスラブ』の57ページの中に「敗走するビザンツ皇帝」という小見出しの中で、100文字ほどでまとめられて記述されています。

 「ヤルムークの戦い」については、ネットのウィキにちょっこと・・・。しかし、「アジュナディーン」については、見当たりませんでした。

 しかし、この小見出しは、「地中海世界の変貌--世界システム転換」の中の一つですっ この時期に、ビザンツの公用語がラテン語からギリシア語にかわり、統治システムにも変化・・・。

 けれども、「条約でもって攻略」とは、一体どういうこと?という疑問は解けません。

 こうなってくると、事細かな記述の本でないと・・・。 本棚のイスラムコーナーに行くくしかない。 ネットでの情報だって、情報源は、書籍です。

 講談社学術文庫のヒッティ著『アラブの歴史(上)』だと、第12章目で「シリア征服」(292~308ページ)で、22ページを割いて記述されていて、アジュナディーンの位置も地図でしめされ、「条約」についても、疑問が解けました。

 さて、現在は「ロシア史」を軸に活字読みをしているんで、ぼちぼち、イスラムの歴史とはしばらく、おさらばかいね?

 う~ん 今日は、今のモロッコからエジプトにかけての地域の、朝、朝、朝がかなり整理も出来たので、新潮選書『紀行 モロッコ史』をひっぱりだしました。

 ほんと、今日は家にこもって、家事も花仕事も最低限の一日でした。

 

 さてさて、夜になってから寝室から、余分な本を撤収!掃除機をちょっぴり・・・。年末は上孫とのデイトなんで、本を読む時間がないもんね。

 

コメント    この記事についてブログを書く
« 日照が少なくとも晴れ | トップ | もう眠らなくっちゃ! »

コメントを投稿