テンフォワード

浮き草みたいなヤツが、本当にどうでもいいような戯れ言をほざきます。さっさと死ねばいいのにね。

辛気くさい話を続投

2014-06-16 00:59:26 | Weblog
ごく身近な人が亡くなったのって、いつごろだったかなーと思い出してみる。
全部実名公開。


母方のおじい・弥作
小5の冬。
急死だったので、なかなかおじいの死を受け止められず、いつまでもメソメソしていた俺。
葬儀関係で移動中の車内、叔父(おじいの長男・おかんの弟)に宝台橋のたもとで「もう泣くな!」って怒られたのを覚えてる。

おかん・美保子
小6の冬。
長いこと闘病・入院生活が続いており、俺の中では覚悟ができていたので、もしかしたら人前では涙は見せていなかったかもしれない。
前出の叔父が、おかんが入院していた院内で、「BJ先生ならなんとかしてくれたかな」などという軽口を叩いた。
子供ながらに、一瞬沸騰しかけた。
だが、すぐにいろいろ含んだ意味や、彼の気持ちもわかったものだった。でもそんなこと言うなバカ。

父方のおじい・金作
確か中坊時代。あまりにもあいまいでごめん、おじい。
でも、子供のころ、俺は会うたびに、おじいの坊主頭をジョリジョリ触らせてもらうのが好きで、そんなとき、いつもおじいはニコニコしていたのを覚えているよ。
そして今、俺のおとんはあんたにクリソツになってるわ。

母方のおばあ・美智
高3の夏だったと思う。これまた記憶がハッキリせずすみません。
今、おばあが好きだった楳図先生の「闇のアルバム」を聴きながら書いてるよ。
あんたの長男の子供=孫・すなわち俺のカズンは、あんたの知っている長男につづき、女の子が生まれました。
そして、兄妹ともに、あんたにクリソツに育ちました。すくすくと。
でも今、ふたりとも三十路超えて、「結婚する気なし!」だって。どうするよ。

父方のおばあ・カヤ
大学在学中だったか卒業後だったか、これこれまたまたあいまい。
ただ当時、おとんからの電話だってことだけで、「あ、おばあが?」とピンときてしまったのを、記憶している。
おかんが臥せってるときに、俺とおとんの世話をやきに来てくれてたっけ。
まー、ありゃ俺のおとんの要請だったんだろうな。
あと、おれが上京するとき、冷蔵庫とか炊飯器とかを買ってくれた。





みんな、こんなろくでもねえ俺によくしてくれて、本当にありがとう。