光と影のつづれ織り

写真で綴る雑記帳

京都・富山アート巡り#4 京都文化博物館 総合展示

2020年05月23日 | 歴史、民俗

4階の特別展から3階に降りると "京の歴史をつなぐ "

と題されて、ICOM京都大会テーマ「文化をつなぐミュージアム-伝統を未来へ-」に関連した展示がありました。

最初に目についたのが、この写真パネル

 

巨椋池は、私も名前は知っていたのですが、この写真をみて、初めてそのイメージがつかめました。

撮影した黒川翠山氏(本名:種次郎 1882-1944)はアマチュアですが、明治中期以降、はやり始めた

新進芸術としての芸術写真に取り組んだ方で、当時、普及しだしたガラス乾板式のカメラで撮っています。

今のデジタルカメラのような機動性はないので、この写真も、漁師や小舟は演出して撮っていると思うの

ですが、しっかりした撮影技術や、構図の良さから、印象に残る作品になっています。

 

ところで、巨椋池、調べると非常に面白い!

巨椋池の場所は京都盆地の中でも最も標高の低いところです。 京都盆地には宇治川、木津川、桂川の

3河川が流れ込んでおり、天王山のある山崎を過ぎたあたりで3河川が合流し、淀川となって大阪湾に

注いでいます。

グーグルマップの俯瞰写真に、手描きでおおよその場所を示しました。

巨椋池の一帯は、豊臣秀吉が大規模な治水・土木工事を行い、地形が変わっています。(伏見城を築き、政治

経済の中心地にするため)   緑の点線で示したのは、秀吉の工事以前の巨椋池・・・池というより湖!

 

 

下の地図は、秀吉による工事前のもの。 宇治川が巨椋池に流れ込んで、氾濫原または遊水池の機能を果た

していた。 木津川や桂川も巨椋池の西端でつながっていて、洪水時にはさぞや逆流したことでしょう。

この一帯は、大雨が降れば洪水の常襲地帯となっていた。

幻の巨椋池~淀界隈を歩く : 歩きを楽しむ

 

 

下の地図は、明治42年のもの。(写真パネルの当時の地形)

宇治川が巨椋池を迂回するように、伏見を通って流れ、東一口(ひがしいもあらい)で、かろうじて宇治川につながっていたが

明治末期の改修工事で分離され、単独の池となり、次第に水質が悪化していき、蚊の大発生に悩まされる。

一方、池には蓮の花が群生し、見頃の時期には蓮見舟で賑わった。 

木津川も、明治元年、合流部の付け替え工事が行われたりしたが、洪水はその後もしばしばこの一帯を襲い、昭和28年の大洪水

では、干拓された旧巨椋池も含めて、流域一帯が水没した。

近年は、天ヶ瀬ダムの建設や、3河川合流部の改修などで、洪水被害は聞きませんが、警戒が怠れないエリアに違いはない。

 

 

 

次は羅城門、平安京の正門です。 羅城は、もともと都を囲む城壁の意味ですが、平安京を囲む城壁はなかったようで

このため、羅城門はお飾り的な意味合いしかなく、廃れ、無くなってしまった。

平安京羅城門模型(縮尺=1:100) 1980年制作  京都文化博物館蔵

 

平安京の内裏の位置は、現在の京都御所の位置とは違うのですね。 知らなかった。

内裏の右下に現在の二条城がある。

 

 

 

 

 

黒澤明監督の羅生門のポスター。 中世以降は、羅城門は訛って羅生門と呼ばれるようになった。

 

 

 

この写真も黒川翠山氏の作品。 キャプションにもある通り、少し演出が入っているようだが、生き生きとした表情

がうまく捉えられている。

 

 

次は、京都文化博物館の別館=旧日本銀行京都支店の資料写真です。

 

 

 

 

 

 

 

移転閉鎖の後、一旦、平安博物館に変身。

 

 

 

 

 

 

私が、別館に入った時、音楽が聞こえていたのも、なるほどでした。

 

 

 

日本画家・山本 知克の作品。

「大きな屋根」  平成元年(1989)

 

 

 

 

京都文化博物館を見終えて、高倉通りを歩いていくと、京都らしい町家。 

日陰を選びながら、次のアートフェア「artKYOTO]の会場、二条城に向かいます。

 


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