光と影のつづれ織り

写真で綴る雑記帳

大阪歴史博物館見学

2023年12月24日 | 博物館レビュー

大阪城~藤田美術館~京橋と歩き廻った10月21日(土)

天満橋の宿へ戻り、休憩して、大阪歴史博物館へ(歩いて5分)

 

写真は、大阪歴史博物館が竣工した2001年当時のもの。 ラグビーボールのような断面。

右端に旧NHK大阪放送会館、隣の農林会館のビルなどが写っていますが、今は公園に。

デカい新NHKビルや、大阪歴史博物館の建っている場所は、以前、大阪中央体育館があり

大相撲の大阪場所などが開催されていた。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

 

大阪歴史博物館の見学は、10階から。  

下の写真は公式サイトより

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

実写です。

 

 

 

 

 

 

下の写真は、威儀命婦(いぎのみょうぶ)という、天皇に仕える上級の女官。〈背景は加工)

女官の顔が厳しくて、リアルっぽく見えます。 

なお、当時の化粧の参考として、正倉院所蔵の「鳥毛立女屏風」を、ネットから引用。

 

正倉院所蔵の「鳥毛立女屏風」

 

 

 

 

子供たちは、無邪気にが遊ぶ。 

 

 

窓から見える風景

左端の、建設中のビルは、ラグジュアリーホテルになるらしい。

ここには、以前、NTT西日本本社ビル(私も一時、勤務していた)があった。

 

公園中央部分に見える、基礎台が大極殿跡

高速道路も、この部分は地上を走り、高架基礎による遺跡損壊を防いでいる。

 

 

古代の難波

縄文時代までは、河内は湾だった。

 

難波の語源

 『日本書紀』には、上町台地の北側、大阪湾と河内湖を結ぶ海峡出口で、潮の流れが、とても速かったのを

浪速(なみはや)と呼び、訛って難波(なにわ)となったとある。

現代では、浪花とか浪華も使う。漢字に関しては、ややこしい。

 

 

 

 

 

この時代の事件を見て、3年前に連載された夕刊小説、「恋ふらむ鳥は」(著者  澤田 瞳子)を思い出した。

万葉の歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)の半生を描いたもので、子まで成した大海人王子(おおあまのみこ)

別れ、その兄、葛城王子(かつらぎのみこ)の仕切る宮城で宮人として勤めに邁進する。

その後、白村江の大敗、葛城の死、大海人の挙兵で、叔父と甥が争う壬申の乱・・・動乱の飛鳥の世を生きた、

額田王激動の半生が・・・・。

で、Webサイトから、毎日新聞 夕刊 2020/5/25に載った、挿絵(村田涼平・画)を下に貼りました。

宝女王(斉明天皇)から朝鮮出兵の意を受け、宮殿の庭に出て、葛城(中央の人物)や大海人(左側の人物)

と言葉を交わす額田王が描かれている。

今、私が立っている、この地で、約1400年前に、こんなドラマがあったのだ。

 

 

 

歴博ビルの両端は、展望がいい。

 

 

 

 

 

 

次は、中世・近代です。

 

 

 

三十石船について

徳川の初期、淀川の伏見・大阪間の交通機関として旅客専用の船“三十石船”が登場。

米を三十石積めることから三十石船と呼ばれた。

全長約17m、幅約2.5m 乗客定員28人~30人

船頭は当初4人と決められていたが、幕末には“早舟三十石船”が現れ船頭も4~6人になった。

<上り船>
 大阪には4つの船着き場(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)があり、朝早く出て、
夕方

には伏見に着くのが通例。上り船は棹をさして上る所もあったが、十一里余(約45㌔)

殆ど綱を引いて上った。

<下り船>
 伏見の船着き場からは、夜に出て、早朝大阪着というのが一般的だった。

 

天満眺望

 

絵師の田能村小斎は、田能村竹田の孫弟子にあたり、細かく描いているので、拡大してみました。

右端が、網島になります。

さて、八軒屋と天満が出たところで、近松門左衛門の「心中天の網島」道行名残の橋づくしの関連個所を紹介

北へ歩めば。我が宿を一目に見るも見返らず、子供の行方女房の、哀れも胸に押包み、南へ渡る橋柱。
数も限らぬ家々を、いかに名付けて八軒屋。誰と伏見の下り舟、着かぬ内にと道急ぐ、此の世を捨てて
行く身には、聞くも恐し、天満橋

 

浪華曾根崎図屏風

曽根崎川(蜆川とも)の両側は石崖造りの上に、川に半分乗り出すように、茶屋の奥座敷がずっと並び

川を行き交う、小舟も賑やか。

解説には、堂島新地の風景とあるが、曽根崎新地の間違いでは?

 

 

 

文楽人形、いいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

近代現代  7F

 

 

実写。

 

 

 

謡いの練習でしょうか

 

 

 

 

郊外住宅の暮らし

 

 

 

 

 

 

最後の写真は、昭和初期の大阪で、流行の最先端にたモダンガール、(左側の女性)

当時は、モガとかモボ(モダンボーイ)と呼んだらしいけど、もう死語ですね。

以上、15時40分~16時50分の急ぎ足の見学でした。

なお、このビルの地下には、難波長柄豊碕宮の遺跡があり、掘り出したままの状態で

一部を見られるようですが、今回は時間がありませんでした。


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