光と影のつづれ織り

写真で綴る雑記帳

東京国立博物館 特集「木挽町狩野家の記録と学習」(2021.3.5撮影)

2022年01月05日 | 博物館レビュー

昨年の東京国立博物館の展示写真を見ていたら、2021年3月5日(金)に行った

特集「木挽町狩野家の記録と学習」を発見。

そうそう、これ、江戸時代の狩野家絵師たちの息遣いが伝わるグッドな内容でした。

将軍吉宗が、狩野家当主の絵(草稿)に、修正線を書き入れた! 絵もあったり

ふむふむ、と眺め楽しんだ特集を、遅きに失していますが反芻してみます。

ただ、記憶も少し曖昧になっているので、特集のパンフレットや「1089ブログ」(学

芸員の方などの投稿ブログ)などを参照し盛り込んでみました。

 

 

会場光景です。

 

 

 

奥絵師については、「1089ブログ」「奥絵師(おくえし)」の仕事と門人教育に分かりやすい説明がありますので

以下に抜粋させていただきます。 

〈posted by 金井裕子研究員(平常展調整室)
at 2021年03月04日 (木)

江戸幕府の御用を務める絵師のなかで、最上位に位置するのが奥絵師です。旗本にも匹敵する身分で、将軍への直々の
お目見えOK、世襲もOK。絵の代金である報酬(画料)のほかに、家来持つための給与も支給されていました。



江戸幕府の御用を務める絵師たちの序列


江戸幕府の奥絵師は、狩野探幽、尚信、安信の3兄弟から続く家柄にほぼ限られていました。探幽は鍜治橋に、尚信は竹川町
(後に木挽町)に、安信は中橋に屋敷を拝領したので、それぞれ鍜治橋狩野家、木挽町狩野家、中橋狩野家と呼ばれています。

後に木挽町狩野家から分かれた浜町狩野家を加えたこの4家が奥絵師を名乗ることができました(※幕末には住吉家や板谷家も
奥絵師になります)。


この奥絵師の筆頭を務め、画壇の中心的な役割を担ったのが木挽町狩野家です。

奥絵師の仕事は膨大です。まず一か月のうち、決まった日付に出仕(登城)し、「御絵部屋」と呼ばれる部屋に交代で詰めます。
描くものは将軍のお好みの絵だけでなく、幕府から各大名家や朝廷、朝鮮国王への贈答品、姫たちの嫁入り道具、幕府役人たち
への褒美など多岐にわたりました。


ほかにも、全国の大大名から依頼される膨大な鑑定依頼をこなし、将軍やその子どもたちに絵を教え、江戸城や寛永寺の襖絵や
壁画の作画やメンテナンスまで担当していました。

しかも江戸城は数年おきに火事に見舞われたので、それらを考えると、とんでもない仕事量です。画家であり、鑑定士であり、
美術教育者であり、修理技術者でもあったわけです。



公用日記 (天保十二辛丑年秋冬)(部分) 狩野〈晴川院〉養信筆 江戸時代・天保12年(1841)
江戸城内で、第12代将軍・徳川家慶が見守るなか、大急ぎで襖絵を描く狩野〈晴川院〉養信とその兄弟・息子たち


これら膨大な仕事を当主だけでこなすことは不可能です。そのため各家は多数の弟子(=門人)を教育して組織的に対処していました。
木挽町狩野家は常時5、60人の弟子を抱えていたといいます。

この大工房は「画所(えどころ)」と呼ばれ、弟子の育成、絵の鑑定、絵の製作という3本を柱としていました。

 

では展示作品で最初は模写の記録から

雪舟の代表作の模本。(パンフレットから抜粋)

《四季山水図巻(山水長巻)(模本、部分)》 狩野〈栄川〉古信模写 江戸時代・享保10年(1725)
原本=雪舟等楊筆 室町時代・文明18年(1486)

徳川吉宗が狩野古信に命じて3セット描かせ、1つは狩野家の控え、残る2つは幕府と所蔵者である毛利家にそれぞれ収められた。
※作品はパンフに載っていましたが、私は見ていないので調べると、展示期間が2021年2月28日(日)
でだった!

 

 

次は瀟湘八景図、最初にキャプションを

なお、瀟湘八景図は、日本には画面の大小が異なる巻物が、2セット(計16図)入ってきたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

狩野家当主の草稿に、将軍吉宗が修正線を加筆したものです。

まあ、天下の将軍に、サラリーマン絵師は文句は言えないのですが、その日はやけ酒だったかも。

 

 

 

次は、中国の名画を狩野探幽と狩野常信が模写したもの。模写にも個性を感じます。

 

 

 

 

 

展示作品は以上です。 次に「1089ブログ」から参考になった記事を抜粋します。

posted by 金井裕子研究員(平常展調整室) at 2021年02月16日 (火)

―― なぜ模本が大切にされたのか

現代の私たちからみると、模本はコピーやニセモノといったような、マイナスな印象が強いかもしれません。
けれども、「写す」という行為は、創造を生み出すための原点で、今でも美術制作の基礎中の基礎と考えられています。
それは室町時代から江戸時代にかけて画壇を席捲した狩野派の画家たちにとっても同じことです。

そしてそれ以上に、作画上、絶対に模本が必要な理由がありました。それは江戸時代、彼らに期待された絵画がどのよう
なものだったかに関係します。

当時、絵の主な発注者である将軍や大名は、先例、特に吉例を何よりも重んじていたため、まず先例に準じた絵を描くこと
が求められました。加えて贈答用の絵画は、相手の格によって画題や、素材の種類、量までも決められていたため、絵師自
身のオリジナリティを発揮できる部分は非常に限られていたのです。

このような状況下ですと必然的に、先例、すなわち過去の古画や名画の情報を持たない絵師は御用を務めることが出来ません。
逆にいえば、これらをより多く保有している家がより有利になったのです。

そのため、どの家も積極的に鑑定を引き受け、模写する機会を増やし、それをまた次の制作に活かす、というサイクルを作り
出しました。また模写の際、古画や名画に対する感想や、当時の所蔵者情報なども記録するようになります。
各家の模本類は、このようにして集められた膨大な絵画情報の集積なのです。

木挽町狩野家は、江戸時代の狩野派の中でも中心的な役割を担い、将軍のお抱え絵師として全国に多大な影響力を持っていま
した。彼らの手元には全国の大大名からあらゆる古画や名画が寄せられ、大変な数の鑑定をこなしていたことが知られています。
この伝来資料を読み解くことで、江戸時代の絵画制作だけでなく、現在私たちが鑑賞している中世以前の絵画についても多くの
ことが明らかになると期待されています。

 

いかがでしたでしょうか。 私も勉強になりました。 江戸時代の狩野派の絵は形骸化して面白くない

狩野派を飛び出した(破門された)久住守景や、英一蝶の絵は面いのに、と思っていたのですが、こう

した理由があったのですね。

久し振りの勉強ブログに、肩が凝ったte-reoでした。

     補足 木挽町狩野家の系図

     


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2 コメント

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狩野派 (遅生)
2022-01-05 19:02:15
こうやってまとめていただいて、狩野派の事が良くわかりました。
今の時代、ほとんど関心を引かなくなりました。水墨画はどうしても古臭いイメージがあり、不当に評価が低いですね。
私も、狩野〇〇の絵は数点しか持っていません。
返信する
遅生さんへ (te-reo)
2022-01-05 22:46:09
私も普段だったら、江戸期狩野派のことは勉強する
気にもならないのですが、この特集のおかげで少し
見かたが変わりました。

”水墨画はどうしても古臭いイメージがあり、不当に評価が低い” そうなんですね。私は、現代アーティストでも水墨画を使っている作家をよく見ますし、古臭いイメージはないのですよ。
イギリスの現代アーティストのデイヴィッド・ホックニーの著作のなかでも、レンブラントの素描と中国水墨画の墨の表現を讃嘆していました。
いいものは時代を超えると思うので、大丈夫ですよ。
狩野〇〇の絵を数点お持ち・・・うらやましい。
ブログでご紹介いただくと嬉しいです。
返信する

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